(2)
崖から柔らかなひさしが次々と飛び出してくる。トゥエニを抱きかかえたルォは、一枚ずつひさしを突き破っては下降していく。
何度かの休憩を挟んで、ようやく“大穴”の底にたどり着いた。
太陽の光は降り注いでいる。地面は硬く、草花も生えている。風も穏やかで温暖な気候だったが、周囲には息が詰まりそうなほど濃密な魔の気配が満ちていた。身体を慣らしていなければ、気を失っていたかもしれない。
「むっ。隠れるにゃ」
フニャピッピの警告に従い、岩陰に身を隠す。
やや離れた位置にある森の上空に、複数の巨大な影が旋回していた。
その数、十体ほど。
「厄介なやつ。岩王鷲にゃ」
「僕の親魔獣だ」
「そうにゃんか」
地上では鳥系の魔獣はめったに見られない。獣を魔獣に変えるという魔気が、霧のように地表近くを漂っているためと考えられているが、ここは“大穴”の底。魔気は上空まで充満している。
「先は長いのにゃ。できるだけ魔獣に見つからないように、慎重に進むにゃ」
「うん」
「わかりました」
行く手に現れたのは、樹齢数百年はあろうかという巨木が生い茂る広大な森だった。鮮やかな苔の絨毯が地面を厚く覆っている。
むろん街道などない。フニャピッピが指し示す方角に向かって歩くだけ。トゥエニは歩き慣れておらず、靴擦れを起こしてしまった。
すぐにルォが気づく。
「ペッポコ。足、痛いの?」
「ごめんなさい」
「靴、脱いじゃお」
ルォの提案で、ふたりとも裸足になった。
進行方向の地面が虹色に光り輝き、平らな、しかも柔らかい道が生まれる。
「そんにゃ魔法の無駄遣いして」
“荒野”で“雪風”と呼ばれる平原を墓地に変えるほどの力を持つルォである。子供が手を繋いで通れるくらいの道を作ることなど造作もない。
「おかしいのにゃ」
すぐに疲れ果てるはずと予想していたフニャピッピは、しきりに首を傾げていた。
「“魔の力”は、強い魔法を発現させることができるにゃが、消耗が激しい。“祝福”を受けてるとはいえ、そんなにもつはずが」
その時、ばきばきと、何かが引きちぎられるような音が響き渡った。
森の上に、蛇のように長い首と丸い頭が現れた。実際には蛇ではなく、首の下には巨大な胴体と四本の脚、そして長い尾がついているようだ。
大きさは、目算で人三十倍以上。
「千年竜にゃ」
「うわぁ」
「こんなに大きな魔獣、見たことありません」
ルォとトゥエニが、そろって目を丸くする。
「地上にはいないのにゃ。“一番”が名をつけたにゃ」
千年竜は巨木を口に咥えていた。空を見上げるようにして、樹木を丸呑みにする。首が曲がらなくなってしまうのではないかと思えたが、千年竜は強引に首を曲げて、喉の中で巨木を粉砕してしまった。
あまりの迫力に圧倒されてしまう。
「しっぽの方から回り込むにゃ」
徒歩であり少人数であることが幸いした。トゥエニが持つルーン石は、魔獣から姿を隠す小さな結界を張ることができる。ルォとふたり手を繋いでいれば、完全に隠れられるし、馬車と違って物音も立たない。
それでも慎重に、息を潜めながら回り道をする。
「心配するにゃ。あてちは案内人。不測の事態もちゃんと想定してるにゃ」
フードの中から、フニャピッピはルォの肩を叩いた。
「まずは暗くなる前に寝どこを探すにゃ。夜の森は常に危険ととにゃり合わせ。よい場所を見つけにゃいと、魔獣に襲われてすぐ死ぬのにゃ。気合を入れてかかるのにゃ!」
リビングにキッチンと寝室、井戸まで完備された、安全かつ快適な地下の家を見て、フニャピッピは渋面になったが、何も文句は言わなかった。
釜戸の中の木の枝に火をつける。
「なんにゃ、それ?」
火のそばにルォが奇妙な塊を置いた。
「碧苔と、紫苔。いっぱい生えてた」
崖を降りる途中で見つけたのだという。
「苔なんて、食えたものじゃないにゃ」
簡単な食事を終えてベッドに入った時には、ルォもトゥエニも疲れきっていた。“縁の祭壇”から“大穴”の底まで、一日で大変なことばかり起きたが、まだ終わりではなかった。
突然、地下の家が揺れ出したのだ。
「魔獣たちが喧嘩してるにゃ」
空気穴から、けたたましい鳴き声が聞こえてくる。
「ルォ」
「だいじょうぶ」
ルォは不安そうなトゥエニの頬に手を当てると、じっと見つめた。
あ、この感じと、トゥエニは思った。
「何も心配はいらないよ。君は、オレが守るから」
だが、ルォは寝つきがよい。ひとりだけすやすやと眠ってしまう。魔獣の声は途切れず、樹木が引きちぎられるような音や岩が砕けるような音まで聞こえてきた。
「フニャピッピ」
「なんにゃ」
「他の星姫さまのこと、教えて」
「む〜、しかたないにゃ」
枕元で丸まっていたフニャピッピも寝つけなかったようで、話し相手になってくれた。
トゥエニは他の星姫のことを知りたかった。
辛かったのか、悲しかったのか。それとも、強い覚悟を持って耐え抜いたのか。
そして。
暗闇の中、隣で寝ているルォの肩にそっと頬を寄せる。
どうやって未練を断ち切ったのか。
◇
アルシェの街は、かろうじて持ち堪えていた。
すべての方角が魔獣たちに囲まれている。幸いなことに鶏冠熊や月角乃象といった“超大物”はおらず、力技で外壁を破られることはなかったが、外壁をよじ登ることができる魔獣が何体か侵入し、すでに多くの犠牲者が出ていた。
街警隊をはじめ魔獣狩りや魔法使い、さらには住民から募った義勇兵でいくつかの班を組み、昼夜を問わず警戒に当たっているが、士気は低い。
それでも何とか持ち堪えているのは、奇妙な司令官補佐が現れたからだ。
「東の水道橋は、この街の生命線です。この近くで戦ってはいけません。ゆえに、西門の外を戦場とします」
市役所内の大会議室。机の上に広げた街の図面を前に采配をふるっているのは、マァサだった。
「こちらから仕掛けます。魔獣狩りの方を選定していただけましたか?」
「はっ」
街警隊長が胸を張って答えた。
「補佐殿のご要望通り、身の軽い魔獣狩りをひとり」
「結構。ルーン石をお渡しします」
「ですが、街門を開けるわけには」
「昇降塔の窓からロープで降りてください。出入りできるだけの十分な大きさがあり、壁面には足場となる窪みがあるはずです。この時間帯は、あまり風が吹きません。痺れ薬で“小物”の魔獣を動けなくし、一体だけ傷つけてください。あとは魔獣たちが勝手に争い合ってくれるはずです。魔獣たちもかなり」
冷徹な口調と表情で、マァサはぞっとするようなことを口にした。
「飢えているでしょうから」
「と、共食いをさせると」
「魔獣にもさまざまな種がおります。共食いをする可能性は低いでしょう」
そういう問題ではなかったが、指示を受けた街警隊長はごくりと唾を飲み込んだ。
一方、穏やかに茶飲み話をしているのは、腑分け担当の老婆、スゥ、ヌラ、モリンである。
「マァサちゃんは、たいしたものだわ」
「あたしは昔から分かっていましたよ」
「あら、あたしだって」
ちなみにクロゼは、“壁の家”に残ってテレジアの看病をしている。マァサに代表を譲り肩の荷が下りたからか、テレジアの気力は衰え、頻繁に体調を崩すようになった。
「小さいころから、そりゃあ立派なものだったわ」
「過酷な環境でも、泣きもせず、落ち着いていて」
「あら、そんなこともないのよ。やっぱり、テレジアさまの期待が大きすぎたのかねぇ。いつだったか、きつく怒られたことがあって、テントの影でマァサちゃんが――」
「あの、皆さん」
マァサにとって三人の老婆は、歳の離れた姉のようなもの。“星守”の代表になったことで威厳が備わったとしても、頭が上がらない。
少し頬を赤らめながらお願いする。
「魔獣狩りの方に、“祝福”をお願いできますか?」
“女神の血”を宿す星姫には遠く及ばないものの、メイル教の敬虔な聖職者が三人で力を合わせれば、対象者の身体能力を一時的に向上させることができるのだ。
「いやぁ、“星守”殿」
食糧不足だというのに相変わらず太ったままのノランチョが、感心したようにマァサの采配を見守っていた。
「なかなかに、堂にいったものだ」
「知識だけです。うまくいくとは限りません」
正直にマァサは答えた。
星姫を“試練の旅”に送り出したあと、アルシェの街を守るのも“星守”の役割であった。
過去の戦いから生まれ、代々“星守”が受け継いできた仕掛けや戦術について、マァサはノランチョに伝えようとしたのだが、教わっている時間がないという理由で、なぜか臨時の司令官補佐という役職に抜擢されてしまったのである。
「いや、我々よりはましだ。結界とやらで知らず知らずのうちに守られていたおかげで、我らには実戦経験どころか、戦う気構えすら失っていた」
「ですが」
「すべての責任は、執政官および司令官たる私がとる。“星守”殿におかれては、貴重な知識を余すことなく、存分に活用していただきたい」
ここまで言われては、マァサとしても断るわけにはいかない。微力を尽くしますと答えるしかなかった。
ノランチョとしては、正直、戦いどころではないという理由もあった。
総務部長が青い顔をして飛び込んでくる。
「市長閣下、大変です!」
「またか」
市長と呼ばれる時は、内部の問題である。
食糧難に端を発する暴動に、各地区の代表からの意見、抗議、弾劾請求。数え上げたらきりがない。
「内憂外患とは、まさにこのことだな」
外が破られても内が暴発しても、この街は滅びる。どちらが早いのかは、微妙なところ。
もって、十日ほどか。
それまでに星姫と呼ばれる王女が“縁の祭壇”にたどり着くことができたならば、あるいは助かるかもしれないが。
十日後。ノランチョの予想通り、陥落寸前となっていたアルシェの街に、強力な援軍が現れた。
“星守”の騎士たちと勇者隊のメンバーが、そろって帰還したのである。
だが、手放しで喜ぶことはできなかった。
“星守”の騎士も勇者隊も、目的を果たすことはできなかったという。
オズマの裏切りと、“盟約”に関する真実。
王女と魔法使いの少年の新たなる旅立ち。
双方からの報告をまとめ、ようやく事態の全容を把握したノランチョは、重苦しいため息をついた。
*
「たとえ力や知恵、知識があろうとも、歩み寄ることができなければ、悲劇は起こり得る」
今さらできることは限られていた。
これまでと同じ。
ぎりぎりまで粘り、生き延びることだ。




