(1)
ふたりと一匹だけの旅となった。
ルォはリュックを背負い、トゥエニが水筒を肩にかけている。小さな角獅子は背中の羽を動かしながら、道案内をするように前を歩いていた。
神殿の北側には小さな森があった。
森を構成する樹木は、背が低く、葉も細い。ゆえに日の光もよく差し込んでくる。
「白松だ」
ルォによると、白松は風や乾燥に強く、岩の割れ目からでも幹や根を伸ばすのだという。木の幹に羽毛のようなものが生えており、朝露がつくと真っ白になる。喉が乾いた時には水分補給もできる。
図鑑などには載っていない実用的な知識に、トゥエニが興味を覚えた。
ルォは薬草にも詳しかった。村には医者がおらず、自分たちで薬を作るのだという。森の中で見知った草花を見つけては、効能などを教えてくれる。
“荒野”の土地に生えている植物は、見たこともないものばかりだったのに、この森にはごくありふれた植物が自生している。ひょっとすると、はるか昔に人の手で作られた森なのかもしれない。
「ところで」
そんなことを考えていたトゥエニに、地面をとことこ歩きながら角獅子が聞いた。
「ペッポコというのは、なんにゃ? お前の名は、トゥエニじゃないのにゃ?」
「えっと」
初めてルォと出会った時、とっさに口にした偽名で、いまだにルォはその名を使っている。
「その、愛称みたいなものです」
「人は面倒だにゃ。数も多いにょに、いくつも名を持つとは」
巨大な獣だった時には迫力があって怖かったが、今の角獅子の姿はちょっと気の強い子猫のようなもの。本当は撫でたり、抱き上げて頬擦りしたりしたいのだが、簡単にはさせてくれそうにない。
もっと仲良くなる必要があった。
そのためにはまず、名前で呼び合う必要があるだろう。
「角獅子さまのお名前は?」
「にゃい」
「どうしてですか?」
「この世に聖獣は、あてちのみ。区別する意味はないのにゃ」
「では、わたしがつけてもいいですか?」
「好きにするにゃ」
窓から見つけた小動物に勝手に名前をつけて呼んでいたトゥエニには、自信があった。
両手をぽんと合わせて、嬉しそうに笑う。
「あなたのお名前は、フニャピッピです!」
白松の森を抜けると、地面が消えた。
まるで世界を切り取ってしまったかのような、断崖絶壁。
「ここが“大穴”の縁にゃ」
神話では、天空の城から追放された邪神が地上に落とされた時にできた穴だというが、穴の底は霞み、対岸は見えない。
「“大穴”の底は地上よりも魔気が濃いから、強い魔獣がうにょうにょいるにゃ」
「大峡谷」
ぽつりと、ルォが言った。
「ここ、大峡谷だ!」
ルォが生まれ育った村の外れには、大峡谷と呼ばれる崖地があり、そこでルォは苔取り屋として働いていた。
「村と、繋がってるのかなぁ」
縁の先を、どこか懐かしそうに眺める。
「用があるのは、穴の底にある“箱庭”にゃ」
「ひょっとして、あそこ?」
ルォが指差した先には、何も見えなかった。
「銀色の大きな木と、泉がある」
「み、見えるのかにゃ」
「うん」
「なんで知ってるにゃ」
「アッカレ城の色ガラスで見たから」
以前トゥエニが住んでいたアッカレ城には、閉ざされた大聖堂があり、窓の色ガラスに物語のような絵が描かれていたのだという。
そこには、かつてマァサが語った神話らしき場面や、トゥエニと角獅子が邂逅した場面もあったらしい。
「きっと“六番”についてきたあいつが伝えたのにゃ。余計にゃことを」
ぶつぶつと文句らしきものを呟いてから、フニャピッピは前足で地面を叩いた。
「とにかく。“大穴”の底には、ここから降りるしかないのにゃ。おい、お前。えげつにゃいあの魔法で、なんとかするにゃ」
地面から土色の蔦が伸びてきて、フニャピッピの体に巻きついた。そのままルォの目の前まで持ち上げられる。
「ぎにゃあ」
母親が悪戯をした子供にそうするように、ルォはフニャピッピの頬を摘んで横に引っ張った。
「ル、ォ。お前なんて言っちゃだめ」
「わ、わかっはにゃ」
空も飛べない役立たずのフニャピッピは、ルォが着ているコートのフードに潜り込む。
問題はトゥエニだった。怖がって、崖の縁に近づくこともできない。
ルォが胸に手を当てて、一礼した。
「おくさま。わたくしめが、寝室におはこびいたします」
あ、この感じと、トゥエニは思った。
時おりルォは、芝居がかった仕草で謎めいた台詞を口にすることがある。父親の真似をしているらしい。言動から察するに、とても紳士的な人だったのだろう。
ルォはトゥエニの背後に回り込むと、肩と膝に手を当て、一気に持ち上げた。
この抱かれ方は知っていた。
“勇者物語”の最後のページ。父王に幽閉されたオフィリア姫を勇者マルテウスが助け出し、ともに旅立つ場面だ。
オフィリア姫はこうしていたはず。
トゥエニはルォの首に両手を回して、ぎゅっと目を閉じた。
「じゃあ、いくよ」
「は、はい」
崖の縁に向かって、ルォは無造作に歩き出す。
「気をつけるのにゃ」
トゥエニの顔のすぐ近く。フードの中から上体を出しながら、フニャピッピが忠告した。
「信じてる、にゃ」
ルォの歩みは止まらない。
フニャピッピは前言を翻した。
「ま、待つのにゃ。ひょっとして、お前って言ったこと、まだ怒ってるかにゃ? そんなことないにゃ?」
吹き上げるような風を感じる。
「わ、悪かったのにゃ。ルー」
急に、身体の重さが消えた。
「ウォぉおおおおおっ」
少し落下して、柔らかい何かに着地する。そして再び身体の重さが消えて、落下する。落下するたびにフニャピッピが悲鳴を上げるので、とても恐ろしいことが起きているのだと、トゥエニは思った。
やがて、落下が止まった。
「休憩しよっか」
目を開けると、そこは岩石で囲まれた不思議な空間だった。トゥエニは周囲を見渡した。天井にはひさしのようなものがある。床は平らではなく丸みがある。後方は岩の壁、そして正面には空が見えた。巨大な器を縦に割ったような、岩の窪みの中だ。
ルォ曰く、岩王鷲という魔獣の巣を模して作った休憩所なのだという。
風の音が強い。外は強い風が吹き荒れているのだろう。
「アニキが言ってた。大峡谷では、一気に登ったり降りたりすると、身体によくないんだって」
身体を慣らすため、苔取り屋たちは少しずつ休憩をとりながら苔を探すらしい。
「とんでもない力にゃ」
フードの中から上体を出し、前足をだらりとルォの肩にかけながら、フニャピッピが言った。
「お前、じゃにゃい。ルォも、あいつと同じにゃ」
「あいつって?」
「“六番”がつれてきた、人のオスにゃ」
「六番って?」
「六番目の“星姫”にゃ。名は確か、オフィ、リア?」
「オフィリア姫?」
トゥエニが目を丸くした。
「ひょっとして、男の方のお名前は、マルテウスですか?」
「確か、そんなだったにゃ。知ってるのかにゃ?」
「少しだけ」
だが、オフィリア姫がかつての“星姫”であり、勇者マルテウスと関係があるとは思わなかった。
「前回、といっても今から七百と九年前だにゃ。あの時も苦労したにゃ。人の王が“六番”を隠して、あてちが呼びにいったら、大騒ぎになったのにゃ」
勇者マルテウスも、ルォと同じようにとてつもない力を持っていたという。
「ひとりで“荒野”の魔獣を蹴散らし、“果ての祭壇”まで“六番”を届けたにゃ。それだけじゃなく」
フニャピッピは嫌そうに顔を歪めた。
「あてちを脅して、“箱庭”までつれていかせたにゃ。まったく無礼な人のオスだったにゃ」
「そう、ですか」
有名な伝説と自分が繋がっていることに、トゥエニは奇妙な気持ちになった。ひょっとすると数百年後、自分も同じように語られる日がくるのかもしれない。
ルォが岩の器を作って水筒の水を注ぎ、何かを入れた。
「白松の葉っぱ。身体をあっためてくれるんだ。本当は、お湯がいいんだけど」
「まかせるにゃ!」
フニャピッピが口をすぼめて、細い火を吐き出す。
白松のお茶で一服してから、ふたりと一匹は“大穴”の底に向かって出発した。




