(6)
始まりは、三千年前とも四千年前ともいわれている。天空の神と地上の人が、今よりもやや親しい関係にあった時代。突然、雷鳴とともに衝撃が走り、大地に大穴が開いた。そこから溢れ出た瘴気によって、獣たちが凶悪な魔獣と化し、暴れ出した。
困り果てた人の王は、大穴の淵へと赴き、満天の星空に向かって救済を願った。そこは、神々が住まう天空の城にもっとも近いとされる場所だった。
切実な王の願いに、一柱の女神が応えた。
救いを授かった人の王は、遠い未来のことを憂い、この場所に祭壇を設けることにした。
“果ての祭壇”である。
その後、幾世代か後の王の事業により、祭壇を覆う神殿が建立された。六角柱の形をしたこの神殿は、アルシェの街と同じく魔獣の目を眩ませる結界により守られているという。
確かに魔物に荒らされた形跡はなかったが、悠久の時の中で、古の神殿は朽ち果てようとしていた。大柱にはひびが入り、浮き彫りの装飾は薄れ、ドーム状の天井はところどころ崩れ落ちている。
神殿の中央部、光の筋の下に六角形の台座があった。
そこに、巨大な獣が伏せていた。
鮮やかな青色の毛並み。渦を巻くような形状の乳白色の角。威風堂々たる獅子の体を、猛禽類のような翼で覆っている。大きさは人五倍ほどだが、翼を広げれば人十倍を超えるだろう。
蒼き魔獣、あるいは角獅子と呼ばれる獣であった。
その威容に圧倒されたかのように、来訪者たちが恐る恐るといった様子で近寄った。
五人の騎士と、二人の子供である。
翼を持つ獅子の獣は、不機嫌そうに頭を上げた。
『遅かったな。先代よりもさらに遅い。人の王は、どんどん愚かになってゆくのか?』
言葉は発していない。獣の意志は直接心に響き渡った。
二人の子供を庇うように騎士たちが身構えた。いくら神話を信じているとはいえ、殺気にも似た怒りの感情を叩きつけられて、本能的に行動してしまったのだ。
青毛の獣は不機嫌そうに唸った。
『“女神の血”を置いて、早々に立ち去るがよい』
運搬隊の隊長であるガンギが進み出て、片膝をついた。
「“星守”がひとり、ガンギめが“角獅子”さまに申し上げます。我々の役目は、“星姫”を“果ての祭壇”にお届けし、また無事にお返しすること。“封印の儀”が終わるまで、この場で待機させていただきたい」
『愚かで、さもしく』
「は?」
『そして、どし難い』
獣は大口を開け、咆哮した。
『女神より授かった救いを蔑ろにするだけでなく、同胞の犠牲で生き延びる罪すらも、忘れようというのか!』
朽ちかけた神殿を震わすほどの咆哮と、怒りの思念が放たれた。
ガンギは身をすくめ、老騎士たちが膝から崩れ落ちた。まるで重石を背負ったかのように動けない。
『お前たちに、救われる価値などない!』
この場にいる者の中で獣の真意を理解できたのは、トゥエニだけだった。おそらく角獅子は、哀れな“星姫”のために怒ってくれているのだと。
でもそれは、彼女の本意ではなかった。
「お、お待ちください」
震える心を叱咤し、獣の怒りをおさめようと少女が進み出たその時、後方から別の一団が現れた。
「ああ、やっと追いつけましたよ」
ありえないことだった。
“星屑野原”は見通しのよい場所だった。何度も後方を確認したが、迫っている馬車はなかった。先回りでもしていなければ、出会うことはないはず。
それは、少女がともに旅をし、途中で逃げ出した相手。
勇者隊だった。
先頭のオズマがトゥエニを一瞥した。いつも口元に貼りついていた笑みはない。バッツ、パウルン、テンク、フウリもいた。後ろめたさから、少女は目を逸らした。
「誠に申し訳ございません、角獅子さま。この者たちは、旅の途中ではぐれてしまった別働隊。“盟約”の内容もろくに知らされていない下っ端なのです。代わりに、責任者である私がお詫びしますよ」
「こ、黒首隊!」
騎士たちが立ち上がり、剣を抜き払ったところで、再び獣が咆哮した。
『この場で、下賎な血を流そうというのか、痴れ者が!』
皆が萎縮する中、ただひとり平然とした様子のオズマが、仰々しく一礼した。
「角獅子さま。今から星姫さまをそちらにお連れします。我々の、多くの同胞をお救いください」
獣は勇者隊のことも睨みつけたが、威嚇することはなかった。それどころか、少し溜飲を下げたかのように鼻を鳴らした。
『ふん、少しは話が分かるようだな』
「はい。私は、己の分というものを弁えております」
“星守”の騎士たちは混乱した。
黒首隊が堂々と歩み寄ってくる。だが、攻撃をしかけることはできない。どういうわけか、自分たちだけが角獅子から怒りの意志を向けられているからだ。
だからといって、むざむざと星姫を渡すわけにはいかない。武器を使えば流血沙汰になる。確実に角獅子の機嫌を損ねてしまうだろう。時間も選択肢も少ない中、ガンギが最後に頼ったのは、やはりルォの魔法の力だった。
「ルォ。あの魔法使いたちを、拘束――」
「やあ、ルォ君」
穏やかな声で頼みごとしたのは、オズマだった。
「“星守”のみんなを、拘束してくれるかな?」
「こうそくって、なに?」
「ああ、ええと」
オズマがバッツを指差した。
「このお兄さんがやったみたいに、岩の縄で動けなくすることさ。できるかい?」
「うん、できる。“泥縄”」
少年の瞳が紅く輝き、魔法が発動した。床石が分解され、いくつもの触手のようなものに変化し、五人の騎士たちを拘束した。騎士たちは超人的な力で拘束を解こうとするが、両足を浮かされてしまう。
「ル、ルォ! 何を」
騎士たちはさらに混乱した。
驚いたのは“星守”ばかりではない。勇者隊のメンバーたちも複雑そうな表情で見守っている。
「ルォ。どうして」
トゥエニは呆然と呟いた。
少年は不思議そうにトゥエニを見つめ返した。表情や仕草に変化はない。ただ行動のみが常軌を逸している。
「むだですよ、王女殿下」
オズマの手の平の上に、一瞬だけ炎が現れ、消えた。
その炎にトゥエニは見覚えがあった。お披露目の式典でタバシカが使い、また試練の旅の途中、アッカレ城でオズマが自分に使おうとした、人の心を操る炎の魔法だ。
「さあ、お時間です」
「い、いや」
オズマが目の前までやってきたが、ルォの隣よりも安全な場所などない。だからトゥエニは逃げることができなかった。
「どうか、ご自分の役割をお受け入れください、星姫さま。でないと、ルォ君に」
オズマはトゥエニの耳元に顔を近づけると、ぼそりとつぶやいた。
「あの騎士たちを、絞め殺させるぞ」
トゥエニは目を見開き、硬直した。
「さあ、なにを迷うことがあるのです? あなたは、この国を救うために、はるばるここまで来たのでしょう」
オズマは片手を差し出した。
「私は、決断の遅い人が嫌いです。たとえそれが、子供であったとしても」
怯えるトゥエニを見て、オズマはため息をついた。
「やれやれ。少年の心に傷を残すのは、本意ではないのですが、やむを得ませんね。ルォ君、“星守”の人たちを――」
「ま、待って!」
やっとのことで、トゥエニは声を出すことができた。
「待ってください」
この魔法使いは、きっとどんなことでもする。逆らうことはできない。
「い、いっしょにいったら、ルォを、みんなを助けてくれますか?」
あっさりとオズマは頷いた。
「目的さえ果たせたなら、彼らに用はありません。すぐに解放して差し上げましょう」
単なる口約束にすぎない。分かっていながら、トゥエニはその言葉に縋るしかなかった。




