(9)
試練の旅が始まった当初、トゥエニは形容し難い圧力に翻弄され、流れに身を任せるだけだった。
旅の序盤、王都からカロンの街までは、たくさんの人々がトゥエニと勇者隊を出迎え、歓迎してくれた。
しかし旅の中盤、小さな町や村を訪れると、人々は家の中に引きこもり、警戒するような目でこちらを見てきた。中には故郷や家を捨てて逃げ出す人たちもいた。街道で大荷物を運ぶ一行と何度もすれ違った。
もっとも衝撃的だったのは、滅んだ集落を目の当たりにしたことである。崩れ去った石垣や薙ぎ倒された木の柱、そして地面に残る生々しい魔獣たちの足跡。これまで話でしか聞いていなかった現実を体験する中で、少女の意識は少しずつ変わっていった。
“厄災の子”と呼ばれ何者にもなれなかった自分が、誰かの救いとなれるのであれば、それはよいことなのではないかと。
トゥエニはルォから“星守”の人たちのことを聞き、クロゼと出会い、テレジアやマァサの話を聞いた。
信じられると思った。
少なくとも、突然謁見の間に呼び出して強引に命令を下し、さらには面会まで拒絶する父親とは違う。怪しげな炎の魔法で自分の心を操ろうとしたオズマとも違う。
何よりも“星守”にはルォがいる。
問題は“果ての祭壇”にたどり着く手段だが、心配する必要はないとマァサは言った。
「メイル教の聖職者は、女神さまを信仰することにより、法術と呼ばれる魔法に似た力を使うことができます。封印や結界といった、人やものを守る力です。今では失われた技も多いのですが」
仲間内でも秘密主義がまかり通っていたこともあり、蘇らせることができなかったのだという。
「“星姫”さまの封印を、解きます」
トゥエニは緊張した。
「そうすれば、我々“星守”の、本来の役割を果たすことができるでしょう」
◇
慈悲深い微笑を湛えた女性が、傷ついた掌を前方に伸ばしている。女神メイルロードの像だ。
女神の像と騎士の甲冑に囲まれた荘厳な部屋には、テレジアとマァサ、そしてスミ、ヌラ、モリンという三人の老婆がいた。ルォの話では三人の老婆は腑分け担当といって、魔獣の解体がとても上手いのだという。
封印を解除する儀式は、複雑なものではなかった。
部屋の中に香が焚かれ、スミ、ヌラ、モリンの三人が、輪唱するように祈りにも似た言葉を紡ぐ。女神像の前に跪いたトゥエニの隣には、片手に水晶のような鉱石を持ったマァサ。テレジアはやや離れた位置から儀式を見守っているようだ。
「“星姫”さま、肩の力を抜いてくださいね。痛みはないはずですから」
「はい」
儀式の最中だというのに、マァサの物腰や口調は穏やかなままだ。少しだけ、トゥエニは安心することができた。
「四大精霊の導きにより、天と地の道を開かん。天におわす神々の一柱、女神メイルロードさまに、忠実なる使徒マァサが畏み申し上げます」
マァサが女神像に語った内容は、懺悔に等しいものだった。最後に、それでも愚かな人に力をお与えくださいと言葉を結び、マァサは奇妙な呪文のようなものを唱えた。
次の瞬間、硬質な音が響いた。続いて、ぱらぱらと粉のようなものがこぼれ落ちる音。マァサが手に持つ水晶が砕けたようだ。
密室だというのに、空気の流れを感じた。
「では。おでこに、ちょんってしますね」
指先らしきものが触れた一点に、形容し難い何かが吸い込まれていく。痛くはないが、妙な感じだ。
どくんと鼓動が高鳴った。
身体中の血が、駆け巡る。
両手を強く握りしめながら、トゥエニは目を閉じた。
この感覚は以前にも経験していた。オズマが魔法を使って自分の心を操ろうとした時、自分は強い感情を抱いた。それは怒りの感情だったと思う。その時も身体中の血が駆け巡るような感じを受けた。
だが今は、その時の比ではない。
身体が、熱い。
燃えるようだ。
『……げ。……を……げよ』
幻聴のようなものが聞こえた。
呼びかけられている。その声は力強く、思わず平伏してしまいたくなるような威厳を持っていた。
『己を、捧げよ!』
はっきりとした声に、トゥエニは驚いた。
思わず目を開けると、いつの間にか鼓動も血の流れもおさまっていた。ただ身体の奧から、形容のし難い力が溢れているのを感じた。
「おお、そのお姿は!」
テレジアが感嘆の声を上げたが、トゥエニには気にする余裕がなかった。
自分のものではない何者かの意志が、断続的に頭の中に流れてくる。
まるで、血が語りかけてくるような。
唐突にトゥエニは理解した。
ああ、これが。
自分の終わり。
まったく予想をしていなかったわけではなかった。
仮面を被って暮らしていた頃、何もすることがなかったトゥエニは、王都から取り寄せてもらった本をずっと読んでいた。その中には“勇者物語”もあった。魔獣に苦しめられている集落の、領主の娘や子供たちの役割は、おおよそ決まっていた。
身体の中を流れる血が、行動を促す。
早く、早く。
己を捧げよ。
早くしないと、手遅れになるぞと。
「ふふっ」
トゥエニは笑った。
まるで、仮面を被ったような顔で。
口元に諦めの笑みを浮かべながら。
「“星姫”さま?」
怪訝そうに聞いてくるマァサを無視して、少女は言った。
「確かに、わたくしには邪神を眠らせる力があるようです」
「おおっ」
目を見開き、両手をわなわなさせながら、テレジアが近づいてくる。
「テレジアさま。ひとつ、お伺いしたいことがあるのですが」
「なんなりと」
「試練の旅に同行するのは、どなたでしょうか?」
テレジアは答えた。
“星守”の騎士たち五名と、世話役一名。そしておそらく、ルォも協力してくれるだろうと。
「わたくしの世話役は、必要ありません」
試練の旅の終盤。それは、“荒野”の中を張り巡らされた荒野街道を駆け抜ける旅だ。たとえ“果ての祭壇”にたどり着けたとしても、無事に戻ってこられる保証はない。
「いいえ。いいえ“星姫”さま」
焦ったようにマァサが割って入った。
「わたくしが世話役につきます。最後までお供いたしますので」
マァサが聡明な大人の女性であることは疑いようがなかった。試練の旅の結末についても、可能性のひとつとして予想していたのだろう。そして、今の自分の言動で察したのだ。
最後までとは、文字通りの意味だろう。
自分が寂しくないように、運命をともにすると。
心遣いはありがたかったが、マァサはクロゼの母親であり、ルォの先生でもある。
悲しむ人がいる。
トゥエニは首を振った。
「これまでも、わたくしは護衛役のみで旅をしてきました。不都合はありません。それに、人数が少ない方が馬車も軽くなり、食料や水も少なくてすむでしょう。よろしいですか、テレジアさま?」
「御意」
「それと」
最後のわがままを、少女は口にした。
「ルォは、同行させないでください」




