(4)
ルォが行方不明になってから、五日が経った。
丸太小屋の台帳の名前は消されていない。家も確認したが、戻った形跡はなかった。
日常の行動に対して、常軌を逸するほどのこだわり見せるルォのことだから、万屋に来ないということは、本当に戻っていないのだろう。カウンターの中で頬杖をつきながら、サジはぼんやりと考え込んでいた。
最後の目撃者は、ルォの同年代の若き苔取り屋たちだった。少年たちはルォがまさに“顎門”から跳び降りる瞬間を見たという。台帳に記されていた行き先とも一致した。
苔取りは日帰りが原則だ。大峡谷には足場がなく風も強い。おまけに危険な魔獣が生息している。そんな場所で一夜を過ごすなど、緊急事態以外ではありえないことだった。
現実的な線では、滑落したか魔獣に襲われたか。希望的観測としては、どこかで怪我をして動けなくなっているか。
規定に則り、ベテランの苔取り屋たちが“顎門”を捜索したが、ルォは見つからなかった。
二重遭難を避けるため、彼らは上層のみを捜索したはず。だがルォであれば、中層に下りた可能性がある。中層を捜索すべきだ。
苔取り屋の元締めであるゴルドゥにサジはそう進言したが、鼻で笑われるだけだった。
「十歳の小僧が“顎門”を降りたというだけでも信じがたいというのに、中層などに行けるはずがない。そんな不確かな情報で、うちの者を危険な目に合わせるわけにはいかんな。それに」
ゴルドゥは嘲るように言った。
「かつてのお前さんも“顎門”の中層から逃げ帰った口じゃないのかね?」
何も言い返すことができなかった。
サジはもと苔取り屋で、ルォの父親であるテオの相棒を務めていた。危険な場所へ下りる手伝いをしたり、周囲を警戒して魔獣がきた時に対処する役割だ。
テオはサジの三歳年上で、兄貴分といえる男だった。どんな危険な場所でも怯まず果敢に挑戦する。崖の上でも下でも無茶をやらかして、得意げに自慢する。
そんなテオを、サジは尊敬していた。
テオが村一番の娘だった憧れのカルラと結婚した時も心から祝福したし、二人の息子ルォが生まれた時も同様だった。
テオもカルラも、すでにこの世にはいない。
あの時の自分の決断を、サジは後悔し続けていた。
四年前のあの日。テオは流行り病に侵されたカルラの薬を買うために“顎門”の中層に下りる必要があると言った。紫苔がある場所を知っているというのだ。サジも同行したが、途中で岩王鷲と思われる鳴き声が聞こえた。
今日は日が悪い、また別の日に挑戦しよう。そう言ってサジはテオを止めようとした。テオは聞く耳を持たなかった。
言い争いの末、サジは上層と中層の境界付近に残ることになった。そして中層に下りたテオは、岩王鷲に襲われたのである。
カルラにテオの死を告げた時、サジは自分の愚かさと弱さに絶望していた。
近くに岩王鷲がいることは分かっていたはず。殴り合ってでも止めるべきだった。そうでなければ、自分もテオとともに死ぬべきだったのだ。
あまりにも取り返しがつかなくて、サジはカルラに謝ることすらできなかった。
不幸は不幸を呼び、連鎖する。
それからすぐにカルラは病死し、ルォは壊れた。
サジにできることは、ベッドの中でぶつぶつと呟きながら震えている幼いルォに食べ物を運んでやることくらいだった。
サジは苔取り屋を引退して、実家の万屋を継いだ。
一年後、ルォがふらりとサジの店に現れて、苔取り屋になる方法を教えて欲しいと言ってきた。
父親の仇を討つのだという。
そんな理由で苔取り屋になっても早死にするだけだ。そう考えたサジだったが、断ることはできなかった。ルォの幼い双眸に、狂気にも似た光を感じ取ったからだ。
ルォは、壊れたままだった。
苔取り屋になるためには、同じく苔取り屋の推薦が必要となる。引退したとはいえ、サジにもその権限があった。
試しに練習用の岩壁を登らせてみると、ルォはあっさりと頂上までたどり着いてみせた。サジは驚きを隠せなかった。岩壁の変化が尋常ではない。父親のテオも“石神さま”の強い加護を受けていたが、ルォはそれ以上だった。
試験の結果を元締めのゴルドゥに伝えると、難色を示された。
『小僧は、このわしを恨んでいるのではないか?』
カルラが流行り病にかかった時、テオはゴルドゥに金を借りたいと申し出たが、ゴルドゥは拒否した。お前は苔取り屋なのだから、金が欲しければ苔を取って来いと、突き放したのである。
父親と母親の死の原因を、幼いルォはその事実に求めるかもしれない。復讐を考えているかもしれない者をそばに置くことはできないと、ゴルドゥは言った。普段は威張り散らしているくせに肝っ玉の小さい男だった。
それならばと、サジは提案した。
『オレが、あんたとルォの間に入る。苔のやり取りも、情報の受け渡しも引き受ける。手数料はいらない。ルォのことはちゃんと躾けるし、あんたの前には顔も出させない。だから、認めて欲しい』
やはり引け目のようなものを感じていたのか、珍しくゴルドゥは折れた。
こうして苔取り屋になったルォだったが、毎朝同じ時間にサジの店に来ては、同じ台詞を口にする。
『サジさん、いくら?』
それから、夕暮れまで苔取りをする。
普通、苔取り屋はそこまで長い時間を大峡谷で過ごさない。体力と集中力がもたないからだ。苔取りをするのも数日置きだし、天気が悪い日は当然中止である。
最初から、ルォの行動は常軌を逸していた。
その成果も尋常ではなかった。毎回、大量の碧苔を持ち帰るルォのことを、ゴルドゥは訝しんでいたが、かつてテオと自分が発見した穴場をルォに引き継いでいるとサジは説明した。
ルォは危うい。下手に興味を持たれると、ろくなことにならないと考えたからだ。
ルォの面倒をみているのは、テオとカルラに対する贖罪のためだと、サジは考えていた。
『サジさん、いくら?』
ルォが店に来る度に、サジは心が押し潰されるような息苦しさを感じる。
岩王鷲がテオを連れ去っていく光景を、愛する夫の死に絶望するカルラの姿を、外の世界を拒絶してひとりベッドの中で震えているルォの様子を、嫌でも思い起こしてしまうからだ。
晴れの日も雨の日も。毎朝、同じ時間に。
『サジさん、いくら?』
同じ口調と、同じ表情で。
これが罰でなくて何だというのか。
だが、終わりの見えない贖罪の日々は、ふいに消えてしまった。
果たして自分は許されたのかと、サジは自問した。
心をがんじがらめに縛っている鎖は、相変わらずそのままだった。
当たり前だ。許されるはずがない。
何よりもサジ自身が、自分のことを許せないのだから。
生きる気力を根こそぎ奪われたような虚脱感に捉われながら、サジは店じまいの準備を始めた。時刻は昼前だったが、まるでやる気が起きなかった。
店の扉を閉めようと表に出た時、近くの茂みががさりと揺れた。
ふと目をやると、五日ぶりに目にする少年が、まずい見つかったというような感じで再び茂みに隠れた。
子供かと、サジは呆れた。
「おいルォ、こっちに来い」
ルォに苔取り屋の心得を叩き込んだのはサジだ。その中のひとつに、苔が取れずとも夕暮れまでには必ず戻るべし、というものがある。異常なまでに決まりごとにこだわる少年だから、大いに後ろめたさを感じていることだろう。
とぼとぼやってきたルォは、終始俯き加減で、落ち着かなげに視線をさ迷わせていた。
サジは少しだけ自分を見直した。
ルォがいなくなれば、あの台詞を聞かずに済む。古傷を抉るような思いをしなくてもよい。だからひょっとすると、ルォが助かったことを残念に思ってしまうかもしれない。
そう考えていたのである。
しかし違った。
心の底から沸き起こってきたのは、明かな苛立ちと怒りだった。
自分もまだ、捨てたものではない。
「この――」
サジは拳を握り締めると、丁度よい高さにあった少年の頭の上に叩き込んだ。
「ばっかもんがぁ!」
「うぎゃ」
分かりやすい表現をルォは好む。というよりも、人の機微というものを理解する能力に欠けている。だからサジは一発殴って終わりにすることにした。
「まあ、これで許してやる」
あからさまにほっとしたように、ルォは大きく息をついた。
「しっかしお前、ひどい格好だな。どうしたんだよ、それ」
少年の首から胸にかけて、黄色いものがこびりついていた。血ではないようだが、不気味である。
「たまご」
「あん?」
要領を得ない。
いそいそと落ち着かない様子で、ルォはポーチの蓋を開けた。中から取り出したのは、碧苔だった。五日分にしては少ないなと思っていると、次に幻と呼ばれる紫苔が出てきた。
「お前、それ」
「父さんが、取ろうとしたやつ」
続いてルォは古ぼけたマーカーをサジに差し出した。ピンについているリボンには、懐かしいサインが入っていた。
「これは、アニキ――テオさんの!」
「うん」
紫苔とテオのマーカー。そのふたつが意味するものを、サジは即座に理解した。
「まさかお前、あの場所に行ったのか?」
「いった」
父親が果たせなかった思いを、数年の時を経て、その息子が受け取ったというのか。
驚きのあまりどのような表情をしてよいか悩んでいると、ルォはベルトの背中側に挿していた巨大な羽根を見せてきた。光の加減で、鮮やかな虹色に輝く。
「父さんの仇、倒して」
最後にポーチから、器の破片のようなものを取り出す。
「たまごを食べた」
サジは思い出した。この少年が、どうしようもなく説明が下手だったということを。
「その時に、汚れた」