(9)
王都を旅立つ直前、トゥエニはレイザに、王都に連れてこられてからの出来事を話した。
しばらくは部屋で軟禁されていたこと。謁見の間で父親から“蒼き魔獣”を退治するよう命じられたこと。お披露目の式典では、おそらく人々の心を操る炎の魔法が使われたこと。
話を聞くうちに、レイザの表情が険しいものになっていった。
「おひいさま。いっそのことお父上に直接ご相談なされてはいかがでしょうか? 僭越ながら、わたくしも同行いたしますので」
面談をお願いしたが、断られた。そのことを伝えると、レイザは無表情になった。
「こうなっては致し方ありません。事情を知っている者に、直接話を聞くことにしましょう」
王都を出て最初の街、ソエトでは、近衛隊長のイグニスがオズマに対して不満を持っていることが分かった。
レイザは彼を味方に引き入れることにした。
その後、レイザはオズマと何度も面会し、少しずつ情報を聞き出してくれた。
だが、肝心なことは何も分からなかった。
「おひいさま、あの魔法使いは信用なりません。何か大きな、やましいことを隠しているに違いないのです。イグニスさまと相談し、非常手段に訴え出ることも考えなくては」
トゥエニは戸惑った。自分は決して仲違いを望んでいるわけではない。しかし、自分のために動いてくれているレイザに対して、彼女は何も言えなかった。
序盤の目的地であるカロンの街にたどり着く。出発の日の朝、ひとり朝食をとっていたトゥエニの部屋に、オズマとバッツという目つきの悪い魔法使いが現れた。
当初の予定通り、ここからは勇者隊とトゥエニだけで行動するのだという。
「人数が増えれば、馬の負担も増えますし、食料や水も余計に積み込まなくてはなりません。王女殿下にはご不便をおかけしますが、なにとぞご理解いただきますよう」
「レイザは、どうしたのですか?」
朝からレイザの姿を見ていない。
何食わない顔でオズマが答えた。
「侍女殿は、王都へ戻る準備をしております。報告書などをまとめる必要があり、忙しいようで」
悩みはしたものの、トゥエニは了承した。同行者の人数を極力減らしたいという意図は理解できたし、これ以上レイザを危険な旅に巻き込むのは気が引けたからだ。
「ですが、最後にレイザに会わせてください。お礼を言いたいのです」
「彼女には、仕事があります。出発の時刻までこの部屋でお待ちください。一応、護衛をつけますので」
そう言ってオズマは、若い魔法使いの肩をぽんと叩いた。
「じゃ、頼むよバッツ。くれぐれも失礼のないように」
「ちっ、何でオレが」
バッツは悪態をついた。
護衛役というよりも監視役なのだろうと、トゥエニは思った。
「ああ、それから」
オズマは部屋の隅に歩み寄ると、ソファーの上にちょこんと座っている熊のぬいぐるみを抱き上げた。カロンの街の執政官が、幼い王女のために用意した調度品のひとつだった。
「これを、お借りしてもよろしいですか?」
◇
はたから見れば、奇妙な光景だった。
「さあ、おひいさま。こちらでございます。足元が暗うございますから、お気をつけください」
王族専用の豪華な馬車へ、侍女が向かう。左手に怪しげな輝きを放つランタンを持ち、右手で可愛らしい熊のぬいぐるみを引きずりながら。
馬車の扉の前で待ち構えていた近衛隊長が、ぬいぐるみに向かって恭しく一礼した。
「これより、我ら近衛隊が王女殿下をお守りいたします。どうか、心安らかであられますよう」
宿泊施設に併設されている車庫の中は、薄暗い。侍女の持つランタンの揺らめく炎を、整列しているすべての近衛隊の瞳が映していた。
無言のまま、侍女はぬいぐるみとともに馬車へ乗り込んだ。
こちらもランタンを手に持ったオズマが、口元に穏やかな微笑を湛えながら頭を下げた。
「では、イグニス殿。手はず通りの経路で先行してください。我々勇者隊も、すぐに追いかけますので」
「おお、任せろ」
豪華な馬車と三十名の近衛隊は、意気揚々とカロンの街を出発した。
しばらく進んだところで、イグニスはふと我に返った。
「うむ?」
王女の乗る馬車を、自分と近衛隊は間違いなく護衛している。経路も合っている。
彼は頭を振り、曖昧な記憶を無理やり呼び起こした。
旅の序盤。ソエトの街に着いた時に、自分はレイザ女史の訪問を受けた。
彼女はこう主張した。
王女に聖なる力はない。少なくとも本人はそう主張している。であるならば、幼い王女を危険極まりない“荒野”まで同行させる必要はないのではないかと。
王家の威光を示し民心を安定させたいのであれば、安全が確保された街までで十分なはず。あとは王女を人気のない場所で匿えばよい。
イグニスは反論することができなかった。
さらに、レイザ女史は要求してきた。
旅の中盤となるカロンの街からは、王女と勇者隊のみで行動するのだという。
旅の途中で王女を匿えないのであれば、せめて自分だけでも、世話役として同行できないかと。
イグニスは感銘を受けるとともに、己を恥じた。
自分は近衛隊のメンツのことばかりを考え、与えられた仕事に不満を抱き、我儘な子供のようにあの魔法使いに怒りをぶつけてしまった。しかしこの女史は、自分が仕える主の身を案じ、真摯に行動しているのだ。
だが申し訳ないことに、今の自分は現場の責任者ではなく、必要な情報も与えられていない。
「では、わたくしがオズマさまと直接交渉をいたします。ですが、一介の侍女に過ぎないわたくしの立場では、相手にされないかもしれません。イグニスさま。どうかおひいさまのために、ご助力をお願いできますでしょうか」
それならばと、イグニスは引き受けたのであった。
その後、自分とレイザは何度もオズマと面会した。限られた情報をかき集めて、レイザは細かな矛盾点を指摘した。その弁舌は見事という他なかったが、オズマはのらりくらりと、知らぬ存ぜぬでかわしていった。
このままでは、自分たちは王都へ返されてしまう。
やや強引ながらも、イグニスはオズマから主導権を奪うことを決断した。レイザ女史も積極的に賛同してくれた。
カロンの街の宿泊施設に着くや否や、イグニスは近衛隊を率いて魔法使いたちを取り囲み、レイザ女史が考えてくれた口上を叩きつけた。
「そこまで言われては、仕方がありませんね」
しまりのない笑みを浮かべながら、オズマは計画を変更する旨をあっさりと了承した。
「どのような形であれ、この試練を果たさなければ、我々に未来はありませんからね。我々勇者隊も、近衛隊の皆さまに協力させていただきますよ。得意分野である、斥候および遊撃隊として」
心底、イグニスはこの男を軽蔑した。
しかし、主導権を握ることはできた。
もう勝手なまねはさせない。
豪華な馬車と三十名の近衛隊は、森の中を走る街道に差しかかった。道は細く曲がりくねっており、後続が見えない。魔法使いたちはついてきているだろうか。
「隊長!」
隊員のひとりが、警告の声を発した。
「何か、変です」
「報告は正確にせよ」
「奇妙な、音が」
イグニスは部隊に合図を送り、進行の速度を緩めた。
静かな森の中、羽音のようなものが聞こえた。音は重なり合い、やがて土砂降りの雨音のようになった。
「木の向こうに、何かがあります」
これもまた、正確な報告ではなかった。
しかし実際にイグニスが確認しても、それが何なのか理解することはできなかった。
巨大な屋敷ほどの大きさがある、半球状の塊である。半球の表面は青色の鱗のようなもので覆われており、頂上部には針のような細長い突起がついていた。
羽音が近づいてくる。
イグニスは叫んだ。
「周囲を警戒せよ。何かが来るぞ!」
森の木々を縫うようにして近衛隊の前に現れたのは、巨大な蜂だった。青と黄色の縞模様。そして大きな目の色は紅い光を放っていた。
「魔獣だ!」
この場に魔獣狩りや解体屋がいたならば、人半倍ほどと表現したことだろう。
いわゆる“小物”であるが、数が問題だった。
上下左右、そして上空から、馬車を守る近衛隊を取り囲むように、百体以上もの巨大な蜂が現れたのだ。
巨大な蜂の羽の部分に、青白い稲妻が走った。
「隊長、あれは雷針蜂です」
「なんだと!」
部下の報告に、イグニスは驚きの声を上げた。
実際に目にするのは初めてだが、知識としてイグニスは知っていた。巣に落ちた雷の力を蓄え、己の身に纏うという蜂の魔獣がいるのだという。
蜂の数はどんどん増え続けた。突起のついた半球状の物体の中から、次々と飛び出してくるようだった。
「あれは奴らの巣か。いかんっ!」
一体の雷針蜂が襲いかかってきた。
ひと噛みで頭を喰いちぎられそうな鋭い顎の攻撃を、隊員のひとりが剣で受け止めた。その瞬間、バチンという破裂音がして、隊員は落馬した。さらに雷針蜂が襲いかかる。鎧兜のおかげで顎や針が届くことはなかったが、巨大蜂の羽が青白く発光するたびに、隊員の身体が激しく痙攣した。
「おのれっ」
激怒したイグニスは、馬から降りて剣を振るった。蜂の頭部だけを見事に切り裂くことに成功したが、利き腕に痛烈な衝撃が走った。腕が痺れ、力が入らない。
雷は金属に落ちやすいという。金属の武具は、この魔獣との相性が悪い。
近衛隊は巨大蜂の群れに襲われ、大混乱に陥っていた。蜂が身に纏う雷のせいで、攻撃する側もダメージを受ける。落馬したところを複数で襲いかかられたら、ひとたまりもない。
なぜ、ここに魔獣がいるのか。
今さらながらイグニスは疑問に思った。
上空からの偵察により、魔獣がいない経路を選んだのではなかったか。
選んだのは、あの魔法使いだ。
なぜ、自分は反対しなかった。
なぜ、納得した。
分からない。
馬上での戦闘は不利だった。攻撃を受けても防いでも、雷の衝撃で落馬してしまう。しかし、馬がなければ逃げきれない。
「うわっ、わっ!」
蜂に囲まれた若い隊員が、錯乱したように剣を振り回す。剣が蜂の羽を掠め、叫び声を上げて落馬した。
「セロック!」
世間知らずのお坊ちゃんで、最近恋人ができたらしい。気が抜けていると、訓練中に何度も叱りつけたものだ。
「た、助けて。死にたくない」
前途ある若者が、数体の蜂に押し潰されながら、虚空に向かって手を伸ばしている。
全身を包み込むような冷たい恐怖を、イグニスは意志の力で跳ね除けた。
命よりも大切なものあることを、彼は思い出した。
自分の役目は、なんだ?
“蒼き魔獣”を退ける力があるとされる王家の娘を、トゥエニ王女を守り抜くことだ。
「馬を失った者は我に続け! これより、魔獣の巣に特攻をかける!」
雷針蜂の怒りを、こちらに集中させる。
「残りの者は、王女殿下を守りつつ、全力でこの森を抜けよ。奮い立て! 王家に対し、我らの忠誠を捧げるのだ!」
崩れかけた近衛隊の心に、火が燈った。
ある者は馬車に取り憑いた蜂に飛びつき、ともに転げ落ちた。ある者は向かってくる蜂に両手を広げ、自ら盾となった。
彼らは知らなかった。自分たちが文字通り命を投げ捨ててまで逃がそうとしている馬車の中に、守るべき対象である王女はおらず、怪しげな光を放つランタンを手に虚ろな目をしている侍女と、熊のぬいぐるみしか乗っていないということを。
巨大蜂の群れに追い立てられながら走り去る馬車を見送りながら、イグニスは思った。
王女殿下が助かれば、あの方も助かるだろう。
幼い王女の不安を取り除きたい。ただその一心で、得体の知れない魔法使いに立ち向かった。ただの侍女の身でありながら、彼女は一歩も引かず、怯むこともなかった。
凛とした佇まい。
尊敬に、値する。
「うおぉおおおおおっ!」
すべての蜂の注意を引きつけるかのように大声で叫びながら、イグニスは巨大な蜂の巣に向かって突進した。
鱗のように艶やかな巣の表面に、渾身の力を込めて剣を振り下ろす。
硬質な音とともに、剣が砕けた。




