(5)
その夜、トゥエニは熱を出して寝込んだ。
何人もの医者が現れて、とっかえひっかえトゥエニを診察した。正確な原因は分からないが、生活環境の変化と極度の緊張による精神的な疲労ではないかとのことだった。平凡ではあるが、ゆっくり休むのが一番だという。翌日には熱も下がったが、大事をとってもう一日休むことになった。
ベッドの中でひとり、トゥエニはため息をついた。
生まれてこの方、といってもまだ十年くらいだが、自分は小川に落ちた木の葉のように、行き先も分からないまま翻弄されるだけだった。
しかし、今回の事態は極めつけだった。
激しい濁流の渦に飲み込まれ、すべてが木っ端微塵に吹き飛んでしまった。
話をまとめると、額の痣は聖なる紋様で、王家の娘である自分には聖なる力が宿っており、“蒼き魔獣”を退治しなくてはならないらしい。
そんな力など、どこにもありはしないのに。
これだけ大ごとになってしまっては、今さら行きたくないとは言えない。かといって、逃げ出すこともできない。
どうにもならないのであれば、せめて前向きに考えてみようと、トゥエニは思った。
王都にいる今は、自分のことを知るチャンスなのではないだろうか。
たぶん女官長は何も知らない。魔法使いのオズマは教えてくれないような気がする。
頼るならば、肉親である父親のはずだ。
謁見の間では怖かったが、二人きりの場であれば、きっと話してくれるはず。
本当のことを知りたいと、少女は思った。
過去に起きたこと、これから起こること。
その、すべてを。
たとえ誤解や行き違いがあったとしても、父親を責めるつもりなどなかった。
すべてを話してくれるのであれば、自分は。
意を決して、トゥエニは女官長に申し出た。
◇
王女の様子については直接報告せよとの命令を、女官長はラモン王より受けていた。ゆえに女官長は王の執務室への入室を特別に許可されていたが、国の最高権力者に近づけて嬉しいかと問われれば、全力で否定したことだろう。
その理由は、ラモン王の変質である。
「あれの様子は、どうか?」
「は、はい。熱は下がりましたが、大事をとりまして、もう一日お休みになる予定です」
「食事はとっておるか?」
「はい。つつがなく」
「他に不自由はしておらぬか?」
「そ、その」
一見、娘を案じる父親のようにも見えるが、実のところは違う。
「王女殿下は、陛下との面談を希望なされています」
その瞬間、王の表情が強張った。わなわなと震えながら、髪をかきむしり出す。
「ど、どういうことだ。あれは、予に何を要求するつもりか。今さら交渉の余地などありはしない。あれは、行かねばならぬ。それこそが、王家の務め。そうであろう?」
問いかけられたところで分かるはずもない。かといって不敬な言葉を口にするわけにもいかず、女官長は口を閉ざしたまま王の反応を窺うしかなかった。
“蒼き魔獣”が現れてから、ラモン王の様子は少しずつ変わり始めた。口数が減り、塞ぎ込むことが多くなり、食事の量も極端に少なくなった。
そしておそらく、王の片腕たる宰相のホゥが自ら命を絶ったことがきっかけとなり、王の精神は壊れた。
「ああ、ああ。ホゥは逝ってしまった。取り返しのつかない責任を、償いようのない罪を、予ひとりに残して。ああ、何ということだ。予は、この苦しみから逃れられぬ。王家の血がそれを許さぬ。どうにもならない結末を、この目で見届けなければならぬ。生き地獄とは、まさにこのことか!」
激しく取り乱したラモン王は、たった数日で髪が真っ白になった。感情の振れ幅が大きくなり、些細なことで落ち込んだり激昂するようになった。
本来であれば、王宮前広場にて執り行われたトゥエニ王女のお披露目の式典に、ラモン王も参加するはずであった。しかしこの王は、まるで自分の娘を恐れるかのように、自室にこもり、塞ぎ込んでしまったのである。
“賢王”と呼ばれていたはずの王は、縋りつくように女官長に聞いた。
「のう、予はあれに会わねばならぬのか? 生まれたばかりのあれを見捨てた上に、満足な支援もできぬまま、死地に送り出そうというのに。それでも、予は話さねばならぬのか?」
一個人としては、娘と話をするべきだろうと女官長は思った。どれだけ恨み言をぶつけられたとしても、真摯に謝るべきだと。だがその結果、王の不興を買うことになれば、面談を勧めた自分にも害が及ぶかもしれない。
「いいえ」
早く退室したい一心で、女官長は深々と頭を下げた。
「いいえ、陛下。僭越ながら、ご体調も優れぬ中、ご無理をなさる必要はないかと存じます。王女殿下には、わたくしからお話しいたしますので」
◇
旅立ちの日が近づくにつれて、侍女たちの態度がよそよそしくなった。
おしゃべりがなくなり、仕事も失敗するようになった。コップを落としたり、足がもつれて転んだりと、やや不自然な行動が続いた。
理由は、ほどなく判明した。
「あ、あのう、姫さま」
一番歳の近い十代半ばくらいの侍女と二人きりになった時に、恐る恐るという感じで聞かれたのである。
「供の者は、お決めになられましたか?」
遥か北方にある“荒野”のさらに果てへと向かう、長く危険な旅路である。幼い王女の身の回りの世話をする者が必要となるだろう。その人選について、侍女たちは自分に決定権があると思っているのだ。
確かに自分が指名すれば、その者が選ばれる可能性は高いかもしれない。だからこそ侍女たちは怯え、あえて仕事をミスすることで、指名を回避しようとしたのである。
トゥエニは納得した。
「心配しないで。わたくしは、自分のことは自分でできます。それに長旅であれば、人も荷物も少ない方がいいはずです。そのように、わたくしから女官長に伝えますから」
「あ、ありがとうございます!」
罪悪感と安心がないまぜになった複雑な表情で、侍女は深々と頭を下げた。
相手を傷つけないよう微笑みを浮かべながら、トゥエニは思った。
やはり、昔も今も自分はひとりぼっちなのだと。
仮面を被っていた頃は“厄災の子”と忌み嫌われていた。仮面を外してからも、皆が有難がっているのは“王女”という肩書きだけで、それ以外に面倒ごとがあるならば、なるべく関わりたくはないのだろう。
本当の自分を見てくれる人は、誰もいない。
いや、ひとりだけいた。
その少年は、トゥエニが仮面を被っているというのに、あの城の、牢獄のような部屋まで何度も会いに来てくれた。そして自分を連れ出し、言葉にすら表現できないほど美しい黄金色の景色を見せてくれた。
会いたいという気持ちを、トゥエニは無理やり押さえ込んだ。
このような事態になっては、もはやあの少年に会うことは叶わないだろう。
望みのない希望を抱いてはいけない。
それは、まだ十歳でしかない少女が、どうにもならない環境の中で身につけた処世術だった。
約束通り、トゥエニは女官長に試練の旅に侍女は必要ない旨を申し伝えた。そういうわけには参りませんと女官長は反対したが、自分はずっとひとりで暮らしてきたので、慣れない人がいては落ち着かないとトゥエニは言い切った。
そして、条件をつけた。
どうしても侍女をつけたいのであれば、心から同行を希望する人をと。
そんな人物などいないはずであったが、旅立ちの日の直前に現れたのは、すらりと背の高く、厳しい表情をした三十歳前後の女性だった。
「おひいさま、お久しゅうございます」
「レイザ!」
アッカレ城で一年ほどトゥエニの侍女を務めていた女性である。他人にも自分にも厳しい性格だが、職務に対して忠実であり、トゥエニにも公平に接してくれた。
「まさか、わたくしに同行するよう命じられたのですか?」
「いいえ、違います」
「では、希望を?」
「そうではありません」
仮に同行を希望する者が誰もいない場合、自分がその任務を引き受けると、レイザは申し出たのだという。
「まったくもって情けない限りです。この国の命運をかけた旅路だというのに、まだ十歳でいらっしゃるおひいさまにすべてを押しつけて、見て見ぬふりをする者ばかりとは」
この場にいたもうひとりの人物、女官長が露骨に顔を歪めた。優秀な人材であるはずのレイザがその能力にふさわしい地位につけないのは、上司に対しても歯に衣着せない言動に原因があったのだが、そういった事情をトゥエニは知らない。
「レイザ、よいのですか?」
「仕事ですので」
素っ気なく、レイザは答えた。




