(3)
トゥエニを取り巻く環境は、激変した。
物心ついた時から彼女は仮面を被っており、各地を転々と渡り歩いてきた。世話役の侍女も毎年のように変わった。中には王都から派遣されたことに深く失望し、少女に対して露骨に敵意を向けてくる者もいた。
その侍女が、迂闊にも口を滑らせたことがあった。
「どうして私が、こんな辺ぴなところで“厄災の子”の世話をせねばならないの! 帰りたい」
幼心にも、トゥエニは自分が忌み嫌われる存在であることを理解した。額にある奇妙な形をした痣が、その証なのだろう。
仮面を被り、ひと目を避け、ごく限られた侍女のみとしか接することがない不自由な生活。ひとり孤独な時間の中で、少女は考えざるを得なかった。
自分はなぜ生まれてきたのか。これからどうなってしまうのか。そもそも、“厄災の子”とは何なのか。
不安と悲しみ、そしてどうにもならない憤りを胸の奥底に閉じ込めながら、トゥエニは物静かな十歳の少女へと成長した。
辺境にある朽ち果てた廃城、アッカレに居を移し、職務に忠実で適度な距離感を保つことができるレイザが侍女になってからは、比較的穏やかな生活を送ることができていたが、それも唐突に終わった。
わけの分からないままに、少女は王都に連行されてしまったのである。
王宮内の奥まった一室に軟禁されたまま、トゥエニは放置されていた。アッカレ城では外の景色を眺めることができたが、この部屋には窓すらなかった。侍女のレイザもいなくなった。この部屋を訪れるのは、定刻に食事を運んでくる女官長くらいのもの。
そんな環境の中でもトゥエニが平静を保つことができたのは、本人の自覚のないままに、世の中の理不尽さに対して受容的な精神を獲得していたからだろう。
そしてもうひとつ。
アッカレ城で最後に体験した鮮烈な思い出が、少女の心を支えていた。
あの鮮やかな黄金色の景色を思い起こすたびに、少女の胸には形容のしがたい感情が込み上げてくる。
また、あの少年に会えるだろうか。
その時のことを夢想しながら、不安と隣り合わせの日々をやりすごしていたトゥエニを、女官長が呼びにきた。
「姫さま。あなたさまのお父君、ラモン国王陛下がお呼びでございます」
トゥエニは緊張した。自分がこの国の王の娘であることは聞いていたが、まるで実感がなかったのである。
心の動揺を抑えつつやけに幅の広い廊下を歩いていると、前をゆく女官長が振り返りもせずに忠告してきた。
「あなたさまは、ただ“はい”と返事をすればよいのです。疑問に思っても、問い返してはなりません。ましてや陛下のご命令を拒否するなど、もってのほか。よろしゅうございますね?」
案内されたのは謁見の広間だった。個室で面談するのだろうと考えていたトゥエニは、面食らった。
広間の左右には数十人もの大人たちが立ち並んでいた。絨毯の先には短い階段があり、その先の玉座に、年老いた男が座っていた。
「さ、姫さま。こちらへ」
女官長に連れられて、トゥエニも前に進み出た。
左右の人々から好奇な視線が集中し、戸惑うようなざわめきが沸き起こった。仮面を被った自分がもの珍しいのだろう。
階段の手前で、女官長が立ち止まった。
「ご挨拶を」
トゥエニはスカートを摘んで少し膝を曲げた。
玉座の老人が手で払いのけるような仕草をすると、女官は畏るようにしてその場を離れた。
「そなたが、予の娘か?」
そんなことは知るはずもなかったが、先ほど女官長に忠告された通りに、トゥエニは「はい」と答えた。
「仮面を外すがよい」
人前では取ってはいけないという仮面。だがそれを命じたのは、目の前にいる王なのだろう。心理的な抵抗を感じながらも、トゥエニは仮面を外した。左右の人々から好奇とも称賛ともとれるため息が漏れた。
「ほう」
立派な髭をたくわえた老人の眼光鋭い目が、わずかに細まった。
「確かに、母親の面影がある」
母親は自分が生まれた時に亡くなったのだという。母親を恋しく思うよりも、自分の存在そのものに深い悩みを抱いていたトゥエニにとって、母親とは影の薄い存在だった。面影があると言われても戸惑うしかない。
「それに、額に宿す聖なる証。間違いあるまい」
この場に集まった人々に事実を知らしめるかのように、王はひとつひとつの物事を口にしているようだった。
それにしても、聖なる証とはなんのことだろう。額の痣は“厄災の子”の証ではなかったのか。
「我が娘、トゥエニよ。そなたに命じる」
冷たく干からびたような声で、王は言った。
「これより遥か北方、“荒野”の中のもっとも深き場所にあるという“果ての祭壇”へと赴き、“蒼き魔獣”を討伐せよ」
周囲がしんと静まり返った。
「みごとこの試練を果たしたあかつきには、真名を使うことを許し、そなたを王家の一員として認めよう。よいな?」
年老いた王の鋭い眼光、人々の気配、そして荘厳な広間の空気。それらすべての要素が圧力となって襲いかかってくるようだった。
まただと、トゥエニは思った。
また自分は、何も分からないままに周囲の状況に飲み込まれ、流されていく。
反発することも抵抗することもできない。
自分にできるのは。
「はい」
掠れるような声で返事をすると、トゥエニは頭を垂れた。
ただ、受け入れることだけ。
◇
翌日から世話役の侍女が五人ついた。全員が十代後半から二十代前半くらいの若い女性である。
「さあ、姫さま。お召し替えの時間ですよ」
普段着であるデイドレス、晩餐会用のナイトドレス、そして寝巻きまで、騒がしい侍女たちに囲まれると、トゥエニはあっという間に着替えさせられてしまう。
湯浴みの時もそうだ。身の回りのことは自分でできるのに、すべてを任せなくてはならない。女官長曰く、そうしなければ侍女たちの仕事がなくなるのだという。
「姫さまは本当にお美しゅうございますわ」
「ええ。お肌も白くて、透き通るよう」
「それに聖なる紋様の、なんと神々しいこと」
「本当に」
「これでは、殿方が放っておきませんわね」
きゃあきゃあと甲高い声を上げながら、侍女たちは口々にトゥエニを褒め称えた。他人との出会いのない静かな環境で育ったトゥエニは戸惑うばかりだった。
一日のスケジュールは厳密に決められており、トゥエニには本を読む時間さえ与えられなかった。
昼夜を問わず、豪華な衣装を身に纏った貴族たちが次々と挨拶をしてくる。トゥエニは「よしなに」と言って、手袋をした手を差し出すだけ。それ以上の言葉は口に出してはいけないと女官長に厳命されていた。
とある貴族が言った。
「実は、わたくしには今年で十五になる息子がおりましてな。殿下が無事に試練を果たされたあかつきには、改めてご挨拶をさせていただきとう存じます」
試練。
自分に与えられた役割というものを、トゥエニは正確に把握することができなかった。
父親である国王との謁見の後、女官長から話の概要は聞いていた。
現在、北の“荒野”より魔獣の大群が現れ、王都に向かって押し寄せてきているのだという。
この現象を“厄災”というらしい。
“厄災”を引き起こしたのは、“蒼き魔獣”。獅子の体に角と翼を持つ凶悪な魔獣で、三月ほど前に王都に現れた。
その魔獣を、自分が倒す。
いったいどうやって。
「実際の仕事は護衛隊が行いますので、問題はございません」
では、何のために自分が必要なのか。
「あ、あなたさまは! お父上の――国王陛下のお言葉を、疑われるのですか?」
この人は何も知らない。これ以上聞いても怒らせるだけだと思い、トゥエニは口を閉ざした。
わけの分からない状況のまま、旅立ちの準備だけが進んでいく。
ある日、数人の女性を引き連れ女官長がやってきた。
「姫さま。お披露目の式典でお召しになるドレスが仕上がりました。これより試着を行っていただきます」
それは光沢のある白い布地に様々な刺繍が施された豪奢なドレスだった。さらにネックレス、腕輪、イヤリングなどのアクセサリーが追加されていく。頭の上には大粒の宝石で飾られたティアラが載せられた。
重いと、トゥエニは思った。
「やあ、これはこれは。まさに“聖女”さまにふさわしい装いですねぇ」
女性ばかりの部屋に入ってきたのは、中年の男だった。にこやかというよりは、しまりのない笑みを浮かべている。首には黒色の首輪を嵌めていた。
魔法使いだ。
色違いの首輪をトゥエニは見たことがあった。
「オズマさま。ここは婦人専用の衣装室。立ち入りはお控えくださいませ!」
「女性の身支度は、いくら待ってもきりがないですからね。しかし、この国には時間がないのですよ、女官長殿」
血相を変えた女官長を黙らせると、男はトゥエニの前まできて自己紹介をした。
「黒首隊の。いえ、今は勇者隊の隊長を務めるオズマと申します。このたび、国王陛下よりトゥエニ王女殿下の護衛役を仰せつかりました」
男は今後の予定を話した。明日の夜、王宮前広場で臣民に対するお披露目の式典を執り行う。その後、トゥエニは馬車で旅立つ。
「ソエトの街からカロンの街までは、近衛隊がお供しますが、そこからは我々のみで行動します。比較的人口の少ない町や村を経由して、“荒野”へ入る予定です」
「あの、オズマさま」
相手が魔法使いということで、わずかながら親近感を覚えていたトゥエニは、思い切って聞いてみることにした。
「わたくしは、何をすればよいのでしょうか?」
やや不明瞭な問いかけに対する回答は、簡潔だった。
「何も」
「え?」
笑顔のまま、オズマは一礼した。
「長旅となります。王女殿下におかれましては、体調を整えることのみ、お考えください」




