(8)
王国騎士団がアルシェの街を出発してから、七日後。
その現象は起きた。
「なんだ、ありゃあ?」
最初に気づいたのは、アルシェの街の外壁を周回していた街警隊の男だった。
時刻は宵の口。まだ闇に目が慣れずぼんやりとした視界の中、“荒野”の方角に紅い光の帯が見えたのである。夕焼けの名残り、などではなかった。時が過ぎ、闇が濃くなるにつれて、その紅い光ははっきりと浮かび上がるようになった。
「まさか、魔獣?」
野生の獣と魔獣の違いは、その目にある。不思議な力を持つ魔獣たちの目は、例外なく紅い光を放つのだ。
“荒野”と隣接しているアルシェの街では、時おり魔獣が近づいてくることがある。そのために備えているはずの街警隊だったが、彼は咄嗟に動くことができなかった。
光の数が、桁違いに多い。地平線をなぞるかのように、無数の紅い光が棚引いている。
数千、いやそれ以上か。
「ま、魔獣の群れの、襲来だ!」
ようやく事態を把握した街警隊の男は、昇降塔についている警告の鐘を激しく打ち鳴らした。
アルシェの街の執政官であるノランチョ市長がこの報告を受けたのは、夕食中のことである。
中央から赴任してから五年。もともとふくよかだった体格はさらに肥大化し、専用の輿がなくては視察もままならない。彼は大食漢であったが、美食家ではなく、むしろ悪食の類いだった。アルシェの街の名物である魔獣料理は、彼の嗜好にぴたりと一致したようだ。
しかし本日の市長の夕食は、王都から呼び寄せた一流の料理人の手による、同じく王都から取り寄せた高級食材をふんだんに使った晩餐会用のメニューだった。
「まったく、せっかくのもてなしを無駄にしおって。これだから軍人という輩は度し難いのだ。食事を、単なる補給としか考えられんとは、野蛮人め!」
芸術的といってよい飾りつけが施された料理の皿が、ひと口ごとに消えていく。様々な食材を煮込んで半日かけて仕上げたスープなどは水代わりだ。
「“蒼き魔獣”とやらにコテンパンにやられて、泣きながら帰ってくるがよいわ!」
王国内で最大の武力と権威を誇る王国騎士団のために、ノランチョは出来る限りの誠意を尽くした。補給や情報収集はもちろんのこと、歓迎の演出、各種イベント、贈り物、そして豪華な料理の数々。無駄になったものも多いが、せめて料理だけは自分の腹の中に収めるつもりだ。
「し、市長、大変です!」
その時、血相を変えた総務部長と街警隊長が食堂に飛び込んできた。やけ食い気味の食事を邪魔されたノランチョは、不機嫌そうに言い放った。
「なんだ? 王国騎士団が全滅して、怒った魔獣たちが攻めてきたのか?」
「は、はい。どうやら、そのようでして」
「さすがは市長閣下。お耳が早い」
ノランチョは皿に残っていた肉料理を口の中に放り込むと、ワインで流し込んだ。それからナプキンで丁寧に口元を拭った。
「なにぃ!」
ことの次第を聞くや否や、ノランチョは専用の輿に乗って屋敷を出発した。
「昇降塔だ。急げ!」
外壁の上へと通じる六か所の昇降塔のうち一番近い塔へ向かう。中は勾配の急な螺旋階段だ。輿にしがみつきながら担ぎ手たちを叱咤し、頂上まで一気に駆け上がった。
「北側の壁に向かうのだ!」
疲労困憊した担ぎ手たちが崩れ落ちると、ノランチョは這うようにして外壁の縁壁にしがみついた。
「なんという、ことだ」
周囲に鳴り響く警鐘の音。そして闇夜に浮かぶ血のように紅い光の帯。それはまさに、悪夢としかいいようのない情景だった。
「状況はどうか」
街警隊長が、隊員のひとりに確認した。
「はっ。先ほどよりも、ひとつひとつの光の粒がはっきりしております。おそらく、こちらに向かってきているものかと」
ノランチョは城壁の下を覗き込んだ。
「北門の外に人が集まっておるな」
「は、はい。閉門の時間を過ぎておりますので。“壁外”の住民たちが」
街の中に魔獣を一体でも入れたら大惨事になる。危機管理マニュアルでは、夜間に魔獣が襲ってきた場合でも市長の許可なく門を開けることは禁じられていた。それを承知の上で“壁外”の住人らはそこに住んでいる。
ノランチョは街警隊長に命じた。
「門を開けてやれ」
「は?」
「門を開けて、やつらを街の中に避難させろ。ただし、持ち込む荷物は両手に持てるだけとする。荷車の使用は認めん。急げ」
「し、しかし市長」
汗をかきながら、総務部長が意見した。
「今のアルシェの街には、彼らを養うだけの食料がありません。後の火種となるのでは?」
つい先日、王国騎士団へ糧食を供与したことが仇となった。それに“壁外”の住人は許可なく勝手に住み着いたならず者たちである。まっとうに税も納めていない彼らのことを、役人たちは毛嫌いしていた。
「だからこそだ」
ノランチョは唸るような声を上げた。
「周辺地域の流通が途絶えでもしたらどうする。この痩せた土地で、我々が唯一自給自足できる食べ物はなんだ?」
切迫した状況でのノランチョの問いかけに、総務部長は喘ぐように答えた。
「ま、魔獣の肉です」
「その魔獣の肉は、魔獣を倒し加工しなければ手に入らん。そして魔獣狩りと解体屋の多くは“壁外”に住んでいる。やつらを見殺しにすれば、我々も共倒れになるぞ」
わがままな性格で口も悪いが、ノランチョは優秀といってよい執政官だった。視察も頻繁に行っているし、地域のイベントにもよく顔を出している。“御神輿閣下”などと揶揄されつつも、意外にも彼はアルシェの街の住民たちから親しまれていた。
「今後、やつらには危険な仕事を引き受けてもらわねばならんのだ。たっぷり恩を売っておけ」
「か、かしこまりました」
王都へ早馬を出し、荒野ギルドに協力依頼を要請する。住民は家の中に避難させ、外出禁止令を出す。街警備は外壁の上、魔獣狩りたちは北門の内側にて待機する。
緊迫した状況の中、臨戦態勢が整った。
「市長閣下。ここは危険です。庁舎にお戻りください」
街警隊長の忠告に、ノランチョは従わなかった。
アルシェの街の北側の壁は、一番ぶ厚い。ここが破られたら、どのみち終わりだと考えたからだ。
魔獣たちが放つ紅い光は、はっきりとその輪郭まで捉えられるようになっていた。
魔獣は人を襲う。そこに理由などない。ずっと昔からそうだったという。この地域で人間が密集しているのはアルシェの街だけ。ノランチョは最悪の事態を想定していた。魔獣の大群によってアルシェの街が包囲されることを、だ。しかし魔獣たちは、単純に北から南に向かって真っ直ぐに進んでいるようだった。
何か別の目的があるのか、それとも、この街など歯牙にもかけていないのか。
ノランチョは決断を下した。
「警鐘を止めよ。外壁の灯りを消すのだ」
「はっ」
周囲の闇がいっそう濃くなった。息苦しい沈黙を打ち壊すかのように、地鳴りのような音が近づいてくる。夜空には星が見えていたが、分厚い雲が半分ほどを覆っていた。その陰から月が顔を出し、地上を照らした。
「ま、魔獣だ」
「なんという数か」
街警隊員たちがざわめく。
帷子犀、鮮血牛、油塊豚、虹葉鹿、水蜥蜴、燈篭蟷螂、鬼棘蜘蛛、焚芋虫……。
お馴染みの魔獣も滅多に見かけない希少な魔獣も、まるで互いに競争でもするかのように駆けている。
「み、見ろ。鶏冠熊だ!」
目算で、人十五倍。王国騎士団の派遣を要請するほどの凶悪な魔獣である。
「あれは、まさか。月角乃象!」
人二十倍以上。もはや文献にしか登場しない伝説の魔獣の姿まであった。
皆が慄き、震えていた。
この世の終わりだと、誰しもが思った。
破滅の時は、しかし訪れなかった。
魔獣の群れは広範囲に分散しており、それぞれが真っ直ぐに南へと突き進んでいた。アルシェの街にたどり着いた魔獣たちはごくわずかで、しかも“小物”ばかりだった。魔獣たちは粗末なテントをいくつかなぎ倒し外壁にぶつかると、なぜか混乱した様子を見せながら、回り込むように南へと流れていったのである。
アルシェの街は無事だったが、取り返しのつかない被害が出た。
「ああっ、水道橋がっ!」
東の山の湖から街まで水を引いている水道橋に、巨大な月角乃象が衝突したのだ。連続したアーチ状の陸橋によって支えられていた水道橋が崩れ落ち、大量の水がまるで滝のように宙に舞った。
「い、いかん。いかんぞ!」
ノランチョは絶叫した。
“壁外”の住人らを招き入れる指示を出したのは、とりあえず食料を確保すればよいと考えたからである。
だが、状況が変わった。
人は食料が不足してもしばらくは活動できるが、水がなくては三日ともたない。水道橋の復旧までには、数ヶ月はかかるだろう。
アルシェの街は飢える前に干からびてしまう。
つい先日の出来事を、ノランチョは思い起こしていた。
王国騎士団をアルシェの街に迎え入れた時、ひどく年老いた老婆が行く手を遮り、こう叫んだのだ。
“青獅子”に手を出してはならぬ。紅き大波が押し寄せ、人の世が滅びると。
紅き大波。それは目の前の魔物の大群が放っている、紅色の光のことではないのか。
「まさか、あの老婆はこのことを予言して」
呆然としたまま立ち尽くすノランチョの周囲を、臨戦体制の街警隊が慌ただしく走り回る。
その、ちょうど真下の位置。
“壁の家”にいた魔法使いの少年は、何も知らずにすやすやと眠っていた。




