(6)
荒野ギルドは、アルシェの街の中で一番大きな組織である。その建物は“壁内”の西門のそばにあり、魔獣の肉や素材を売買する魔獣市場が大部分を占めている。子供の頃から出入りしているクロゼにとっては馴染みの場所だった。
「ミップさん、こんにちは」
「よう、クロちゃん」
忙しそうに若者らに指示を出しながらも、矍鑠とした老人はにかりと笑った。
市場長を務めるミップである。
「最近、“星守”さんは調子いいみたいじゃねぇか」
「ありがとう、でも」
クロゼは周囲を見渡した。
「調子がいいのは、うちだけじゃないみたいね」
まだ正午過ぎだというのに、市場には“星守”の他に多くの解体屋から成果品が運び込まれていた。
「このところ、昼から夕暮れまでひっきりなしさ。一日の取引量も三倍になってる」
「それなのに、買取りの単価は上がっているわ」
おかげで帳簿担当のハマジはほくほく顔だが、テレジアやマァサは訝しんだ。
市場とは、世の中の変化を写す鏡。ここはひとつ、荒野ギルドに探りを入れてみようか。というわけで、クロゼが派遣されたのである。
とぼけるようにミップは言った。
「まあその、なんだ。昔から“星守”さんは仕事が丁寧だからな。最近は“一番乗り”ばかりで鮮度もいいし」
「それだけ?」
好奇心旺盛な少女時代のクロゼを知っているミップは困ったような顔で唸ると、ちょいちょいと手招きした。
声を落として裏話を伝えてくる。
「ここだけの話、王都から王国騎士団が派遣されるらしいんだと。“御神輿閣下”の命令で、役人たちが食糧や酒なんかを片っ端から買い占めていきやがる。おかげで単価は跳ね上がるし、馴染みの客まで売り物が回らねぇ」
「王国騎士団が? どうして?」
「さてな」
考えたくもないという感じで、ミップは首を振った。
「ま、なんにせよ、魔獣たちが増えているのは確かだ。“荒野”で“超大物”を見たっていう噂も聞く。稼ぎ時だと気張ってるやつらも多いが、こういう時は慎重になった方がいい。帰ったらガンちゃんにそう伝えてやんな」
「うん、そうするわ」
諜報活動を終えたクロゼは“星守”の集会所に戻ると、テレジアとマァサに報告した。
「ふ〜む。どうにもきな臭いね」
「“魔獣合戦”、でしょうか?」
魔獣狩りたちでは手に負えない人十倍を超えるような魔獣は“超大物”と呼ばれ、王国騎士団が対応することになる。その討伐は戦に例えられるほどの激戦になるのが常であった。
マァサの意見にテレジアは納得しなかった。
「それにしては動きが早すぎる」
荒野ギルドが噂の真偽を把握しかねている段階で、腰の重い王国騎士団の派遣が決まるとは思えないと、テレジアは考えたようだ。
「王都で、何か異変があったのかもしれないね」
マァサは目を見開いた。
「まさか」
「おっと、先走るんじゃあないよ」
二人は声を落として議論を始めた。
「これまでにも魔獣たちが活性化したことはあった。こういうものには周期があるからね」
「はい」
「ところで、結界の具合はどうだい?」
「今のところは、はい。大丈夫です」
「そうかい。まあ何にせよ、もう少し状況が分かるまでは判断のしようがないね」
「王国騎士団が動くとなれば、いずれ正式な発表があるはず」
「注意すべきは、黒首隊の動きだよ。騒ぎの裏で、やつらはひっそり動く」
難しい話は二人に任せることにして、クロゼは自分の部屋にルォを呼びにいくことにした。
昼食の後に勉強をしても身が入らないので、ルォには昼寝をさせている。ベッドはクロゼのものを使うことになった。それは別に構わないのだが、母親が口にしている副次効果については、クロゼは強く否定している。
「ルォ君、そろそろお勉強の――」
テントの中に入ったクロゼは訝しく思った。
布団が、震えていた。
「ルォ君?」
体調でも悪いのかと考えベッドに駆け寄ったクロゼは、絶句した。
涙を流しながら、ルォが寝言を呟いていたのである。
「食べて。お願い」
顔の前で両手を固く組みながら。
「食べなきゃ、死んじゃう。お願い」
まるで祈りを捧げるように。
「母さん」
恐ろしい夢を見ているのだと、クロゼは悟った。
ルォの家庭の事情は審問会の時に聞いていた。もともと病弱だったルォの母親は流行り病にかかった。さらに夫を失ったことでショックを受け、食事を受けつけなくなったのだという。
「死なないで、母さん」
「ルォ君!」
居ても立ってもいられなくなり、クロゼはルォを抱き起こした。
「だいじょうぶよ、ルォ君。ここには怖いものなんてない。誰もいなくなったりしない。だから、心配しないで」
ようやく目覚めたのか、クロゼの腕の中でルォが戸惑ったように身じろぎした。
「あれ? クロゼお姉ちゃん?」
もう一度強く抱きしめながら、クロゼはルォの涙を拭い、乱れた前髪を直してやった。
「ルォ君、怖い夢を見たのね」
「夢?」
「そう、怖い夢。でも、もう終わったわ」
ルォは首を振った。
「いつも見る」
その言葉に、クロゼはぞっとした。この子はずっと母親の死と隣り合わせにいたというのか。
「それに、怖い夢じゃない」
「え?」
「母さんの、思い出だから」
ルォはけろりとした顔でよく眠ったとばかりに大きく伸びをすると、もう勉強の時間なのかと聞いてきた。
ルォを集会所のテントに送り届けてから、クロゼは敷地内の掃除を始めた。箒で地面を掃きながら物思いに耽る。自分はルォのことを何も知らない。そのことを痛感させられた。
わずか六歳で両親を亡くしてから、ルォはひとりで生きてきたのだという。マァサの話では母親から簡単な読み書きと計算を習っていたようだ。そして礼儀作法も。
両親を失うという、子供にとっては破滅に近い出来事のあと、おそらくルォは精神的なケアを受けていない。そのことにクロゼは気づいた。十歳という年齢にしては幼い言動もそのせいではないのか。
周囲の大人たちは、何をしていたのだろう。
考え事をしているうちに敷地の端まで来てしまった。ひとつため息をついて戻ろうとした時、挙動不審な男と出会った。田舎者丸出しの野暮ったい服に、大きなリュックを背負っている。行商人だろうか。
男の方もクロゼを認識したようで、手を振りながらよたよたと近づいてきた。
「お嬢さん、ちょいと聞きたいんだが。この辺りに“星守”っていう解体屋はあるかい?」
「“星守”に、何かご用でしょうか?」
「そこに、ルォっていう魔法使いの子供がお世話になっているはずなんだが」
くたびれたような目に皮肉めいた微笑。年齢は二十代のようだが三十代にも見える。正直なところ、よい第一印象をクロゼは持ち得なかった。
男の名前はサジといって、ルォとは同郷の知り合いだという。クロゼは警戒しつつも、男を集会所まで案内した。
「ルォ君、お客さまがいらしたみたいなんだけど。サジっていう男の人、知ってる?」
勉強中のルォに伝えると、すぐに反応を示した。
「アニキだ!」
テントを飛び出したルォを見て、男は片手を上げてにやりと笑った。
「よう、元気そうだな」
「アニキ、何しに来たの?」
嬉しそうに駆け寄ってきたルォの頭に、男は笑顔のまま、げんこつを落とした。
「うぎゃ」
「お前な、手紙には住所くらい書いておけよ。あちこち探すはめになったじゃねぇか」
「ちゃんと書いた」
「“壁の中”ってなんだよ。分かるか!」
一連のやりとりをクロゼは驚きを持って見守っていた。同郷の知り合いということは、家族や親戚ではないのだろう。それにしては気安い間柄のように思える。
テレジアとマァサも出てきたところで、男は自己紹介をした。
「オレはサジと言います。ルォの父親の、その、弟分のようなものでして。手紙で知ったんです。こいつが“星守”っていう解体屋で働いていると。ご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした」
お近づきの印ですと、サジは木製の包をテレジアに渡した。中身は碧苔ということで、テレジアは大いに喜んだ。肉料理や煮込み料理に合う高価な香辛料である。
「そうかい、そうかい。せっかく遠方から来てくださったんだ。ルォの勉強は休みにしようかね。お客人、ゆっくりしておいきな」
「お心遣い、ありがとうございます」
意外とまともな人なのだろうかと、クロゼは思った。しかし両親の死後、ルォがひとりで暮らしていた状況や、村を追い出された経緯を考えると、ろくな知り合いではないだろうと思い直す。
先ほどのルォの涙を見てしまった以上、クロゼはこの男のことを信用することはできなかった。
「よし、ルォ。挨拶まわりだ。今度はお前が“星守”の皆さんを紹介してくれよ」
「うん!」
最近ルォは朝一番で狼煙を見つけて報告してくる。ガンギを隊長とする運搬隊は、昼前には魔獣の部位を持ち帰り、午後には全員がそろって休憩していたりする。
だからルォは、一度でサジに“星守”の全員を紹介することができた。
二人は夕食に招待されることになった。
「うちの村にも岩蜥蜴という魔獣が出るんですが、毒がある上に肉は不味くて、とても食えたものじゃない」
アルシェの街の名物である魔獣料理に舌鼓を打ちつつ、サジはそんなことをぼやいた。
「それは、下ごしらえがわるいんじゃないかしらねぇ」
「きちんとサワの実を入れて、灰汁抜きをしなくちゃ」
「蜥蜴の魔獣は、しっぽが安全よ。輪切りにして干しておくと、使い勝手がいいの」
若い男が珍しく気分が高揚しているのだろう。スミ、ヌラ、モリンが料理談義に花を咲かせる。
ふてぶてしい顔をしているわりに、サジは年長者を立てるので、ベキオス、チャラ、ボン、トトムなどもまんざらでもない様子だった。
そんな中、クロゼはひとり不機嫌そうにしていた。
サジは訪問した理由を語った。
「いや、もともとはオレが原因なんですが」
ルォをアルシェの街に送り出す際、手紙を書くよう申しつけたのだという。
「季節の節目くらいにと思っていたのに、こいつは十日に一度、手紙を送ってきて。郵便代も馬鹿にならないし、こちらから手紙を出そうにも住所が分からない」
そんな頻度では書くこともなくなるだろうと考えたが、手紙の内容はとても散文的なものだった。
ルォはほぼ毎日、仕事を終えると中央市場に出かけて売り物の物色をする。本人は気づいていないが、市場の店主たちの間では、飾物屋でガラクタを売りつけられている“かわいそうな子”として知られていた。餌付け感覚で売れ残った食べ物を分け与えられ、可愛がられていたりもする。
ルォはその時に目にした商品の値段をすべて記憶し、サジへの手紙に認めた。今日は少し高くなった。変わらない。大安売りになっている。
生活の中で思ったこと、感じたことを手紙に書く。サジの教えを、ルォは忠実に実行していたのである。
途切れることのない手紙の内容に呆れ果てたサジだったが、その中で目についたのは、香辛料を扱う店の碧苔の価格だった。サジが予想していたよりも遥かに高かったのである。もと苔取り屋であり、今では万屋を営んでいるサジとしても、おおよその相場は把握しているつもりだったが、それは苔取り屋ギルドの元締めであるゴルドゥからの情報だった。
ゴルドゥは碧苔の相場を過少に報告し、苔取り屋たちから碧苔を不当な安値で買い叩いているのではないか。
疑念を抱いたサジは、若手の苔取り屋を中心に協力者を募った。そして年に一度の総会の場で、疑惑をゴルドゥに叩きつけたのである。
「総会は大荒れになりまして。皆で帳簿を提出しろと迫ったんですが、元締めは拒否しました」
これはもう不正を認めたのも同然である。
「そこで、オレが市場調査に来たというわけです」
やっぱりルォ君に会いに来たんじゃないんだと、クロゼは憤慨した。
「ルォ。しばらくお前の家に泊めてくれるか? ちと懐が苦しくてな」
ルォはサジの腹のあたりを見た。
「服が小さいの?」
「金がないってことだ」
「うん、わかった」
「それと、手紙に書いてあった変な髭の店主を紹介してくれ。情報収集と交渉をしたい」
翌日、サジはルォの仕事場を見たいと言って“星守”や外壁などを見学し、午後にはルォを連れ立って中央市場に出かけることになった。
クロゼは同行を申し出た。
この男はルォを利用しようとしているのかもしれない。クロゼとしては警戒せざるを得なかった。
ルォのいきつけだという香辛料を商う店の店主は、とても商売熱心な男で、原産地からの碧苔の仕入れ話に飛びつき、独占契約を結びたいと申し出てきた。
「若手の苔取り屋は、オレについてるからな。商売がうまくいけば、あいつらにも還元できるだろう。こいつは面白くなってきやがった」
思いのほか早く目的を果たすことができたので、サジは暇になったらしい。ルォが見張り番の仕事をしている間、何か手伝いをしたいとクロゼに申し出てきた。
クロゼは意地の悪いことを考えた。“星守”には働き盛りの男手がいない。諦めかけていた力作業が山ほどあるのだ。
午前中クロゼにこき使われてへとへとになったサジは、運搬隊が帰ってくると老人たちの相手をさせられる。おもに遊戯盤での対戦だが、サジはあまり得意ではないようで、連戦連敗だった。老人たちの自尊心は大いに満たされたようだ。
真面目でなかなか見所がある青年だという皆の評判に、クロゼは納得することができなかった。
「サジさんは、あなたと同じね」
からかうようにマァサが言った。
「同じって、どういうこと?」
「“星守”が、ルォさんを預けるのにふさわしい場所なのか、心配されているのよ」
だからこそ、その人となりを知るために積極的に関わろうとする。クロゼがサジのことを見極めようとしたように。
次の日の朝、サジは“星守”に別れを告げに来た。ルォはすでに外壁で見張り番をしていたが、もうお別れは済ませたらしい。
「私が、お見送りします」
“荒野”へと繋がる北門を除く三方の門の外には、馬車を預けておく施設がある。クロゼは最後までサジと打ち解けることができなかった。しかしサジの方は気にも留めていないようだ。
「ここはいい街だな。売り物は多いし、食い物はうまいし、何よりも活気がある。“壁の家”にはちと驚いたが」
それが、なぜだか悔しい。
「“星守”さんもいい人ばかりだ。勉強も教わってるっていう話だし、ルォはいいところに当たったな」
他人事のような言い草が、気に障った。
「どうして」
知らぬ間にクロゼは足を止めていた。
「どうして、ルォ君を独りにしたんですか?」
与えられて然るべきものを、あの子は与えられていない。それに両親の死をいまだに引きずっている。
「知っていますか? ルォ君がいつも見ている悪夢を」
少しの間を置いて、サジは肯定した。
「ああ。母親が死んだ日のことが忘れられないらしい」
「だったら、どうして!」
震えながら祈るように呟くルォの姿を思い出して、クロゼは怒りのあまり涙目になった。
その視線を、サジは受け止めた。
「君の言う通りだ」
怒鳴り返されることを予想していたクロゼは、意表を突かれた。
「オレはあいつから、自分の罪から逃げちまった。尊敬していた人の、アニキのひとり息子なんだから、とっとと引き取って育てりゃよかったんだ。そうすべきだった」
その口元がわずかに震えたようにクロゼには思えた。しかしそれはすぐに皮肉めいた微笑に戻った。
「君のことはルォから聞いたよ。ずいぶんと世話になったみたいだ。あいつは引っ込み思案なところがあるから、君くらい強引な方がいいのかもしれない」
褒められているのか、からかわれているのか、いまいち判断のつかない評価である。
「久しぶりに会って驚いたよ」
ルォは変わったと、サジは言った。ずいぶん柔らかくなった。多くの人に出会い多くの経験をしたことで、成長したのだろうと。
「あいつの中でも、止まっていた時が動き出したのかもしれないな」
その微妙な物言いに引っかかりを覚えたクロゼだったが、追求することはできなかった。
「虫がよすぎるのは承知の上だ。クロゼさん」
突然サジが、不作法にも噛みついてきた年下の娘に向かって、深く頭を下げたからである。
「ルォのことをよろしく頼む。あいつはもう、オレの手から離れちまった。オレにできるのは、年に何度かこの街に来て、あいつの様子を見てやることくらいだ」
そのために、この人は碧苔の卸し先を探しに来たのではないか。不意にそんな考えが浮かんだ。
「頼む。この通りだ!」
“壁外”とはいえ周囲に人がいないわけではない。クロゼは慌てたように言い返した。
「た、頼まれなくても、ルォ君の面倒はちゃんとみます。ルォ君は私たちの――」
その言葉は自然と口から出てきた。
「家族ですから」
今度はサジが驚いたようだ。二、三度瞬きをすると、苦笑するように呟いた。
「君は、優しい娘だな」
自分でもよく分からない理由でクロゼは動揺し、視線を逸らした。
「最近、魔獣の数が増えているようです。お帰りの際にはお気をつけください」
そう伝えるのが精一杯だった。




