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岩壁のルォ  作者: 加茂セイ
第一章 大峡谷の魔鳥
3/82

(2)

 やっぱり、ここはいい。

 切り立った岩壁に貼りついたルォは、改めてそう思った。聞こえてくるのは風の音だけ。世界でたったひとりきりになれる。

 ルォにとって孤独とは忌避(きひ)すべきものではなく、むしろ心が落ち着く状態だった。水と食料が得られるなら、ずっとここで過ごしたいくらいだ。

 両手両足を使って慎重に岩壁を伝う。手足が触れるたびに岩壁がぷるりと波打ち、体重を支えるとっかかりを作ってくれる。苔取り屋の間では“石神さま”の加護と呼ばれている現象だ。特にルォの場合は岩壁の変化が大きい。しかし他人(ひと)と比べたことがないルォは、それが特別なものだとは思っていなかった。

 日当たりが悪く湿り気の多い場所を、碧苔(あおごけ)は好む。だが、大きな株に成長するにはかなりの時間がかかるため、一度取った場所は探す必要がない。

 見知った場所には目もくれず、ルォはどんどん谷底に向かって下りていく。


「あった」


 岩の割れ目からかすかに覗く、(あお)

 片手と両足で体重を支えながら、ルォは愛用のシャベルで碧苔を削り取った。シャベルの根元の部分には小さな袋がついていて、削った苔をそのまま回収することができる。

 幸先のよい出だしだったが、ルォは手足から、岩肌がざわつくような感覚を受けていた。

 今日はやめたほうがいい。早く上がって家に帰れ。そんなふうに急かすような気配が伝わってくる。

 その感覚に、ルォは従わなかった。

 早々に切り上げてしまえば、あの少年たちに何をされるか分からない。これまでにも何度か、家の前で待ち伏せされたことがあったのだ。

 それに、今日は調子がいい。岩蜥蜴(いわとかげ)が出たと万屋(よろずや)のサジは言っていたが、近くにそれらしい気配は感じられなかった。だから今日はもう少し下、中層まで下りてみよう。

 お昼を過ぎた頃、ルォは奇妙なものを発見した。

 それは、岩壁から不自然に突き出た巨大な岩の出っ張りだった。キノコの傘のような形をしており、表面は(みが)き上げたように(なめ)らかである。明らかに自然の造形物ではなかった。

 その物体をルォは初めて目にしたが、知識としては知っていた。生前の父親が教えてくれた。岩壁を自在に変形させて、安全かつ快適な巣を作る魔獣がいるのだということを。

 岩の出っ張りは、落石などから巣を守る()()()なのだという。

 ルォは物音を立てないように近づくと、ひさしのちょうど真上、岩壁から突き出るように生えていた白松(しろまつ)に身体を預けた。幹はそれほど太くなかったが、枝が複雑に曲がりくねっていて葉も多いので、ぎりぎり身を隠せる。

 耳を澄ますと、ひさしの下から物音が聞こえた。

 何かが、いる。

 白松の木と一体化したように、ルォは気配を消した。

 時おりひさしの下から、がさがさと物音が聞こえてくる。しばらく様子を窺っていたルォは、ついに決定的なものを見た。

 ひさしの先に現れた黄色いもの。鋭く尖ったそれは、巨大な魔鳥のくちばし

 父親の仇――

 岩王鷲がんおうわしだ。


     ◇


 ルォが六歳の時、母親が流行(はや)り病にかかった。高熱が出て咳が止まらず急激に衰弱していく様子を、幼いルォは敏感に感じとっていた。

 薬を買う必要があると、父親は言った。

 だが、お金がない。

 父親は腕のよい苔取り屋だったが、高価な薬を買えるほどの稼ぎはなかった。苔取り屋ギルドの元締めに頭を下げて金を借りようとしたが、断られたのだという。

 紫苔(むらさきごけ)を取りに行くしかないと、父親は言った。

 幻の香辛料と呼ばれている紫苔は、碧苔(あおごけ)など霞むくらいの金額で取り引きされているのだという。

 まだ駆け出しで怖いもの知らずだった頃、父親は大峡谷の中層で紫苔を発見した。しかしあまりにも小さな株だったので、場所だけを記憶して引き返したのだという。特徴のある場所だからすぐに見つかるはずだと、父親は自信を覗かせた。

 一方の母親は反対した。そんなに深く降りてしまったら、体力が尽きて戻れなくなってしまう。それに中層は上層と比べて魔獣の数も多いと聞く。お願いだから自分とルォのそばにいて欲しいと、泣きながら懇願(こんがん)した。

 それでも父親は出かけていった。必ず紫苔を持ち帰ってくる。絶対に君を守るからと言い残して。

 父親は帰ってこなかった。

 当時、父親には仕事の相棒がいた。今は苔取り屋を引退して万屋(よろずや)を営んでいるサジである。

 サジは父親に連れられて“顎門(あぎと)”の中層近くまで同行した。そこで岩王鷲の鳴き声を聞き、それ以上降りることを拒んだ。だがしばらくその場に留まって、父親の様子を見ていたのだという。

 サジが目撃したのは、凶悪な岩王鷲が父親がいたであろう場所に突撃する光景だった。その後、岩王鷲は父親()()()()()を掴んで、どこかへと飛び去っていった。

 夫の死を告げられた母親は、悲嘆(ひたん)に暮れた。生きる気力を失い、ベッドから起き上がるどころか呼吸をするのも困難になった。

 幼いルォは必死に看病した。見よう見まねで作った麦粥(むぎがゆ)を無理やり母親に食べさせた。美味しいかと聞くと、母親は微笑を浮かべてこくりと頷いた。ルォは何度もスプーンを母親の口に運んだが、もう母親は食べてはくれなかった。(かゆ)を飲み込むこともできず、口の中に頬張ったまま、母親は死んでいた。

 その事実を認識した瞬間、ルォの全身におぞましい戦慄が走った。

 視界が真っ赤に染まり、ぐらりと傾いて。

 それからの記憶はない。

 次に気づいたのはベッドの上で、両親の葬式が終わった後だった。父親の訃報(ふほう)が届いてから十日と経たず母親も亡くなり、ルォは天涯孤独(てんがいこどく)の身となっていた。

 目覚めたルォは、自分が壊れていることを自覚した。突然、過去の記憶が(よみがえ)っては消えていく。現実と妄想の区別がつかない。頭がうまく働かず、一度に多くの人から話しかけられると混乱して、意識を失ってしまう。

 たまらず、ルォはベッドに引きこもった。

 近所の人たちやサジの差し入れがなければ、餓死(がし)していただろう。ベッドの中ですがるように“石神さま”を抱きかかえながら、ルォは必死に考えた。

 自分が生きる理由を、だ。

 それがなければ、死ぬしかない。

 少しずつ考えをまとめて導き出した答えは、父親を殺し母親を悲しませた魔獣、岩王鷲に復讐すること。たったそれだけのことを決めるのに、一年という時間が必要だった。

 岩王鷲が生息する大峡谷への立ち入りが許されているのは、苔取り屋だけ。

 だからルォは、苔取り屋になった。

 それから三年。

 十歳になったルォは、ついに目的の魔獣を見つけた。

 この岩王鷲が父親を殺したものかどうかは分からない。だがそんなことは関係なかった。ここで引き返してしまえば、生きる理由を自ら否定することになる。今度こそ自分は完全に壊れてしまうだろう。

 絶対に、やるしかない。

 問題は岩王鷲を倒す方法だった。手元には武器となるものがなかった。ちっぽけなシャベルでは(らち)があかないだろう。岩王鷲の大きさはルォの十倍以上ありそうだ。こちらは足場がなく、相手は自在に空を飛ぶことができる。まともに戦っては勝ち目はない。

 何か武器になるものはないだろうか。

 周囲を見渡したルォは、意外なものを発見した。

 白松の根元に生えている、(こけ)。よく見かける碧苔(あおごけ)ではない。


「むらさき、ごけ?」


 それは母親を助けるために父親が探し求めていた、幻の苔だった。

 実物を見るのは初めてだが、話に聞いていた特徴と一致していた。よくよく観察すると、白松の根元にはマーカーが打たれていた。

 小さな苔の(かぶ)を見つけた場合、苔取り屋はすぐには回収しない。場所を記憶して苔が育つまで待つ。その時に目印として打ち込むのがマーカーだ。金属製の小さなピンにリボンがついていて、持ち主のサインが入っている。

 ルォはリボンを確認した。


「父さんの、マーカーだ」


 “顎門(あぎと)”の中層、特徴のある場所、そして紫苔。

 すべての符号(ふごう)が一致していた。

 ルォは理解した。ここが、あの日父親が目指した場所だったのだと。

 紫苔の株は十分な大きさだった。ルォは慎重に紫苔を回収すると、父親のマーカーを引き抜いて、じっと見つめた。

 父親が目指した場所に、父親の仇がいる。

 何やら不思議な(えにし)を感じた。


「父さん、力を貸して」


 岩王鷲を倒すための力を。

 時間をかけて悩んだ結果ルォが導き出した答えは、周囲に豊富にある材料、岩石を使うことだった。

 白松の近く、わずかに突き出た岩壁を両手でつかむ。指先が直接触れた部分がぷるりと波打ち、柔らかくなる。顔を真っ赤にして力を込めると、自分が思い描いた通りにひびが入っていく。ついには、ごとりという音とともに、ひと抱えほどもある岩石の欠片(かけら)が引っこ抜かれた。欠片の岩壁と接地していた面が、ぼんやりと虹色に輝いている。


「あれ? 軽い」


 と思った瞬間、虹色の輝きが消えて、ずしりと重くなった。思わず岩石を取り落としそうになり、ルォは全力で踏ん張った。胸に抱きかかえるようにして白松の幹に押しつける。頼りない幹がぎしぎしと軋んだ。

 これを、岩王鷲の頭に叩きつける。

 作戦は決まったが、巣の上のひさしが邪魔だった。

 巣から飛び立つ瞬間を狙おうか。いや、そのためには白松の先の方まで身を乗り出す必要がある。大きな岩石を抱えたままでは折れてしまうだろう。いっそのこと、夜になったら巣に忍び込むというのはどうか。だめだ、高い位置から岩石を落とさないと、岩王鷲は倒せない。

 再び考えすぎるほど考えてルォが出した答えは、この場所で機会を待つという消極的なものだった。

 目的のものが視界に入ると、注意がおざなりになる。苔を見つけた時こそ、もっとも慎重であれ。それは、ルォがサジから教えられていた苔取り屋の心得だった。

 岩石の欠片を抱えながら、ルォはじっと下の様子を窺っていた。

 その日、岩王鷲は何度も巣を離れた。

 大峡谷の王者と呼ばれているだけあって、その姿は勇壮なものだった。虹色の光沢を持つ翼、鋭い嘴と鉤爪、そしてぼんやりと(あか)く輝く目。ただ、身体に比べて頭はそれほど大きくないようだ。うまく当てることができれば可能性はある。

 やがて日が暮れ、夜になった。

 ひさしの下に岩王鷲はいるはずだったが、物音は聞こえなかった。ルォは眠らなかった。不安定な場所で重い岩石を抱えていたし、何よりも唯一の機会を逃したくはなかったのである。

 気温が下がり、谷風が容赦(ようしゃ)なく体温と水分を奪っていく。ルォは非常食の木の実を食べ、水袋の水で喉を潤した。

 次の日も機会は訪れなかった。

 岩王鷲は何度も巣を離れたが、岩石を当てるタイミングはなかった。戻ってくる時も同じだ。一直線にひさしの下に入ってしまう。枝を(くわ)えているので、巣作りをしている最中であることが分かった。岩王鷲は周囲を警戒しているはずだ。ルォの作戦は誰が見ても分の悪い賭けだった。

 二日目の夜が過ぎ、三日目の朝になる。

 急斜面の岩肌に好んで生える白松の表皮には、細かな毛が生えている。そこに朝露が付着して、幹全体が白く見える。白松の名前の由来だ。ルォは白松の幹に口をつけて水分を補給した。水も携帯食も残っていない。睡眠不足で意識が朦朧(もうろう)として、何度か気を失いそうになった。岩石を取り落としてしまえば、ひさしにぶつかって岩王鷲に気づかれてしまうだろう。チャンスは一度きり。失敗は許されない。

 その日、岩王鷲は一度も巣を飛び立たなかった。

 四日目。ルォはかろうじて意識を保っていたが、濁流(だくりゅう)のような記憶の(うず)、あるいは妄想に翻弄(ほんろう)されていた。

 最初は父親と母親が生きていた頃の場面。夕食の時間だろうか。父親が今日の成果を自慢げに話していて、母親はあまり喜んではいない。危険なことはしないで欲しいと父親にお願いしている。そんな中、ルォはひとり夢中になって碧苔(あおごけ)入りのシチューを食べている。

 母親がルォに同意を求めた。


『……ね、ルォ。あなたもそう思うでしょ?』

『うん、母さんのシチュー好き!』


 父親は大笑いした。


『そうだな。母さんのシチューをもっと美味しくするためにも、いっぱい碧苔をとってこなくちゃな』


 母親が困ったように父親に相談する。この子は夢中になると周りが見えなくなるのだと。父親は再び笑うと、苔取り屋には集中力が必要だと言ってルォの頭を撫でた。

 突然、その光景が木っ端微塵に砕かれた。

 視界が暗転し、まるで呪いのような人々の言葉が襲いかかってきた。


『頭を抱えて突然叫び出したかと思えば、白目を剥いて倒れちまったよ』

『もうだめだ、この子は壊れとる』

『こっちの声なんて届いちゃいないのさ』

『いっそのこと両親といっしょに死んじまった方が、この子のためだったかもしれんなぁ』

『しっ、滅多なことを言うんじゃないよ』

『今は問題ないが、大きくなったら村に災いをもたらすのではないか。誰かが預かって、管理すべきだろう』

『いや、うちは――』


 再び場面が切り替わった。

 見覚えのある村の少年たちが、ルォを取り囲んで責め立てた。


『おい、孤児(みなしご)ルォ!』


 彼らは何を怒っているのだろうか。分からない。考えようとすると頭が割れそうになる。


『お前、サジさんに取り入って、苔取り屋になったんだってな?』


 岩王鷲は滅多に姿を現さない魔獣だという。探し出そうとするならば、頻繁(ひんぱん)に大峡谷を降りなくてはならない。そのためには苔取り屋になる必要があった。

 だからルォは、サジにお願いしたのだ。


『普通は試験とかあるんだぞ。そんなに小さくてひょろっちいのに、お前なんかが受かるわけない』


 試験なら合格した。練習用の岩壁とやらを登らされたのだ。ルォにしてみれば梯子(はしご)を登るような感覚であり、とても簡単な試験だった。サジは驚いていたようだが、理由は分からない。 


『“顎門(あぎと)”なんて、降りられるわけないだろ』


 できると言ったら嘘つきだと罵倒(ばとう)される。

 いったいどうしろというのか。


『岩王鷲を倒す? この、ほら吹き野郎が!』


 ほら吹きなんかじゃない。

 今、その時を待っている。

 その時?

 けたたましい鳴き声によって、ルォの意識は現実に引き戻された。


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