(2)
やっぱり、ここはいい。
切り立った岩壁に貼りついたルォは、改めてそう思った。聞こえてくるのは風の音だけ。世界でたったひとりきりになれる。
ルォにとって孤独とは忌避すべきものではなく、むしろ心が落ち着く状態だった。水と食料が得られるなら、ずっとここで過ごしたいくらいだ。
両手両足を使って慎重に岩壁を伝う。手足が触れるたびに岩壁がぷるりと波打ち、体重を支えるとっかかりを作ってくれる。苔取り屋の間では“石神さま”の加護と呼ばれている現象だ。特にルォの場合は岩壁の変化が大きい。しかし他人と比べたことがないルォは、それが特別なものだとは思っていなかった。
日当たりが悪く湿り気の多い場所を、碧苔は好む。だが、大きな株に成長するにはかなりの時間がかかるため、一度取った場所は探す必要がない。
見知った場所には目もくれず、ルォはどんどん谷底に向かって下りていく。
「あった」
岩の割れ目からかすかに覗く、碧。
片手と両足で体重を支えながら、ルォは愛用のシャベルで碧苔を削り取った。シャベルの根元の部分には小さな袋がついていて、削った苔をそのまま回収することができる。
幸先のよい出だしだったが、ルォは手足から、岩肌がざわつくような感覚を受けていた。
今日はやめたほうがいい。早く上がって家に帰れ。そんなふうに急かすような気配が伝わってくる。
その感覚に、ルォは従わなかった。
早々に切り上げてしまえば、あの少年たちに何をされるか分からない。これまでにも何度か、家の前で待ち伏せされたことがあったのだ。
それに、今日は調子がいい。岩蜥蜴が出たと万屋のサジは言っていたが、近くにそれらしい気配は感じられなかった。だから今日はもう少し下、中層まで下りてみよう。
お昼を過ぎた頃、ルォは奇妙なものを発見した。
それは、岩壁から不自然に突き出た巨大な岩の出っ張りだった。キノコの傘のような形をしており、表面は磨き上げたように滑らかである。明らかに自然の造形物ではなかった。
その物体をルォは初めて目にしたが、知識としては知っていた。生前の父親が教えてくれた。岩壁を自在に変形させて、安全かつ快適な巣を作る魔獣がいるのだということを。
岩の出っ張りは、落石などから巣を守るひさしなのだという。
ルォは物音を立てないように近づくと、ひさしのちょうど真上、岩壁から突き出るように生えていた白松に身体を預けた。幹はそれほど太くなかったが、枝が複雑に曲がりくねっていて葉も多いので、ぎりぎり身を隠せる。
耳を澄ますと、ひさしの下から物音が聞こえた。
何かが、いる。
白松の木と一体化したように、ルォは気配を消した。
時おりひさしの下から、がさがさと物音が聞こえてくる。しばらく様子を窺っていたルォは、ついに決定的なものを見た。
ひさしの先に現れた黄色いもの。鋭く尖ったそれは、巨大な魔鳥の嘴。
父親の仇――
岩王鷲だ。
◇
ルォが六歳の時、母親が流行り病にかかった。高熱が出て咳が止まらず急激に衰弱していく様子を、幼いルォは敏感に感じとっていた。
薬を買う必要があると、父親は言った。
だが、お金がない。
父親は腕のよい苔取り屋だったが、高価な薬を買えるほどの稼ぎはなかった。苔取り屋ギルドの元締めに頭を下げて金を借りようとしたが、断られたのだという。
紫苔を取りに行くしかないと、父親は言った。
幻の香辛料と呼ばれている紫苔は、碧苔など霞むくらいの金額で取り引きされているのだという。
まだ駆け出しで怖いもの知らずだった頃、父親は大峡谷の中層で紫苔を発見した。しかしあまりにも小さな株だったので、場所だけを記憶して引き返したのだという。特徴のある場所だからすぐに見つかるはずだと、父親は自信を覗かせた。
一方の母親は反対した。そんなに深く降りてしまったら、体力が尽きて戻れなくなってしまう。それに中層は上層と比べて魔獣の数も多いと聞く。お願いだから自分とルォのそばにいて欲しいと、泣きながら懇願した。
それでも父親は出かけていった。必ず紫苔を持ち帰ってくる。絶対に君を守るからと言い残して。
父親は帰ってこなかった。
当時、父親には仕事の相棒がいた。今は苔取り屋を引退して万屋を営んでいるサジである。
サジは父親に連れられて“顎門”の中層近くまで同行した。そこで岩王鷲の鳴き声を聞き、それ以上降りることを拒んだ。だがしばらくその場に留まって、父親の様子を見ていたのだという。
サジが目撃したのは、凶悪な岩王鷲が父親がいたであろう場所に突撃する光景だった。その後、岩王鷲は父親らしきものを掴んで、どこかへと飛び去っていった。
夫の死を告げられた母親は、悲嘆に暮れた。生きる気力を失い、ベッドから起き上がるどころか呼吸をするのも困難になった。
幼いルォは必死に看病した。見よう見まねで作った麦粥を無理やり母親に食べさせた。美味しいかと聞くと、母親は微笑を浮かべてこくりと頷いた。ルォは何度もスプーンを母親の口に運んだが、もう母親は食べてはくれなかった。粥を飲み込むこともできず、口の中に頬張ったまま、母親は死んでいた。
その事実を認識した瞬間、ルォの全身におぞましい戦慄が走った。
視界が真っ赤に染まり、ぐらりと傾いて。
それからの記憶はない。
次に気づいたのはベッドの上で、両親の葬式が終わった後だった。父親の訃報が届いてから十日と経たず母親も亡くなり、ルォは天涯孤独の身となっていた。
目覚めたルォは、自分が壊れていることを自覚した。突然、過去の記憶が蘇っては消えていく。現実と妄想の区別がつかない。頭がうまく働かず、一度に多くの人から話しかけられると混乱して、意識を失ってしまう。
たまらず、ルォはベッドに引きこもった。
近所の人たちやサジの差し入れがなければ、餓死していただろう。ベッドの中ですがるように“石神さま”を抱きかかえながら、ルォは必死に考えた。
自分が生きる理由を、だ。
それがなければ、死ぬしかない。
少しずつ考えをまとめて導き出した答えは、父親を殺し母親を悲しませた魔獣、岩王鷲に復讐すること。たったそれだけのことを決めるのに、一年という時間が必要だった。
岩王鷲が生息する大峡谷への立ち入りが許されているのは、苔取り屋だけ。
だからルォは、苔取り屋になった。
それから三年。
十歳になったルォは、ついに目的の魔獣を見つけた。
この岩王鷲が父親を殺したものかどうかは分からない。だがそんなことは関係なかった。ここで引き返してしまえば、生きる理由を自ら否定することになる。今度こそ自分は完全に壊れてしまうだろう。
絶対に、やるしかない。
問題は岩王鷲を倒す方法だった。手元には武器となるものがなかった。ちっぽけなシャベルでは埒があかないだろう。岩王鷲の大きさはルォの十倍以上ありそうだ。こちらは足場がなく、相手は自在に空を飛ぶことができる。まともに戦っては勝ち目はない。
何か武器になるものはないだろうか。
周囲を見渡したルォは、意外なものを発見した。
白松の根元に生えている、苔。よく見かける碧苔ではない。
「むらさき、ごけ?」
それは母親を助けるために父親が探し求めていた、幻の苔だった。
実物を見るのは初めてだが、話に聞いていた特徴と一致していた。よくよく観察すると、白松の根元にはマーカーが打たれていた。
小さな苔の株を見つけた場合、苔取り屋はすぐには回収しない。場所を記憶して苔が育つまで待つ。その時に目印として打ち込むのがマーカーだ。金属製の小さなピンにリボンがついていて、持ち主のサインが入っている。
ルォはリボンを確認した。
「父さんの、マーカーだ」
“顎門”の中層、特徴のある場所、そして紫苔。
すべての符号が一致していた。
ルォは理解した。ここが、あの日父親が目指した場所だったのだと。
紫苔の株は十分な大きさだった。ルォは慎重に紫苔を回収すると、父親のマーカーを引き抜いて、じっと見つめた。
父親が目指した場所に、父親の仇がいる。
何やら不思議な縁を感じた。
「父さん、力を貸して」
岩王鷲を倒すための力を。
時間をかけて悩んだ結果ルォが導き出した答えは、周囲に豊富にある材料、岩石を使うことだった。
白松の近く、わずかに突き出た岩壁を両手でつかむ。指先が直接触れた部分がぷるりと波打ち、柔らかくなる。顔を真っ赤にして力を込めると、自分が思い描いた通りにひびが入っていく。ついには、ごとりという音とともに、ひと抱えほどもある岩石の欠片が引っこ抜かれた。欠片の岩壁と接地していた面が、ぼんやりと虹色に輝いている。
「あれ? 軽い」
と思った瞬間、虹色の輝きが消えて、ずしりと重くなった。思わず岩石を取り落としそうになり、ルォは全力で踏ん張った。胸に抱きかかえるようにして白松の幹に押しつける。頼りない幹がぎしぎしと軋んだ。
これを、岩王鷲の頭に叩きつける。
作戦は決まったが、巣の上のひさしが邪魔だった。
巣から飛び立つ瞬間を狙おうか。いや、そのためには白松の先の方まで身を乗り出す必要がある。大きな岩石を抱えたままでは折れてしまうだろう。いっそのこと、夜になったら巣に忍び込むというのはどうか。だめだ、高い位置から岩石を落とさないと、岩王鷲は倒せない。
再び考えすぎるほど考えてルォが出した答えは、この場所で機会を待つという消極的なものだった。
目的のものが視界に入ると、注意がおざなりになる。苔を見つけた時こそ、もっとも慎重であれ。それは、ルォがサジから教えられていた苔取り屋の心得だった。
岩石の欠片を抱えながら、ルォはじっと下の様子を窺っていた。
その日、岩王鷲は何度も巣を離れた。
大峡谷の王者と呼ばれているだけあって、その姿は勇壮なものだった。虹色の光沢を持つ翼、鋭い嘴と鉤爪、そしてぼんやりと紅く輝く目。ただ、身体に比べて頭はそれほど大きくないようだ。うまく当てることができれば可能性はある。
やがて日が暮れ、夜になった。
ひさしの下に岩王鷲はいるはずだったが、物音は聞こえなかった。ルォは眠らなかった。不安定な場所で重い岩石を抱えていたし、何よりも唯一の機会を逃したくはなかったのである。
気温が下がり、谷風が容赦なく体温と水分を奪っていく。ルォは非常食の木の実を食べ、水袋の水で喉を潤した。
次の日も機会は訪れなかった。
岩王鷲は何度も巣を離れたが、岩石を当てるタイミングはなかった。戻ってくる時も同じだ。一直線にひさしの下に入ってしまう。枝を咥えているので、巣作りをしている最中であることが分かった。岩王鷲は周囲を警戒しているはずだ。ルォの作戦は誰が見ても分の悪い賭けだった。
二日目の夜が過ぎ、三日目の朝になる。
急斜面の岩肌に好んで生える白松の表皮には、細かな毛が生えている。そこに朝露が付着して、幹全体が白く見える。白松の名前の由来だ。ルォは白松の幹に口をつけて水分を補給した。水も携帯食も残っていない。睡眠不足で意識が朦朧として、何度か気を失いそうになった。岩石を取り落としてしまえば、ひさしにぶつかって岩王鷲に気づかれてしまうだろう。チャンスは一度きり。失敗は許されない。
その日、岩王鷲は一度も巣を飛び立たなかった。
四日目。ルォはかろうじて意識を保っていたが、濁流のような記憶の渦、あるいは妄想に翻弄されていた。
最初は父親と母親が生きていた頃の場面。夕食の時間だろうか。父親が今日の成果を自慢げに話していて、母親はあまり喜んではいない。危険なことはしないで欲しいと父親にお願いしている。そんな中、ルォはひとり夢中になって碧苔入りのシチューを食べている。
母親がルォに同意を求めた。
『……ね、ルォ。あなたもそう思うでしょ?』
『うん、母さんのシチュー好き!』
父親は大笑いした。
『そうだな。母さんのシチューをもっと美味しくするためにも、いっぱい碧苔をとってこなくちゃな』
母親が困ったように父親に相談する。この子は夢中になると周りが見えなくなるのだと。父親は再び笑うと、苔取り屋には集中力が必要だと言ってルォの頭を撫でた。
突然、その光景が木っ端微塵に砕かれた。
視界が暗転し、まるで呪いのような人々の言葉が襲いかかってきた。
『頭を抱えて突然叫び出したかと思えば、白目を剥いて倒れちまったよ』
『もうだめだ、この子は壊れとる』
『こっちの声なんて届いちゃいないのさ』
『いっそのこと両親といっしょに死んじまった方が、この子のためだったかもしれんなぁ』
『しっ、滅多なことを言うんじゃないよ』
『今は問題ないが、大きくなったら村に災いをもたらすのではないか。誰かが預かって、管理すべきだろう』
『いや、うちは――』
再び場面が切り替わった。
見覚えのある村の少年たちが、ルォを取り囲んで責め立てた。
『おい、孤児ルォ!』
彼らは何を怒っているのだろうか。分からない。考えようとすると頭が割れそうになる。
『お前、サジさんに取り入って、苔取り屋になったんだってな?』
岩王鷲は滅多に姿を現さない魔獣だという。探し出そうとするならば、頻繁に大峡谷を降りなくてはならない。そのためには苔取り屋になる必要があった。
だからルォは、サジにお願いしたのだ。
『普通は試験とかあるんだぞ。そんなに小さくてひょろっちいのに、お前なんかが受かるわけない』
試験なら合格した。練習用の岩壁とやらを登らされたのだ。ルォにしてみれば梯子を登るような感覚であり、とても簡単な試験だった。サジは驚いていたようだが、理由は分からない。
『“顎門”なんて、降りられるわけないだろ』
できると言ったら嘘つきだと罵倒される。
いったいどうしろというのか。
『岩王鷲を倒す? この、ほら吹き野郎が!』
ほら吹きなんかじゃない。
今、その時を待っている。
その時?
けたたましい鳴き声によって、ルォの意識は現実に引き戻された。