(6)
その日の夜、仮面の少女は勇気を出して提案した。
「このお城を美しくしてくれた掃除屋さんをお食事にお招きし、是非ともお礼を申し上げたいのです」
「しかし、おひいさま」
レイザはやや戸惑ったように、しかし予想通りの答えを返してきた。
「掃除屋は、魔法使い。世間的には下賤な輩と呼ばれている者です。おひいさまのような方がお会いして、お言葉をかけるような身分ではございません。それに、御身にもしものことがあれば」
「レイザ」
少女の声がやや低くなった。
「わたくしも窓から拝見いたしました。命を落としかねない場所で、あの方はずっとお仕事をされていました。この朽ち果てたお城を美しく蘇らせるためにです。あなたから見て、危険な方だと思われますか?」
「い、いえ。決してそうは申しませんが」
自分を鼓舞するかのように、少女はぎゅっと拳を握りしめた。
「身分の差など、今の私には無意味なことです。ここは王宮ではありませんし、私に仕えてくれるのは、あなただけ」
沈黙するレイザに少女は懇願した。
「お願いレイザ。私は、あの方に勇気をいただいたのです」
「勇気を?」
「そうです。どのような境遇にも挫けず、真っ直ぐに前を見つめて、ただひたすらに自分の仕事をまっとうする、その姿に」
冷静に考えるならばやや不自然な物言いだったが、レイザは頭の片隅で検討を余儀なくされていた。
少女は存在そのものを疎まれている、この国の王女だった。詳しい事情をレイザは教えられていなかったが、少女が身につけている仮面と現在の境遇がその証だった。
まだ十歳だという。本来であれば、社交界でのお披露目に向けて準備に追われている年頃のはず。それなのにこの少女は、辺境の朽ち果てた古城に幽閉され、ひっそりと暮らしている。
思えば哀れな少女であった。
この少女に仕えて一年近くになるが、これほど積極的に何かを成し遂げようとする姿をレイザは見たことがなかった。
従順でおとなしい性格で、空き時間にはぼんやりと窓の外を眺めている。古城の空気に溶け込んだかのような儚げな印象が、覆った。
この変化が少女によい影響を与えるとは、レイザは思えなかった。希望のない立場の者が希望を抱くことは、残酷ですらある。最初から望まなければ、傷つくこともないのだから。
「かしこまりました」
しかし、レイザは承諾した。
譲歩したのは、職務に対する冷徹な判断力と、少女への哀れみに掃除屋であるルォの信頼度を加味したものを天秤にかけ、わずかに傾いたからに過ぎない。不意打ちのような願いでなければ、おそらく認めなかっただろう。
ようするに気まぐれの類だった。
「ありがとう、レイザ」
心底嬉しそうに少女は微笑んだ。仮面を被っているのだが、それでもその奥に隠された美貌が垣間見れるような表情だった。
「会食にはわたくしも同席いたします。くれぐれも、不用意な発言はお控えくださいませ」
少女の必死な提案もレイザの気まぐれな譲歩も、結局のところは無駄になった。
就寝前という時間に、四頭立ての高速馬車がアッカレ城に到着したのだ。それは王都からの使者だった。緊急の用件につき、少女を王都に召還するのだという。使者も馬も疲れ切っていたが、翌朝にはアッカレ城を出て、王都へ向かうのだという。国王より勅命を受けているらしい。
事情を聞いた少女は、せめてお食事の時間だけでもと訴えかけた。だが、事態はすでにレイザの裁量を超えていた。王都で少女に関する大きな決定が下されたことは明らかだった。それに侍女であるレイザは荷造りに追われることになり、会食の準備をする余裕などなかった。
翌朝、二人を乗せた馬車は、慌ただしくアッカレ城を出発することになった。
城門を出るとすぐに、少女は馬車の窓から身を乗り出した。
「おひいさま、危のうございます!」
少女が望んだ人物は、正門の上にいた。
あぐらをかくような体勢でこちらを見ている。
ごめんなさい。
ゆっくりと口を動かすと、少年は大きく手を振ってくれた。
ルォはあんなにも素晴らしい世界を見せてくれたのに、自分は何もお返しをすることができなかった。それどころか、本当の名前すら告げることはできなかった。
悔しい。そして、申し訳ない。
「ルォ!」
悲痛な少女の叫びは、けたたましい蹄の音にかき消されてしまう。
少年の影が涙に滲んで、消えた。
◇
「……ペッポコ、いっちゃった」
城壁の上のルォは、珍しくため息をついた。
予想もつかない言葉を突きつけてくる子供の相手は苦手だったが、勇気を出して話し合えば分かり合えることを、ルォは知っていた。
だから、話をした。
仮面の少女は些細なことでも喜んでくれたし、ルォの知らない文学も教えてくれた。内容はあまりよく分からなかったが、とてもきれいな声だった。
どういうわけか、少女は城の外へは出られないらしい。
「もっといろいろ、見せてあげたかったな」
城壁の上であぐらをかいたまま、ルォは後ろを振り返った。
美しく生まれ変わった城だが、あの少女がいないのでは意味がないような気がする。
それでも、仕事は仕事だ。
ルォはレイザから完了届を渡されていた。あとはアルシェの街に戻って、魔法局のノックスに報告するだけ。
前金を渡していた馬車は、予定通りミドの村まで迎えにきてくれた。ロッカの町で旅行馬車を探すのは大変だったが、馬車駅の窓口の人が親切に教えてくれた。
正直、ほっとした。ルォにしてみれば、今回の遠出はかなりの冒険だった。
行きと同じ行程を経て、ルォは無事にアルシェの街へ帰ってくることができた。




