(4)
少女は窓の外を眺めることが好きだった。
居館から突き出ている塔の三階が少女の自室だったが、周囲を取り囲む城壁の方が遥かに高い。窓から見えるのは、時の中に忘れ去られてしまったかのような、荒れ果てた中庭やひび割れた石畳くらいのもの。ただ、草花や木の葉の色づき方で、季節を、時の流れを感じることができる。
だから少女は、勉強と読書と食事の時間以外で自室にいる時には、ずっと窓の外を眺めていた。
その行為は、物心ついた時から様々な制約を受けてきた少女の漠然とした自由への憧れであり、あるいは無意識の抵抗だったのかもしれない。
そんな少女には、密かな楽しみがあった。
中庭に生い茂っている樹木の枝、その根元の部分に、名も知らない小鳥の番が巣を作ったのだ。しばらくすると、親鳥に餌をねだる可愛らしい鳴き声が聞こえてきた。
卵が孵ったのである。
忙しく餌を運んでくる親鳥と、黄色い嘴を目一杯開けて餌をねだる雛たち。そんな家族の様子を見守っているだけで、少女はとても幸せな気持ちになった。
鳥の巣には三羽の雛がいた。一番元気で食いしん坊のガウバウ、餌をねだる時以外はそっぽを向いているプイチ、そして一番小さなペッポコ。最初は見分けがつかなかったが、観察しているうちにそれぞれの特徴が分かるようになったので、少女は勝手に名前をつけることにした。
雛たちはすくすくと育っていく。やがて巣立ちを迎えるだろう。その時は寂しく思うだろうが、ひょっとすると今度は親鳥として、この城に戻ってきてくれるかもしれない。
それが、今の少女の望みのすべてだった。
とある雨の日、廃墟と化した城に変化が訪れた。城内の掃除を行うというのだ。期間は十日間。作業をする掃除屋はひとりだけだという。
この城に客人がやってくることはほとんどない。少女が知る限り、時おり食料などを運んでくる荷馬車の御者くらいのもの。応対するのは侍女のレイザで、少女はずっと部屋の中にいた。下々の者とは気軽に会って話をしてはいけないのだという。
「多少は見栄えがよくなるかもしれません。しばらくすると、元に戻ってしまうでしょうが」
レイザの話では、掃除屋は離れの客室で寝起きするのだという。決して近寄らないようにと少女は注意を受けた。掃除屋は下々の者の中でも危険な、魔法使いと呼ばれる人らしい。
それから三日後、降り続いた雨がようやく上がった。
久しぶりに窓を開けて外を眺めた少女は、信じられない光景を目にした。
城壁が、眩しい。
わずか三日のうちに、薄汚れて不気味だった城壁は、まるで白い塗料で上塗りされたかのように美しい姿に生まれ変わっていたのである。
驚きのあまり呆然としていると、敷地内を動き回っている小さな人影に気づいた。
あの人が掃除屋さんだろうか。地面に落ちた蔦や苔などを拾っては運び、中庭にある噴水や石像によじ登ったりしている。それにしてもよく動く。もし自分だったなら、すぐにへとへとになってしまうだろう。
掃除屋の姿を目で追いかけていると、時おりこちらに顔を向けてくることがあった。そんな時少女は、急いでカーテンの陰に隠れた。
少女は仮面をつけていた。額から鼻と頬にかけて、顔の半分以上を覆う白い仮面だ。こんな姿を見られたくないと思った。しかしすぐに気になって、カーテンの陰から外の様子を覗いてしまう。
「よい掃除屋を、雇うことができました」
夕食の時、レイザが報告してきた。
レイザはこの城で働く唯一の侍女である。彼女の仕事は少女の身の回りの世話だけではない。家庭教師でもあり、毎日の食事も作ってくれる。厳しいが優秀な女性だ。本来ならば王宮で活躍すべき人材なのだろう。自分がいることで、レイザをこの廃城に縛りつけているのだと少女は認識していた。
ここに輝ける未来などない。自分などのために申し訳ない。だからレイザが珍しく機嫌がよさそうなのを見て、少女は嬉しかった。
「窓から拝見いたしました。お城の壁が、とても美しくなりましたね」
「はい、おひいさま。予算もない中で、これは重畳でございます」
二百年ほど前、この城はとても美しい白亜の城だったという。その時の姿を取り戻せるかも知れないと、レイザは言った。
「せっかくでございますから、庭木や草花の苗などについても予算を要求してみましょうか」
掃除屋さんはどのような方なのだろうかと、少女は考えた。
中庭での仕事を終えた掃除屋は、いよいよ建物に取りかかった。敷地内には少女やレイザが住む居館と、立ち入ることすらできない礼拝堂がある。
少女は再び、信じられない光景を見た。
掃除屋は礼拝堂の壁にいた。ロープも梯子も使わずに、手足だけで貼りついている。まるで蜘蛛のように体重を感じさせない動きで、するすると移動していた。
専門家というのは、こんなにすごいことができるのか。
命綱はつけていないようだ。もし手足を滑らせたりでもしたら、どうなるのか。少女は怖くなって、まともに見ていることができなくなった。
心を落ち着けるために、中庭の植木にある小鳥の巣に目をやった。
三羽の雛たちの大きさには、ずいぶん差がついていた。力いっぱい嘴を開けて餌をねだるガウバウは、どんどん逞しく大きくなっていく。要領のよいプイチもそれなりに。しかしペッポコは小さいままだった。三羽ともに元気に巣立ってくれることを、少女は願っていた。
その時、事件が起きた。
巣の中でガウバウが羽ばたきの練習をしていて、その羽根にぶつかったペッポコが、巣からはじき出されてしまったのである。
「あっ」
少女は真っ青になった。
ペッポコの丸い体はくるりと一回転して、巣のすぐ下に伸びる枝に落ちてしまった。頼りない足取りで、必死に巣の中に戻ろうとするものの、段差が大きすぎる。
そのうちに足が滑って、ペッポコは枝から転がり落ちた。
幸いなことに別の枝葉に引っかかった。自分に起こったことが分からないのか、混乱したように鳴き叫ぶペッポコ。だが、親鳥は巣を離れている。たとえ戻ってきたとしても、ペッポコを巣に戻すことはできないだろう。
ペッポコは、死ぬ。
その未来を予感した少女は、絶望に震えた。
レイザに相談しようか。だめだ、木の枝はとても高い位置にある。梯子を使ったとしても届きそうにない。
「掃除屋さん、助けてください!」
唯一の希望にすがりつくように、少女は礼拝堂に向かって叫んだ。これまで視線が合うたびにカーテンの陰に隠れていたというのに、虫のよい話であった。それでも少女は出窓のところに両手をついて身を乗り出し、届かない声を必死に届けようとした。
いつの間にか礼拝堂の屋根にいた掃除屋が、ちらりとこちらを見た。
「助けてください。中庭にある小鳥の巣から、雛が落ちてしまったんです。お願いです!」
上空は風が強く、かなりの距離がある。とても聞こえるとは思えない。掃除屋は首をかしげるような素振りを見せた。部屋の中から、少女はもう一度訴えかけた。掃除屋は動きを止めて、こちらを見ている。こくりと頷いたように思えた。それは錯覚などではなかった。掃除屋は礼拝堂から降りると、中庭まで駆け足でやってきたのである。
「あそこの、木です」
少女が指差す木を確認して、するすると登っていく。枝の上で鳴いていたペッポコをそっと掴むと、さらに上に登って、巣の中に戻してくれた。
あっという間の出来事だった。
信じられない。こんなにもうまくことが運ぶなんて。
少女は心底安堵したが、同時に疑問に思った。
礼拝堂の屋根までは声など届かないはず。それなのに、どうして分かったのだろう。
ふと気づくと、いつの間にか目の前に掃除屋がいた。
出窓のところでしゃがんでいる。驚いたことに、自分と同じくらいの歳の少年だった。
少女は動揺した。こんな仮面をつけた顔を見られたくない。下々の者と接してはいけない。でもお礼を言わなくては。ああ、でも。
混乱した少女は、本能的に身を守るかのように窓を閉めてしまった。
「うわっ」
バランスを崩した少年の身体が、後方に傾く。両手をばたつかせながら、後ろの方に倒れ込んだ。
「あっ」
少女は青くなった。
再び窓を開いて、出窓から身を乗り出す。
少年は地面に落ちていなかった。出窓のすぐ下、壁面に対して垂直に立っていたのである。ほとんど息が届くほどの距離だった。まともに視線がぶつかってしまい、少女は硬直した。
「こ、こんにちは」
少年は挨拶をしてきた。
「ご、ごきげんよう」
反射的に、少女も言葉を返す。
二人とも顔が真っ赤になっていたのだが、互いに自覚している余裕はなかった。
「えっと」
先に冷静さを取り戻したのは、少年の方だった。
「僕は、ルォ。アッカレ城で、お掃除をしています」
知っている。ずっとここから見ていた。
「ひょっとして、おひいさま?」
そこで少女も我に返った。
相手に名乗られて返答をしないのは、礼を失する行為だった。しかし少女はレイザから、下々の者に対して気軽に名乗ってはいけないと教えられていた。
『よろしいですか、おひいさま。見知らぬ者に名乗らなければならない場合は、偽名を使うのです。例えば――』
だがあまりにも想定外の事態に、少女の頭の中は真っ白になってしまった。
「あ、あの。わたくしは」
頭の中に思い浮かんだレイザの姿が弾け、先ほど少年が救った小鳥の雛がぴょんと飛び出した。
「ペ――ペッポコ」
口に出した瞬間、激しく後悔した。
ただでさえ怪しげな仮面をつけているというのに、名前がぺッポコではあんまりである。しかし今さら訂正する勇気はなかった。
ルォと名乗った少年は、少女の偽名をごく自然に受け止めたようだ。
ひとつ頷いて、にこりと微笑む。
「よろしくね、ペッポコ」
原理は不明だが、少年は壁に垂直に立っていた。このまま下に落ちたら、怪我どころでは済まないだろう。
「そ、その、掃除屋さん。そんなところにいらしては、危ないです。早く、部屋の中に」
少女は気づいていなかったが、下々の者を自室に招き入れるなど、本来あってはならないことだった。
少年は出窓によじ登ったが、部屋の中には入ってこなかった。
「レイザさんに言われてるんだ。塔の中は、立ち入り禁止だって」
だが窓の外であれば、問題ないはずだという。
「今は仕事中だから、またね」
「は、はい」
思わず少女はそう答えてしまった。




