(1)
ルォは苔取り屋だ。
村の外れにある大峡谷の岩壁を伝って、碧苔を集める。この苔は乾燥させて粉末状にすると、香辛料の一種になる。村から出たことのないルォはよく知らなかったが、都会では珍重され、高値で取り引きされているらしい。
その日の朝も、ルォは仕事の準備に余念がなかった。
苔を削り取るための特殊なシャベル、携帯食と小道具類が入ったポーチ、水袋、頑丈なロープ。指先がむき出しになった革製のグローブは使い込まれていてぼろぼろだ。買い換え時はとっくに過ぎているのだが、なかなか踏ん切りがつかないでいる。
いつものように身支度を整えると、ルォはリビングの戸棚の上にある小さな石像、“石神さま”に三つの願いごとをした。
「ひとつ、落石が当たりませんように。ふたつ、谷風にあおられませんように。みっつ――」
石像の隣には、大人用のグローブと、翡翠のついたペンダントが飾られている。
ルォの父親と母親の形見だ。
「父さんの仇が、うてますように」
毎朝の祈りの言葉はいつも同じ。生前の父親が口にしていた三番目の願いは「よい苔が見つかりますように」だった。その部分だけを、ルォは変えたのである。
朝の祈りを終えると、ルォは“石神さま”を指でつついた。指先の触れた部分が淡い光を放ち、ぷるりと波打つ。波は互いに干渉し合い、石像全体に広がっていく。くねくねと踊るように揺れてから、“石神さま”は再び硬質な石へと戻った。
「いってきます」
家を出たルォは、まず万屋へと向かう。今日の苔の相場を確かめるためだ。
「サジさん、いくら?」
「昨日とかわんねぇよ」
店主であるサジの返答は、はなはだやる気のないものだった。辺境といえる土地での相場が短期間で変動するはずもない。このやりとりはルォにとって決まりごとのようなもの。毎日同じ工程を繰り返すことが大切なのである。
しかしその日は、サジから注意事項があった。
「ルォ。お前、また“顎門”から降りるんだろ?」
「うん」
「あの付近に、岩蜥蜴が出たそうだ」
小柄なルォなど丸呑みにできるほど大きな魔獣である。大峡谷の岩壁を自由に動き回り、動くものなら何でも貪欲に捕食する。
「やつらは燻した紅草の匂いを嫌う。買ってくか?」
「持ってるからいい。岩王鷲は?」
「知らん」
岩王鷲は岩蜥蜴よりも危険な魔獣である。個体数が少なく滅多に出会うことはないが、見つかったらまず助からないと言われている。岩蜥蜴と違って苦手な匂いもない。苔取り屋たちは岩王鷲のことを鬼や悪魔のように恐れていたが、ルォは違った。
岩王鷲は、ルォの父親の仇だからだ。
「いってきます」
「おう、くたばんなよ」
ぶっきらぼうな返答は毎回同じ。そのことに気をよくしたルォは、軽快な足取りで大峡谷へと向かった。途中、雑木林の中にある丸太小屋で手続きをする。といっても台帳に自分の名前と行き先を書くだけ。大峡谷から上がってきたら名前を消す。今日も一番乗りだ。さらに気をよくしていると、小屋の扉が乱暴に開いて、ルォより少し年長の三人の少年が入ってきた。
「お、いやがった」
「だから言ったろ。朝の早い時間に来るって」
「よう、孤児ルォ」
面倒なことになったとルォは思った。
彼らもルォと同じ苔取り屋だった。両親のいないルォは、からかわれたり虐められたりしていたので、彼らのことが嫌いだった。
岩肌に朝露が残る時間には、苔取り屋たちは大峡谷に現れない。そのはずだったのに。せっかく順調だった朝の工程はすべて台なしになった。
少年のひとりが台帳を確認して、仲間に報告した。
「あ、こいつ。また“顎門”って書いてるぜ」
大峡谷には地形的な特徴から名前がつけられた場所がいくつかある。“顎門”もそのひとつだ。
「この、ほら吹き野郎が!」
「どうせこそこそ隠れて“鉤鼻”かどっかで降りてるんだ。そうに決まってる」
「岩王鷲を倒すとか言ってたくせに、ぜんぜんだしな」
ルォは嘘などついていなかった。“顎門”は父親がよく降りていた場所だった。他の場所で仕事をするつもりはなかったし、岩王鷲とはまだ出会っていないだけ。
「おい、何とか言えよ」
ルォは黙っていた。
何を主張したところで言い返されるに決まっている。議論というものが、ルォは苦手だった。
「――あっ!」
だから、逃げた。
「弱虫め」
「追いかけろ!」
幸いなことにルォは逃げ足に自信があった。俊足を飛ばして一気に少年たちを引き離す。雑木林を駆け抜けると、ひとり目的地へとたどり着いた。
大峡谷。
底が見えないほど深く切り立った断崖絶壁である。どこまで続いているのかルォは知らない。対岸は遥かに遠く、ぼんやりと霞んで見えた。
そこは、“顎門”と呼ばれる場所だった。
崖の角度は垂直以上で、縁から見下ろしても岩壁が視界に入らない。内側に抉れているとでもいおうか。その名の通り、まるで顎のように突き出た形の崖なのだ。
ルォは襷がけにしていたロープを解くと、一方の端を崖の縁に生えている木の幹に、もう一方の端を自分のベルトに巻きつけた。何度か強く引っ張って、問題がないことを確認する。
ルォは崖に向かって駆け出し、そのまま跳躍した。
ロープが崖の縁にかかり、ルォの身体は弧を描くように抉れた岩壁へと引き寄せられた。ルォは空中で身体を捻ると、まるで岩蜥蜴のように岩壁に貼りついた。堅い岩壁がぷるりと波打って、衝撃を吸収してくれる。ルォはベルトに巻きつけていたロープを解くと、あらかじめ岩壁に打ち込んであった杭に結びつけた。
ここからは、命綱なしの行動だ。
一方、遅れて“顎門”にやってきた三人の少年は、ルォが崖下に飛び降りる瞬間を目撃した。
「あ、あいつ。本当に降りやがった」
「嘘だろ?」
「死ぬ気かよ!」
“顎門”はベテランの苔取り屋でも避ける難所だった。降りる者が少ないので、碧苔が見つかる可能性は高い。だが、命を引き換えにして挑戦するほどではない。苔取り屋にとって一番大切なことは、無事に戻ってくることなのだから。
「父ちゃんが、言ってた」
少年のひとりが呟いた。
「“顎門”は、よっぽどの度胸と“石神さま”の強いご加護がないと降りられない場所だって。一人前になるためには一度は降りなきゃだめだけど、二度と降りたくはないって」
大峡谷の底から唸るような谷風が吹き上がり、少年たちを震え上がらせた。