第3話 始まりの朝へ ①
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「いやぁ~!!! 誰かタスケテー!」
公衆の面前でもお構いなしに女々しい叫び声を挙げながら雄は自分の住んでいる学生寮へと全力疾走していた。
というのも、今現在、雄自身に怪奇現象ともいうべき不気味なことが起きている。
───姿も気配もないのに何者かが頭のなかに話しかけてくる。
自分が実際に見たもの聞いたものしか信じない現実主義者の雄にとってこの怪奇現象は考察に値する興味深い現象であるのだが、実際に出会した不可解な現象に普通に逃げ出した彼に考察の余裕などミジンコ程もなかった。
人目も気にすることなく走り続けること約10分、ようやく雄は自分の寮の部屋に飛び込むように帰った。
誰も入ってこないように鍵とチェーンを驚くべき速さで施錠し、厳重警戒体勢をとる。
「はぁはぁ……、なんだっだ? はぁ……あの声は?」
自分でも驚くほど速く、長く走っていたことに謎の感銘を受けるも、限界を超越しただけあって体力の減りが尋常ではなかった。
雄は途切れ途切れになった息を整えながら辺りを見回す。
しかし、依然として誰の気配も感じることはなく、不気味な静寂と緊張感だけが雄を包む。
しばらく、警戒して周囲に気を配っていた雄だったが声がしないと確認すると緊張の糸がほどけたように安堵のため息を吐く───その瞬間だった。
『マッタク、急ニ走リダスノデ、ビックリシマシタヨ』
安堵を覚えた刹那に再びあの謎の声が雄の頭に響き渡る。
雄は恐怖のあまり、壁にもたれ掛かり見えない相手に降参と言わんばかりに両手を上げて半泣きになりながら叫んだ。
「あ、あぁあぁあ!! ご、ごめんなさい! とりあえず、ごめんなさい!! なんか分かんないけど、ごめんなさい!!! なんでもしますからぁ! 命だけはぁぁ! あと、できれば成仏してください……」
『今、ナンデモスルト言イマシタカ?』
「はい! できる限り! 誠心誠意真心込めて!!」
『デハ、雄サマ。マズハ落チ着イテゴ自身ノ右手ヲ見テクダサイ』
「えっ?」
思いがけない言葉にキョトンとする雄だったが、謎の声の言う通りに右手を見る。
が、しかし、そこにはなんの変哲もない六部 雄の右手があるだけだった。
「なんにも、ないけど……」
『違イマス。手ノ甲ヲ見テミテクダサイ』
「手の甲?」
そう言って、雄は自分の手を返すなり驚愕した。
彼の手の甲には今にも飛びかかってきそうな雄々しい『虎』のシルエットの刺青が彫られていた。
もちろん、雄にそんな趣味はないし、第一覚えがない。
「あ、なるほど。それで、あなたは何日後にオレを呪い殺しに来るんですか?」
『イヤ、ナニガナルホドデスカ。マッタク違イマス』
「え? でもこれ完全に“きっと来るぅ”やつですよね? これ、○子にマーキングされた的なパターンですよね? 井戸から這ってくるパターンですよね?」
『イエ、違イマス。屋根裏カラ降リテクルパターンデス。伽○子ナヤツデス───ッテ、ソレモ違イマス! 幽霊ジャナイデス!!』
「えっ? じゃあ、これが呪いの印じゃなかったら、なんなんだよ?」
『ソウデスネ。一概ニ“なに”ト言ワレテモ答エニクイノデスガ、分カリヤスク言ウノデアレバ『居住権』トイウ感ジデスカネ』
「居住権?」
おうむ返しをしながら、手の甲をまじまじと見つめる。
(こんな刺青みたいな厨ニ病全開な紋章のどこに居住権の要素があるんだ?)
雄が首を捻っていると謎の声が再び口を挟む。
『デハ、ソノ厨ニ全開ナ紋章ガナンナノカオ教エシマス。アマリ時間ガナイ故、詳細ハ省略サセテイタダキマス』
「あれ? 聞こえていた? てか、なんで分かったの? ねぇ、もしかしてオレの心読んだ? 読んだよね? ねぇ!?」
『先程モ言ッタ通リ、ソノ紋章ハトアル場所ニ永住スルコトヲ許可サレタ証、〈許可証〉、〈居住権〉〈住民個票〉、マァ、言イ方ハ様々デス。ソノ紋章ニハ所有者ノ情報ガホボ全テ記載サセレイマス』
「ちょっと、人の話聞いてる? てか、個人情報駄々漏れなんですけど……」
『ワタクシハソノ紋章ノ前ノ持チ主ノ意向ニヨリ、雄サマノサポータートシテ指向性音波ヲ介シテオ話シサセテイタダイテ───』
「ちょ、ちょいまち! しこうせいおんぱ? 前のってどういうことだよ!? オレはいつから紋章の所有者になったんだ?」
〈質問ガ多イデスネ〉
「二つだけだろうが……」
〈デハ、オ答エシマス。指向性音波トハ、簡単ニイエバ電話ノヨウナモノデスガ、発信者側ト受信者側ノ会話ヲ第三者ニ一切傍受サレルコトナク行エマス。ナノデ、ワタクシハ現在、雄サマノ脳内ニ音波ヲ送ッテ会話ヲシテイマス。“テレパシー”ノヨウナモノデスネ〉
「ふ~ん、よく分からん。じゃあ、一体誰がこの紋章をオレにくれたんだ?」
雄は首を傾げながら尋ねる。
確かに、雄にはそんな見ず知らずの『住民個票』など擦り付けられた覚えなどまったくない。
『チャント引キ継ガレマシタヨ、カナリ一方的デハアリマシタガ。ソレニ雄サマ……、雄サマハモウ気付カレテイルノデハナイデショウカ? ソノ紋章ナンナノカヲ……』
「いや、うん、なんとなく察しはついてるけど……その、何て言うかぁ、このいかにもラノベとか漫画でよくある展開って───いや、いいんだよ!? いいんだけど、こう、テンプレというかなんというか……在り来たりなというか」
『斬新ナ展開ジャナイトダメナンデスカ? “テンプレ”ジャダメナノデスカ?』
「そうは言ってないですよ○舫さん」
『ダイタイ、アナタサマハゴ自身ノ人生ニ一体ナニヲ求メテイルノデスカ?』
「ハーレム」
『アナタサマノ夢ダッテカナリノ“テンプレ”ダト思ワレマスガ? ソレニマダ本編始マッテスライナイノデスカラ、多少無理矢理デモ早ク話ヲ進メマショウ。長ッタラシイプロローグナド誰モ望ミマセンヨ?』
「後半かなりメタいこと言ったな。大丈夫かよ……。てか、本編ってなによ? プロローグってどういうこと? オレはいつからラノベの主人公になったよ?」
ジト目を向けたいが話している相手に実体がないのでとりあえず天井に向かってジト目を向ける。
まるで、その言葉に呼応するように謎の声がクスリと笑った微かな空気の漏れるような音を雄は聞き逃さなかった。
『コレカラナルノデスヨ、主人公ニ。『復興特区』……イエ、コノ場合アナタサマノ夢ヲ叶エラレル桃源郷、『恋愛特区』デ───』
謎の声がそう言うと雄は少し驚いた顔をしたものの直ぐに嬉しいような呆れたような笑みを浮かべ天井を仰ぐ。
(理解はしていたが、いざ言われてみるとなかなかくすぐったいなぁ)
溜め息を吐きニヤリと笑うと、
「まったく、法律違反はしてみるものだぜ。夢の国の招待券をイタズラ好きの女神さまから貰っちまった」
『アノ~、格好ツケテイルトコロ申シ訳ナイノデスガ……。アナタサマニソノ紋章ヲ与エタノハ三十代半バノオッサンデスヨ?』
「うるせーな! んなこと分かってんだよ!! そうでも言わねぇとオレがダサいの! 格好つけたい年頃なの!」
『左様デゴザイマシタカ。コレハ失敬』
「ったく、なんか締まらねぇな。まぁいいや、とりあえずオレはなにをすればいいんだ? 謎の声さん?」
『ソウデスネ。マズハ───』
こうして、ひょんなことで六部 雄の運命が変わった。
しかし、人生とはそんな何気ない変化の連続なのかも知れない。
しかし、運命は冷酷だ。
背負ったその未来の大きさを残酷さを雄はまだ、知らない……。
『的ナ感ジデ物語ノ冒頭ヲ飾ッテ、自分ノ士気ヲ上ゲルコトカラ始メマショウ!』
「すいません、『恋愛特区』行くの今からキャンセルできますか?」
………
……
…
「───んで、真剣な話、どうすればいいんだ?」
状況の整理は依然としてついてはいなかったものの、とりあえず、いつまでも床に情けなくへたれこんでいるわけにもいかなかったので雄は普段あまりしない(というか皆無)勉強や食事をとるダイニングのテーブルの前に腰を掛けて謎の声との会話を続けることにした。
〈エッ? デスカラ───〉
「よし、分かった。この話は無しだ」
〈ワカリマシタ、ワカリマシタ! 真面目ニ話シマス! マッタク、冗談ノ一ツモ通用シナイノデスカラ〉
「急いでるって言ったのはアンタだろうが……」
もういちいち謎の声の天然ボケ(?)を捌くのが疲れたのか、雄は溜め息を一つ吐くだけだった。
〈ソウイエバ! ソウデシタ!!〉
「なにが、“ソウデシタ!” だよ。まったく……んで、どうするだ?」
〈デハ、マズ、荷物ヲマトメテクダサイ。必要最小限ノ食料、着替エ、日用品ダケヲリュックニ入れてクダサイ〉
「……そっか」
謎の声の言葉にどこか悲しげに、けれどとても冷静に答える雄。
これも、彼の想像していた『お約束』の一つだ。
もう二度とここには帰れない、人生の転換期あるいは物語の序章には付き物のこの王道展開がいざ自分の身に起こるとなかなかどうして寂しい気持ちが雄の心にわき起こる。
雄はきっと、こんな状況をワクワクしていられるのはアニメやラノベの世界だけなのだろうと考え込んだ。
(こうして、いざ今から二度とこの家に───いや、この街に帰ってこれないって思うといろんな思い出が駆け巡って……駆け巡って…………)
突如、雄は無言のまま顔から嫌な汗だけをボタボタ流し始める。
「お、思い出……思い出……あれ?」
〈ドウサレタノデスカ? 雄サマ?〉
「い、いやぁ……な、な、なんでもないよぉ~……」
(おいぃ! やべぇぞ! オレの思い出の引き出しの中に“アニメやラノベで出てくる懐かしき友との思い出”的なものがない!! いや、待て待て! 探せばあるだろ。 例えば、そう! 『楽しい思い出』! 何かに必死になってなにかをやったとか……ん? あるぞ! 学校でよくいろんな奴と勝負を───だめだぁ! アレは相手をぶちのめそうってばかり考えていたから“楽しさ”の種類がそもそも論外! そうだ! 竜次とラノベを楽しんだ───だめだぁ! こっちはこっちで楽しいけど『思い出』っていうよりただの『犯罪履歴』ぃぃぃ!!!)
がくりと床に力なく手をついた雄は無言で目から涙を滝のように流していた。
(だめだぁ……ロクな思い出がない)
〈アノ……大丈夫デスカ?〉
「おい、“謎の声”さん」
〈ハイ?〉
「『恋愛特区』ってここからどれだけかかるの?」
〈ヤット自分カラ行ク気ニナッテイタダイタノハ大変嬉シイノデスガ、アノ無言ノ時間ニ何カアリマシタカ?〉
「いや、急に『楽しい思い出』を作りたくなって……」
そう言って、スッと立ち上がると押し入れからリュックを引っ張り出すといそいそと出発の準備を始めた。
そして、10分もしないうちに用意が完了すると、雄は自分の右手に刻まれている紋章に話しかけた。
「一応、準備した。で、出発はいつだ?」
〈随分、オ早イ準備デ。ソウデスネ、アマリ明ルイ時間帯カラ出発ハシタクナイノデ出発ハ日ガ沈ンデカラ……今ノ季節ダト20時以降ガ望マシイデショウ〉
「ふ~ん───」
そう言って、時計を確認する。
時刻は18時を少し過ぎた程度、出発まで残り二時間を切っていた。
しばらく、時計を見つめた後再び、右手に視線を移すと、
「なぁ、出発は9時でも構わないか?」
〈23時マデニ出発シテイタダケレバ構イマセンヨ。デキレバ他言無用デオ願イシタイノデスガ、ナニカナサルノデスカ?〉
その問いに雄は直ぐには答えず、リュックを玄関に置いて自分の寝室に向かう最中に「ラノベ……読まなきゃ」ポツリと呟いた。
「急に挨拶も無しに消えちゃ竜次が心配する。ちょっと一方的だが、別れの挨拶をしなきゃならない。そりゃ、直接会って話したいけど、なにせ他言無用なんだろ? だったらこういう形でやるしかないだろ? 男の別れに“言葉”はいらないってな。さぁて、シャーペンは何処だったかなぁ~?」
〈ヤレヤレ、他言無用ト言ッタジャナイデスカ〉
「“言う”気はないぞ?」
〈マッタク、ドコマデヒネクレテイルノデスカ? アナタサマハ。ソンナコトデハ女ノ子ニモテマセンヨ?〉
「…………そうだな、ちげーねぇ」
そう言って、静かに椅子に座ると表紙のないライトノベルのページをゆっくりと開き静かにシャーペンをとった。