逢魔の朝
逢魔の朝
女は私の横に座っていた。黒髪濡れる風情の美女だった。茶髪など知らぬ気にそよと朝の風に吹かれていた。
早朝、公園のベンチで隣り合った、それだけの、ゆきずり。
「私、もう、死ぬのです」
女がしめやかに言った。朝の明るい光の中でその台詞だけが異彩だった。
私は夏目漱石の『夢十夜』を思い出した。
「なぜ、死ぬのですか」
「天寿が、もう、ない」
私は初夏の朝、白いワンピースを来た玲瓏な女が、薬物中毒でないかと幾ばくかの懸念を抱いた。
「確信を?」
「はい」
女はしめやかに笑った。花のように笑ったので、私はどうにもまだ彼女が間も無く死ぬとは思えなかった。からかわれているのだろうか。不快には感じない。
もうすぐ会社に出勤しなくてはならない。私はヒールを鳴らして立ち上がった。
女はぼうとして動かない。黒髪がほんの少し靡いた。
私に、夢とかかずらう余裕はなかった。それが如何に美しい夢であっても。山積した書類とコンピューターと格闘し、自分を喰わせてやらねばならない。
それを怠れば、畢竟、女の言う死にまで至るのだろう。私は美しい夢のような女を一度も振り返らずに進んだ。
行きがけに魔性に逢ったのだと考えた。