聖なる一族 -2-
エドゥアルドはどこかさびしい気持ちを引きずりながら、ジュールに視線を向けた。と、その時、ジュールの着ているシャツの襟もとを見たエドゥアルドは眉をひそめる。教皇や枢機卿ともなると、人々の前に姿を現す時はそれなりにローブなどずるずると引きずるように長い服や、らきらびやかな刺繍の入った上掛けやらをを羽織るものだが、プライベートな時間は一般の者と同じにシャツとパンツなどの軽装だ。さすがにTシャツにジーンズといった服を着ることはまずなかったが。ジュールは首元が詰まった服を嫌うため、シャツもプライベートでは開襟のものを好んだ。
そのジュールの首元左側に引っ掻いたような傷がちらりと見えたのだ。
「ジュール、まだ発作が起きるのか?」
つい昔の、ただの友人としての口調に戻ってしまっていた。
「え?」
ジュールはエドゥアルドの視線をたどり、首もとの赤い掻き傷に手を当てる。
「ああ、これね。大したことないと思ったのだけどね、目立つかい?」
そういうと、しばらくその傷の上に己の手を置いて、それからゆっくりと手を放していく。さっきまであったひっかき傷が跡形もなく消えた。
王家に伝わる癒しの力だ。
「あなたの発作をはじめてこの目で見たときは恐ろしかった」
ジュールはそう言ったエドゥアルドを横目で眺めると、くつくつと笑った。
「エディ、全く情けないよ。あいつを殺したのに、あいつを殺したのは僕なのに。それなのに僕は、あいつの影におびえている。……でも、最近はさすがに刃物でもって自分を傷つけるようなことはしてないよ? でも、さすがに寝ている間はコントロールできないんだ。起きてみると腕が掻き傷だらけだったりするときもあるけれど、年数回ってところで落ち着いているよ。こんな僕を教皇だ、王だと、あいつらはいったい何を期待しているんだろうね?」
ジュールの口調は次第に熱を帯び、早くなっていく。
「ジュール様、落ち着いてください」
エドゥアルドは自分自身の心の中が波立つのを抑え、極力静かにジュールに声をかける。
「ぼくにいったい何ができる? この世界をめちゃくちゃにでもして欲しいんだろうか? それだったら簡単だ! そういうやり方なら……!」
「ジュール!」
エドゥアルドの手がジュールの腕を捕えた。
「落ち着いて」
ジュールは友の目を見つめながら、荒くなった息遣いを鎮めて行った。
❋ ❋ ❋
ドゥシアス三世の今は亡き正妃は、たいそう美しい女性であった。漆黒の髪に、黒檀の瞳。白い肌にバラ色の頬と唇。おとぎ話の姫君のような女性。だが、彼女の精神は破綻していた。教皇であり王であるテルース家の者は、その癒しの力が衰えることを嫌い、近親者同士での婚姻に偏る傾向があったからか、ときおり障害のあるモノや精神に異常をきたすものが生まれてくる。妃のエリーゼもテルース一族の中から選ばれた。だが彼女は、恐ろしいほどの美貌と、唾棄したくなる性癖の持ち主だった。
夜な夜な繰り広げられる彼女主催のパーティーでは、時折死者さえ出ると言われていた。もちろん、そう言った憂き目にあうものは、アウトサイドから狩ってきたものであるとか、咎人であるとか、この世から姿を消しても大きな問題にはならない者達ではあった。そうでなければ、いかに妃だとてドゥシアス三世が放置はしておかなかったであろう。
彼女は、ドゥシアス三世との間に男の子を産み落とした。正妃の長子。ゆくゆくはこのテラの教皇であり王となる運命の子。彼はジュールと名づけられた。
だがエリーゼは幼い子どもには全く興味を示さなかった。ジュールは完全に乳母の手によって育てられたと言って、過言ではない。
母親がわが子を手に抱くときは、公務の時以外になかった。
宇宙のかなたから、聖地のテラへ巡礼にやってくるテラ教の信者の前に子を抱き、夫であるドゥシアスとともに姿を現す。それが彼女の務めだ。
清楚ではかなげな彼女が幼子を抱いて教皇の傍らで微笑む。ステンドグラスの光に揺れる大聖堂最上階にある礼拝堂の中でのみ、彼女は見せかけの聖母となった。
公務以外では、子どもを寄せ付けず、美しい女や男を選んで侍らせ、狂乱の時を泳ぐ。
そのエリーゼが初めて自分の息子に目を向けたのは、ジュールが七つになるころだ。
ジュールは母によく似た美しい子どもに育っていた。髪の色が灰色がかっていたことと、父譲りの青い瞳のせいで、母よりはふわりと優しい印象だった。そして、性格は内気でおとなしい子だったから、母にとっても邪魔にはならない。そして、彼女は自分によく似た面差しの彼をたいそう気に入った。
「ジュール。いい子ね。今度私のお部屋にいらっしゃい?」
こうして、ジュールはたびたび母の部屋へ呼ばれるようになっていった。