大切な思い出 ~あれもこれもじゃ重すぎる~
海の見えるお屋敷に、お金持ちの青年が住んでいました。
お金持ちなので、青年は何不自由のない暮らしをしていました。手をパン、パン、と鳴らせば、召使いが何でもしてくれます。眠いなと思えば、召使いがベッドを用意して、子守歌を歌ってくれます。お腹が空いたなと思えば、召使いが食事を用意してくれ、青年の口においしい食べ物を優しく運んでくれます。
本当に、何不自由のない生活でした。
けれどいつしか青年は、そんな暮らしに飽き飽きしてしまいました。
そして青年はこう思うようになります。
「ああ、たった一人であの海の向こうに行ってみたいなあ。たった一人で船をこぎ、たった一人でいろんな冒険をしてみたい。きっとそれは、すばらしい思い出になるだろう」
そして冬が過ぎ、海鳥たちの雛が巣立ちを迎える季節に、ついに青年は決心しました。
「よし、僕はこれから海の向こうに冒険に出るんだ! たった一人で!」
青年は、召使いたちには内緒で、いそいで出発の準備を始めました。
◆ ◇ ◆
「――真っ白お月様先行けば、真っ黒お月様先に行く……いつまで経ってもおいかけっこ」
寄せては返すような詩声が、真っ白な砂浜の上をサアッと流れてゆきます。
古い古い『おとぎばなし』の詩を口ずさみながら、一人の女の子が砂浜をえっちらおっちらと歩いていました。
珍しい薄紅色の髪の、やせっぽちの女の子でした。寝癖なのかなんなのか、腰まである髪はピョンピョンと飛び跳ねています。ほつれの目立つエプロンドレスに、ぶかぶかの木靴。いつも着ているボロボロの外套は、近くにある桟橋にたたんで置いてあります。
女の子の名前はリシュベル。世界の果てを目指して旅をする小さな魔女でしたが、今は両手に何冊もの『本』を抱え、よたよたと歩いていました。
「白黒お月様は追いかけっこ……いつまで経っても追いかけっこ……」
この狭間の世界が生まれた頃に出来たというおとぎばなし……おそらく、今では魔女であるリシュベルくらいしか知らない詩でしょう……を詠いながら、リシュベルはえっちらおっちらと本を運びます。
そして浜辺にある桟橋まで運んだところで、リシュベルはふうと息をつきました。見れば、桟橋の上にはすでに何十冊もの本が、山のように積まれていました。
「その……ご苦労様です、リシュベル」
新しく運んできた本をおろすリシュベルに、幼い男の子のような声がかけられました。その声は、たたまれた外套の側に置かれた、くすんだランプの中から響いています。
ランプの中には、燃える尾を背負った一匹の栗鼠がちょこんと立っていました。大きさはリシュベルの手のひらにちょうど載るくらいでしょうか。夕日色の毛並みをしていて、燃えている尾の先端は白くなっています。
栗鼠の名は、チッチロロ。リシュベルと共に旅をする不思議な栗鼠でしたが、今はランプの中で申し訳なさそうに立ちつくしていました。
「すみません、リシュベル。ボクも手伝えたら良いんですけど……」
「……それはダメ、ぜったい」
何度も本を運んだせいで火照っているのでしょうか。リシュベルはエプロンドレスのスカートでパタパタと風を起こしながら、いつも通りの眠そうな表情で答えました。
「チッチロロが運んだら、本が全部燃えちゃう」
「……そうですよね」
チッチロロは申し訳なさそうな顔で、自分の背中を振り返ります。そこには、煌々と燃える尻尾がありました。
チッチロロは、世にも不思議な燃える尾を背負った栗鼠でした。
どうして自分の尻尾が燃えているのか、チッチロロ自身も知りません。知っていることと言えば、自分がひとりぼっちであることと、世界の果てまで行けば仲間に会えるかもしれないということ。それだけです。
「この火が消せたら手伝えるんですけど……」
「そうなったら大変。火打ち石を買うお金も、ランプの油を買うお金もないし」
「いや、そうかもしれませんけど……」
そこでチッチロロは、あきれたような表情を浮かべます。
「でも、お金ならこの前の街で『おとぎばなし』を詠ったときのお礼があったじゃないですか。船に乗るためのお金にしようって言って。なのに、あんな大きな砂糖菓子を買うから……」
実を言えば、ついこの間までリシュベルたちは無一文ではありませんでした。おとぎばなしを詠った対価として、とある街の人たちからお金をもらっていたのです。
しかしそのお金は、甘いものに目がないリシュベルによって、大きな砂糖菓子に変わってしまったのでした。
「魔女にとって、甘いものは大切」
「……それ、本当ですか?」
ジトッとした目を向けるチッチロロに対し、リシュベルは悪びれた様子もなく頷きます。
「それにしても、あの砂糖菓子はおいしかった。あれならいくらでも食べられる」
「……ボクは見てるだけでお腹一杯になりそうでしたよ」
「魔女なら大丈夫」
砂糖菓子のことを思い出しているのか、リシュベルの顔にはまるで甘いブドウを前にした子狐のような表情が浮かんでいます。
とはいえ、すぐ傍らにある本の山のことを思い出したのでしょう。その表情は、すぐに酸っぱいブドウを見た子狐のそれに変わってしまいました。
「……さてと、あんまり休んでもいられない。まだまだ本はたくさんある」
「えっ! まだあるんですか!」
チッチロロは驚きます。なにせ桟橋に積み重ねられた本の山は、すでにリシュベルの頭のてっぺんに届きそうなくらいなのです。
「これ、全部日記帳なんですよね? まだあるんですか?」
「うん、みたい」
「……これ、全部積んだらあの船沈みませんか?」
チッチロロはこわごわと、桟橋の先っぽに目を向けました。
そこには、大人の人が四人乗っただけで押しくらまんじゅうになってしまうような小舟が、ちょんと浮かんでいました。
「かもね」
「……いや、かもねって……どうするんですか、リシュベル。本を運んだら船に乗せてくれるっていうから、こうしてるんじゃないですか」
今、こうしてリシュベルが本……ちなみに全部日記帳のようです……を運んでいるのは、こういうわけです。
船に乗るためのお金を全部使ってしまったリシュベルたちは、途方に暮れていました。これからリシュベルたちが向かうのは、西の島々です。そしてそのためには、どうしても船に乗らなければなりません。
とはいえ、無一文なのでどうしようもありません。
そんなときに出会ったのが、一人のお金持ちの青年でした。
内緒で冒険の旅に出ようとしていたその青年は、旅に必要な荷物を船まで運ぶかわりに、リシュベルたちを船に乗せてくれると約束してくれたのです。
ちなみにその荷物というのが、今リシュベルが運んでいる山のような『日記帳』でした。
「それにしてもこんなに日記帳があるなんて……なんだかすごいというか……」
チッチロロが何とも言えない表情を浮かべていると、ふいに明るい笑い声が響きました、
「ははは、そうだろう!」
「あ……」
リシュベルとチッチロロは揃って振り返ります。
そこにいたのは、上等な服を着た笑顔の青年でした。くるくると丸まった赤毛の青年で、その顔は非常に整っています。それこそ、色々なお嬢様から求婚が絶えないような青年です。
ちなみにその青年の腕には、やはりというか大量の日記帳がありました。
「いや、すまないね、魔女様。今日という記念すべき旅立ちのことを日記に書いていたら、ついつい遅くなってしまったんだよ」
「ま、また日記を書いていたんですか?」
「うん、そうだよ、栗鼠君。安心してくれ、もちろんその日記帳には、魔女様と栗鼠君のこともきちっと書いておいたからね」
青年は快活に笑いながら、真新しい日記帳を誇らしげに掲げました。
「そ、それにしてもすごくたくさんの日記帳ですね?」
「ははは、そうだろう? 何せこれは、僕の宝物だからね」
「宝物、ですか?」
首をかしげるチッチロロに、お金持ちの青年は自慢するように、
「ああ、そうだよ。この日記帳にはね、僕の大切な思い出が書き記してあるんだよ。これから僕は、お金持ちの僕じゃなくて、たった一人の僕として冒険に出発するんだ。きっと大変なこともあるだろうね。そんなとき、『ああ、昔こんなことがあったなあ』とか、『そういえばこんな楽しいことがあったなあ』とか思い出せれば、きっと元気が出るはずなんだ。だから、こうして日記帳を持って行くんだよ」
「……なるほど」
青年の言葉に、チッチロロは納得したように頷きました。
チッチロロにも、大切な思い出というものが当然あります。そのことを思い出して、明日も頑張ろうと思うこともあります。
だからこそ、チッチロロは青年の言葉にとても納得したのです。
とはいえ……
「ちなみにこの日記帳には、僕の自慢の赤毛に初めて枝毛が見つかったときのことが書いてあるんだ。いやあ、あれにはビックリしたなあ。それとこっちの日記帳には、柱に足をぶつけて転んだ思い出が書いてあってね。ああ、それとこっちの日記帳には……」
出るわ、出るわ。
青年の口から、延々と思い出話が飛び出してきます。それはまるで、穴から蛇の頭が出てきたかと思ったら、いつまで経っても尻尾が出てこないような有様でした。
いえ、それだけではありません。
いつしか青年は、チッチロロのランプの隣に腰を下ろすと、自分の書いた日記帳を読み始めてしまったのです。
「ああ、懐かしいなあ。これは僕が十歳のころの日記帳で……ああ、そうそう、こんなこともあったね! うーん、それにしてもこのときは……ほら、見てごらんよ、栗鼠君。このときは、こんなことも……」
座り込み、青年はいつまでも日記帳を読み続けます。しかも、ときおりチッチロロに話を振ってきます。
「……ど、どうしましょうか、リシュベル? あ、どこに行くんですか!」
「約束は約束」
そう言って、リシュベルはそそくさと日記帳を運ぶ仕事に戻ります。
「ちょ、ちょっと置いていかないでくださいよ、リシュベル!」
「ほらほら、この日記帳を見てくれないか、栗鼠君? これは僕が初めてゆで玉子の殻を綺麗に剥いたっていう、すごい日のことが書いてあってね……」
「は、はあ……? それは、えっと……すごいんですか……?」
「すごいに決まってるじゃないか! ああ、それとね……」
がっくりと項垂れるチッチロロをよそに、青年の思い出話はいつまで経っても続きました。
◆ ◇ ◆
お日様が西の方にだいぶ傾いたところで、ようやく青年の思い出話は終わりました。
いえ、正確にはリシュベルが木靴を鳴らしてむりやり終わらせたのですが、とにかくいまや山のような日記帳は小舟に積まれ、青年もオールを手にして準備万端になっていました。
ちなみにリシュベルとチッチロロは、小舟には乗っていませんでした。
「それにしてもいいのかい、魔女様? 栗鼠君? 本当に乗っていかなくて?」
不思議そうに青年が訪ねます。もともと日記帳を運ぶかわりに、船に乗せてあげるという約束だったのですから、青年が不思議に思うのも無理はありません。
しかし全ての日記帳を積み込み、さあ出発といったところで、リシュベルとチッチロロの一人と一匹は、突然、船に乗らないと言い出したのでした。
「西の島々に向かうんじゃなかったのかい?」
「大丈夫、わたしは魔女だから」
「でも、やっぱり一緒に……」
「大丈夫」
青年の問いに、リシュベルは珍しくすばやく答えます。
しばらく押し問答が続きましたが、ようやくあきらめたのか、青年はついに一人で小舟をこぎ始めました。
「それじゃあ、魔女様も栗鼠君も元気で! さあ、僕の冒険の始まりだ!」
そう言って手を振る青年を乗せ、小舟はゆっくりと進んでいきます。
しばらくそれを見送っていたところで、チッチロロがぽつりとつぶやきました。
「……あの、リシュベル?」
「……なに、チッチロロ?」
「あの小舟……ちょっとでも波に揺れたら……きっと沈みますよね……?」
「うん」
かもね、ではなく、珍しくリシュベルははっきりと頷きます。
青年の乗る小舟は、どうみても今にも沈みそうな有様でした。
「思い出が大切なのは分かりますけど……あれはいくらなんでも……」
「どれもこれも、捨てられないくらい大切だったんじゃない?」
力仕事をしたせいでしょうか。リシュベルはあくびをかみ殺しながら、
「ただまあ、一番大切な日記帳は持って行かなかったみたいだけど」
「一番大切な日記帳、ですか?」
「うん、そう」
リシュベルは置いてあった外套を、ひょいっと拾い上げます。そのポケットには、申し訳程度の思い出の品が詰まった革袋が押し込んでありました。
「何も書いてない、真っ白な日記帳をね」
いつまで経っても追いかけっこ、と大昔の詩を詠いながら、リシュベルたちは桟橋に背を向けます。
しばらくしたところで、さく、さく、と砂浜を踏みしめるリシュベルをランプの中から見上げながら、チッチロロが訪ねました。
「それで……どうやって西の島々に向かいましょうか……?」
「まあ、たぶん大丈夫。話を聞くことと、話をすること。それが魔女だから」
「いや、意味がわかりませんよ……」
一人と一匹は、もうすぐ終わりになるであろう北の大陸を進んでいきます。
ちなみに、いくぶんもしないうちに桟橋に青年の悲鳴が届いたそうですが、リシュベルとチッチロロはすでに立ち去った後なので、関係のないことでした。