いっぽんばし ~下を向いたら渡れない~
海に続く小道を、『魔女』と呼ばれる女の子が歩いていました。
女の子は、魔法も使えなければ、ほうきで空を飛ぶことも出来ません。
女の子に出来るのは、話を聞くことと、話をすること。それだけです。
しかしそれでも、女の子は『魔女』でした。
おとぎばなしの魔女――リシュベル。
それが、世界の果てを目指して旅をする女の子の名前でした。
◆◇◆
リシュベルとチッチロロが逆立ちをする男の人と出会ったのは、とても急な上り坂のてっぺんでした。
いくつもの山と、また山と、そしてまた山が続くそこは、旅をする人にとって大変な場所の一つでした。
何度も何度も登ったり降りたりしなければならない道を歩いていると、まるで自分が井戸の水をくむ木の桶になったような気持ちになります。
「――道化の帽子は赤と青。赤にも見えれば青にも見える」
ふうふうと、まるで熱いお芋を食べるお婆さんのように息を吐きながら、小さな女の子が坂を登っていました。
珍しい薄紅色の髪の、やせっぽちの女の子でした。寝癖なのかなんなのか、腰まである髪はピョンピョンと飛び跳ねています。エプロンドレスの上からボロボロの外套を纏い、足下はブカブカの木靴、胸にくすんだランプを抱えています。
女の子の名は、リシュベル。世界の果てを目指して旅をする、小さな魔女です。
「道化の帽子は赤と青。お辞儀をしても赤と青…………ふぅ……」
リシュベルは大きく息を吐きながら、汗で張り付いた前髪を払いました。
「あの、リシュベル? 大丈夫ですか?」
疲れた様子のリシュベルに、心配そうな声がかけられます。
声をかけたのは、ランプの中にいる一匹の栗鼠でした。大きさは、ちょうどリシュベルの手の平に乗るくらい。夕日色の毛並みをしていて、白くなっている尻尾の先端からは、赤々とした炎が飛び出しています。
栗鼠の名は、チッチロロ。リシュベルと共に旅をする、不思議な栗鼠です。
「少し休みますか?」
「……」
チッチロロの言葉に、リシュベルは一瞬、心惹かれたように立ち止まろうとしましたが、
「……やっぱりダメ。休むなら、坂が終わってからのほうが良い」
「どうしてですか?」
「休んだあと、また坂を登るなんてまっぴら」
リシュベルはランプを抱え直すと、またふうふうと息を吐きながら坂を登ってゆきます。
そしてとうとう坂を登り終えた、そのときでした。
リシュベルとチッチロロの目に、奇妙な男の人が燕のように飛び込んで来ました。
その男の人は、なぜか逆立ちをしていました。
しかもただ逆立ちをしているわけではありません。
男の人が逆立ちをしていたのは、道の真ん中に横向きに置いてある丸太の上でした。
幅で言えば、リシュベルではちょっと抱えきれないくらいといったところでしょうか。
そんな丸太の上で、男の人は器用に逆立ちをしていました。しかも時々片手でピョンピョンと飛び跳ねたり、ダンスをする貴婦人のようにクルクルと回ったりしています。
一瞬、旅芸人の人が練習しているのかと思ったリシュベルでしたが、しかし男の人が着ているのは道化師の衣装ではなく、木こりが着ているものです。
リシュベルはこてんと首をかしげながら、逆立ちをする男の人に挨拶をすると、自分が魔女であることと、旅の途中であること、そしてどうして逆立ちをしているのかを聞きました。
男の人は答えました。
「なぜ、おいらが逆立ちをしているかって? そのわけが知りたかったら、この先の崖のところを見てみるといい。とてもとても恐ろしいものがあるんだ」
そう言って、男の人は逆立ちを続けます。
本当は一休みしたいところでしたが、しかし逆立ちをする理由も気になります。
リシュベルは、いままでとはちょっと違う息をふうと吐き出すと、男の人が示した方向に歩いていきました。
そしてしばらく行ったところで、リシュベルとチッチロロの目にあるものが飛び込んできました。
「…………えーと、一本橋……ですね?」
「…………」
それは、一本の丸太橋でした。太さは、リシュベルでは抱えきれないくらい。崖と崖の間に、まるで仲良く手をつなぐ恋人のようにかけられています。とても深い谷なのか、一本橋の下は霞んでいてよくわかりません。もし足を踏み外して落ちてしまえば、一生落ち続けなければならないのでは……そんな風に思ってしまうような一本橋です。
ただし……
「……あの人、恐ろしいって言ってましたけど……短いですよね?」
「かもね」
その一本橋の長さは、小さなリシュベルですら五歩あれば渡れてしまえるようなものでした。
いったい何が恐ろしいのかよくわからず、チッチロロは首をかしげます。
話を聞くために、一人と一匹は下り坂となった道を戻ってゆきました。
ちなみにリシュベルたちが戻ってきたときも、木こりの男の人は丸太の上で逆立ちをしていました。
「どうだったかい? それはそれは恐ろしい一本橋だったろう?」
「……えっと……そうですね」
なんとも言えない顔で、チッチロロは頷きます。
対して、木こりの男の人は真剣な顔で逆立ちをしながら、
「あの一本橋は、おいらが向こうの崖に行きたくて架けたものなんだ。でも、あれだけ深い谷間だろう? もしも、もしも、あの一本橋から落ちてしまったら、それこそおいらは地の底まで落ちてしまうよ」
「……でも……どうして逆立ちを?」
「そんなの簡単だよ」
チッチロロの問いに、木こりの男の人はまるで見たこともない宝石を見つけたカラスのような表情で言いました。
「逆立ちで渡れば、普通に歩くよりちゃんと足下を見て渡れるだろう? でも、どうしても下が見えて怖くなってしまうんだ。だから、こうやって安全なところで、完璧な逆立ちが出来るように練習しているのさ!」
「…………」
リシュベルとチッチロロは、その後すぐに男の人にさよならを言いました。
◆ ◇ ◆
「――道化の帽子は赤と青。赤にも見えれば青にも見える」
詩を詠いながら、リシュベルはぴょん、ぴょん、と五歩飛び跳ねます。
そして五回木靴がコンコンコンと鳴ったときには、リシュベルは一本橋を軽々と渡り終えていました。
「それにしても……あの人、いつまでああやってるんでしょうか?」
一本橋を振り返りながら、チッチロロがあきれたようにつぶやきます。
「だってどんなに逆立ちが上手くなっても、渡れるようになるわけじゃないですよね?」
「かもね。――それよりも、チッチロロ。ほら、見えた」
リシュベルがチッチロロの入ったランプを掲げます。
とたんに、チッチロロはわあと声をあげました。
崖の上からは、ついに海が見えていました。
蒼く、なにより大きな海です。お日様の光に照らされ、一面がキラキラと輝いています。はじめて見る海に、リシュベルもチッチロロも息をするのも忘れてしまうほどでした。
「あれが海なんですね、リシュベル?」
「うん、みたい」
「すごく……すごく大きいです。いったいどこまで続いてるんでしょうか?」
「ふふ……世界の果てまで、かもね」
口元に木陰のような笑みを浮かべながら、リシュベルが珍しく浮かれたように言います。このときばかりは、いつもの眠気は吹き飛んでいるようでした。
「さあ、行くよ、チッチロロ。もうすぐ北の大陸もおわり」
「次は西の島々でしたっけ?」
「うん、みたい。そう聞いてる」
「ついに……ここまで進んできたんですね」
「うん、そう。だって……」
ぼうっと海を見つめるチッチロロに小さく笑いかけながら、リシュベルは言いました。
「――前を向いてる方が、進むのは簡単だから」
さて、もうすぐ北の大陸も終わりです。