かごの中の小鳥 ~そら、そら、そうら空~
緑色の絨毯のような草原を、『魔女』と呼ばれる女の子が歩いていました。
女の子は、魔法も使えなければ、ほうきで空を飛ぶことも出来ません。
女の子に出来るのは、話を聞くことと、話をすること。それだけです。
しかしそれでも、女の子は『魔女』でした。
おとぎばなしの魔女――リシュベル。
それが、世界の果てを目指して旅をする女の子の名前でした。
◆ ◇ ◆
それは、春風の妖精が北の大陸に遅い春をつたえ始めた、良く晴れた春の日のことです。
寝坊した花たちがつぼみを付け始める中、南へと続く道を一人の女の子が歩いていました。
珍しい薄紅色の髪の、やせっぽちの女の子でした。寝癖なのかなんなのか、腰まである髪はピョンピョンと飛び跳ねています。エプロンドレスの上からボロボロの外套を纏い、足下はぶかぶかの木靴、手にくすんだランプを下げていました。
「……甘いものが欲しい」
「あの、またですか、リシュベル? 昨日、蜂蜜を舐めてたじゃないですか」
ランプの中には、燃える尾を背負った栗鼠がちょこんと立っていました。大きさは、ちょうど女の子の掌に乗るくらい。紅葉色の毛並みで、燃えている尾の先端は白くなっています。
栗鼠の名は、チッチロロ。リシュベルと共に世界の果てを目指す不思議な栗鼠です。
チッチロロは、ランプの中から困ったように女の子を見上げます。
「昨日の蜂蜜は残っていないんですか?」
「ない。全部食べた」
「小壺いっぱいあったと思うんですけど……」
「花の蜜は、お日様の下で甘くなる。夜になる前に食べるのが、おいしい食べ方」
だからもうないと、リシュベルはいつもの眠そうな、けれどしょんぼりとした顔で言いました。
「その、元気を出してください、リシュベル。ほら、あの丘まで行ったら一休みしましょう」
「……そうする」
草原の向こうには、砂糖菓子の山のような丘がありました。大きな一本の樫の木が、そのてっぺんで王様のようにどっしり構えています。
ゆっくりと丘を登ると、チッチロロの入ったランプを抱きながら、リシュベルは木の根元にペタリと座り込みました。
ほうわりとした白い雲を眺めながら、一休みをします。
そのときです。
「――あーあ、あの空を自由に飛びたいなあ」
頭上から聞こえてきたのは、吟遊詩人が奏でる竪琴のような声でした。
「リシュベル、あれ」
「……鳥かご?」
こてんと首を傾けながら、リシュベルは上を向きます。
木の枝に林檎のようにぶら下がっていたのは、銀色の鳥かごでした。
大きさは、リシュベルが抱えるにはちょっと大変なくらいでしょうか。かごの中には止まり木があり、そこには一匹の空色の小鳥がチョンと止まっていました。
「あーあ、あの空を自由に飛びたいなあ」
ほうわりと浮かぶ雲と、大きく広がる空を見上げ、小鳥はそんなことをつぶやきます。
どうしてこんなところに鳥かごがあるのか分かりませんが、とにかく自分より先に羽を休めていた先客に、あいさつをしないわけにはいきません。
後から来た者が、先にあいさつをするのが旅人たちの決まり事なのです。
リシュベルは立ち上がり、エプロンドレスの裾をつまみ上げると、空色の小鳥に向かって、自分たちが旅人であることと、貴方のようにこの木の下で羽を休めさせて欲しいということを言いました。
「それはかまわないさ。ただ一つ、君は間違っているね。ボクは、ここで羽を休めているわけじゃない。ボクは、この鳥かごの中に閉じ込められているのさ」
「閉じ込められてる?」
「そうさ。君は旅人なんだろう?」
「うん、そう。私はリシュベル。魔女。こっちはチッチロロ」
「ど、どうも」
「ふうん」
小鳥はチラリとリシュベルたちを見たあと、また空を見上げました。
空を見る以外に興味はないと、そんな風でした。
しばらくしたところで、小鳥はこんなことを言いました。
「君は、いろんなところを旅してるのかい?」
「いちおう」
「ふうん、君たちがうらやましいなあ。見てごらんよ。ボクの目の前には、こんなに大きな空が広がっているっていうのに、ボクが飛び回れるのはこの小さな鳥かごの中だけ。ボクには自由がないんだ」
あーあ、空を自由に飛びたいなあ、と小鳥は悲しげに呟きます。
「あの、リシュベル……」
チッチロロがランプの中からリシュベルに呼びかけました。
「この小鳥さんを、かごから出してあげませんか?」
世界の果てを目指しているチッチロロには、小さなかごに閉じ込められたこの小鳥がかわいそうに思えたのです。
だから、チッチロロはリシュベルに小鳥をかごから出してあげようと提案しました。
しかし、リシュベルから返ってきたのは思いもよらない言葉でした。
「別に、何もしなくていい」
「な、なんでですか?」
「だって…………ほら」
リシュベルがかごの『ある部分』を指さします。
チッチロロは、あっ、と声を出しました。
銀色の鳥かごの扉は、なんと閉まっていませんでした。
口を大きく開け、出ようと思えばいつでも出られるようになっていたのです。
「あーあ、空を自由に飛びたいなあ」
「あ、あの……小鳥さん……?」
「ん? なんだい?」
チッチロロは尋ねました。
「扉が開いているのに、どうしてかごから出ないんですか?」
その質問に、小鳥は当然のようにこう答えました。
「だって、外に出たら危ないじゃないか」
「…………」
チッチロロは口を閉じます。
「あーあ、空を自由に飛びたいなあ」
小鳥は、いつまでも呟いていました。
◆ ◇ ◆
太陽が始めよりだいぶ西に傾いたところで、リシュベルは一休みを終えて立ち上がりました。
おしりに付いた葉っぱを払い、チッチロロの入ったランプを手に持つと、木靴をコンコンと鳴らします。
「もう良いんですか、リシュベル」
「……いちおう。眠いけど」
いつも通りの眠そうな表情のまま、リシュベルは小鳥に向かって小さくお辞儀をすると、再び歩き始めました。
一休みをしたおかげか、木靴の音も軽い感じがします。
丘を降りたところで、チッチロロが後ろを振り返りながら言いました。
「あの。リシュベル……あの小鳥さんは、いつになったら外に出るんでしょうか?」
「さあ、知らない。ただ……」
リシュベルは、どこまでも広がる空を見上げながら言いました。
「扉は、いつでも開いてる」
そら、そら、そうら空、と魔女の女の子は詠います。
その後、小鳥がどうなったのかは、誰も知りません。