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魔王は死にたがりの聖女を拾い、今日も溺愛で生かしにかかる  作者: 蒼月よる


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生きていて、よかった

 翌日、二人はまた崖に来た。


 同じ道を歩いて、同じ崖に立って、同じ風を受けた。昨日と同じ場所。けれど昨日よりも——心が澄んでいた。


 リーリエは崖の縁に立った。


 カインが隣にいる。


 風が吹いている。穏やかな風。髪を揺らし、頬を撫でていく。眼下の谷に白い霧が渦巻き、遠くの山々が青く霞んでいる。空は高く、雲は白い。


 美しい世界だった。


 この世界を守るために、何人もの少女が命を燃やした。初代聖女エルシェ。名前の残った聖女たち。名前すら残らなかった聖女たち。そしてリーリエ自身も——命を削られ続けた。


 けれど今、その制度は終わった。


 もう誰も犠牲にならない。万人の祈りが世界を支えている。聖女の紋章は消え、炉は穏やかに灯り、結界は安定している。


 リーリエは、もう聖女ではない。


 ただの——人間だ。


 リーリエは口を開いた。


「あの日のこと、覚えてる?」


 カインが頷いた。


「忘れるわけがない」


「そうよね。——私もよ」


 風が吹いた。銀灰色の髪が揺れた。


「あの日、ここから落ちたとき、もう何もかも終わりだと思ってた」


 声は穏やかだった。あの日の自分を——遠くから見つめるような、優しい声。


「痛かった。毎日、毎日、灼けていた。朝も夜も、寝ても覚めても。もう疲れて——終わりたかった。ここに立って、足を前に出して、目を閉じた」


 カインは黙って聞いていた。風の音だけが二人の間にあった。


「落ちていくとき——何も感じなかった。怖くなかった。悲しくもなかった。ただ——ようやく休める、って。それだけだった」


 リーリエは目を閉じた。


 あの瞬間の記憶。重力が身体を引いて、風が下から吹き上げて、聖衣の裾が翻って——。


 そして、手が腕を掴んだ。


「あなたが手を掴んでくれなかったら」


 リーリエは目を開けた。隣を見た。カインを見た。


「私は、もういなかった」


 カインの目が——僅かに揺れた。暗褐色の瞳に、遠い日の記憶が映っている。あの日、崖の縁で腕を掴んだ瞬間。細い腕。軽い身体。虚ろな瞳。「助けなくてよかったのに」と言った声。


「あの日から——たくさんのことがあった」


 リーリエの声が、少しずつ温かくなっていった。


「魔王城に連れて行かれて。リュカの料理を食べて。ヴェルナーに世話を焼かれて。あなたに、毎日毎日『食え』『寝ろ』『死ぬな』って言われて」


 カインの口元が微かに動いた。苦笑か、照れ隠しか。


「聖女の真実を知って。歴代聖女の声を聞いて。教会と戦って。レオンハルトが味方になって。エルシェの手がかりを見つけて。——第三の道を歩いて」


 一つ一つが蘇る。三百五十話の物語。崖から始まり、崖に戻ってきた旅。


「怖いこともあった。悲しいこともあった。教会に追われて、仲間が傷ついて、歴代聖女の声を聞いて、世界が壊れそうになって。もう一度死にたいと思った夜もあった」


 正直な言葉だった。回復は一直線ではなかった。戻りかけては後退し、光が差したと思えばまた闇に沈んだ。何度も何度も、繰り返した。


「でも——そのたびに、あなたがいた」


 リーリエの声が震えた。初めて。穏やかだった声に、感情の波紋が広がった。


「『死ぬな』って。『俺の隣にいろ』って。不器用で、素直じゃなくて、でも——ずっと、そこにいてくれた」


 カインは——何も言わなかった。


 言えなかった。


 喉の奥が詰まっていた。五百年生きて、幾多の戦場を越えて、それでも——この少女の言葉の前では、声が出なかった。


「あの日」


 リーリエが微笑んだ。


 その微笑みに——三百五十話分のすべてが込められていた。


 凍結していた感情が溶けた日。初めてリュカの軽口に笑った日。「ここにいたい」と呟いた夜。「戻りたくない」と声を震わせた朝。「生きたい」と叫んだ瞬間。炉の中で、カインと手を繋いで歩いた時間。


 目尻が下がる。目が笑っている。本当の笑み。あの虚ろな瞳の少女からは想像もできない、温かい笑み。


「あの日、あなたが手を掴んでくれて——」


 風が止んだ。


 世界が静まった。


 崖の上に、二人だけが立っている。


「生きていて、よかった」


 涙が一筋、頬を流れた。悲しみの涙ではない。痛みの涙でもない。ただ——溢れた。胸の中に収まりきらなかったものが、目から零れた。


 カインは——何も言わなかった。


 言葉はいらなかった。


 ただ、リーリエの手を取った。


 第一話では——カインがリーリエの腕を掴んだ。崖から落ちる少女を引き上げるために。一方的な力で。救う者と、救われる者。


 今は違う。


 互いに、手を取り合っている。


 カインの大きな手が、リーリエの小さな手を包んだ。リーリエの指が、カインの指に絡んだ。どちらが先に手を伸ばしたかもわからない。自然に。当たり前のように。


 同じ崖の上。同じ風。同じ二人。


 けれど——すべてが変わった。


「落ちる」少女と「掴む」男ではなく、「並んで立つ」二人。


「死なせてください」ではなく、「生きていてよかった」。


 三百五十話の旅が——この一言に凝縮された。


 カインが、ようやく口を開いた。


「……ああ」


 たった一言。


 けれどその一言が——カインのすべてだった。


 五百年の孤独。救えなかった後悔。魔王と呼ばれた日々。崖の上で腕を掴んだ瞬間。リーリエの目に光が戻っていく日々。「生きたい」と言われた日。炉の中で手を繋いだ時間。


 すべてが——この「ああ」に込められていた。


 お前が生きていてくれて。


 俺も。


 風が吹いた。


 二人の髪が揺れた。黒い髪——いや、もう超常的な深紅は消えて、暗褐色の髪と、銀灰色の髪が、風の中で交差した。


 崖の下に、谷が広がっている。白い霧が渦巻いている。遠くに山々が連なり、その向こうに世界が続いている。


 万人の祈りに守られた世界。


 もう誰も犠牲にならない世界。


 その世界の片隅の、小さな崖の上に——二人が立っている。


 手を繋いで。


 同じ方向を向いて。


 リーリエが涙を拭って、笑った。


「帰ろう」


「ああ」


「今日の夕飯、何かな」


「リュカに聞け」


「あなたが作ってよ」


「……火がつかないかもしれん」


「私が手伝うわ」


 何でもない会話。何でもない帰り道。何でもない日常。


 けれどそれが——二人にとって、世界のすべてだった。


 崖の上を離れる。来た道を戻る。並んで歩く。手を繋いだまま。


 丘の上に、小さな家が見えた。窓から灯りが漏れている。煙突から煙が上がっている。きっとリュカが夕飯の支度を始めている。ヴェルナーが食器を並べている。マルタが焼き菓子を焼いている。


 帰る場所がある。


 待っている人がいる。


 明日がある。


 リーリエは歩きながら——もう一度、空を見上げた。


 夕焼けが空を染めている。橙色と紫色が溶け合って、世界を包んでいる。美しかった。こんなにも美しい世界に、自分は生きている。


 聖女でも、人柱でも、犠牲者でもなく。


 ただの人間として。


 大切な人の隣で。


 リーリエは——微笑んだ。


 目が笑っている。本当の、温かい笑み。


 三百五十話前、崖の上で目を閉じた少女は——もういない。


 代わりに今、崖の上で微笑む女性がいる。


 手を繋いで、帰り道を歩いている。


 これから先も——歩いていく。


 普通の日々を。穏やかな明日を。


 「終わり」ではなく——「始まり」だ。


 二人の、ただの人間の、普通の物語が——始まる。



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