世界の片隅で
辺境の村に、朝が来ていた。
名前もない小さな村だった。王都から何日もかかる場所にあり、石造りの家が十数軒並ぶだけの集落。聖女の恩恵を一方的に受けるだけで、その対価に何が支払われているかなど、つい先日まで知る由もなかった。
老婆が、畑の傍で手を合わせた。
皺だらけの手を重ね、目を閉じる。まだ朝露の残る畑の畝に膝をつき、長年の労働で曲がった腰をさらに折って。隣で遊んでいた孫娘が、不思議そうに祖母を見上げた。
「おばあちゃん、何してるの?」
「祈ってるんだよ」
「誰に?」
「一人の女の子がね——みんなのために、頑張ってるんだ。だから、その子が帰ってこられるように」
孫娘は小さな首を傾げた。よく分からなかったけれど、おばあちゃんが真剣な顔をしているのは分かった。だから同じように手を合わせて、目を閉じた。幼い手を一生懸命に組み合わせて、知らない女の子のことを思い浮かべようとした。
「その子、がんばれ」
小さな声だった。風に消えてしまいそうなほどに。
けれど——その瞬間、老婆の手の中に微かな光が灯った。
気づかないほど小さな光。蛍の光にも満たない、ほんの一粒の灯火。しかしそれは確かに——祈りの力だった。世界の仕組みに直接触れる、人間の意志の結晶。
同じ朝、港町では。
網を繕っていた漁師が手を止め、海を見つめていた。潮風が髪を乱し、日焼けした顔に朝の光が当たっている。聖女制度の真実を知らされたのは、つい数日前のことだ。信じられなかった。信じたくなかった。結界を守ってくれていた聖女さまが、命を燃やされていただなんて。
「……俺たちは、知らなかった」
隣の老漁師が、黙って頷いた。波が船体を叩く音だけが響いている。
「けど、今は知ってる。なら——できることをするだけだ」
荒れた手を合わせた。漁師らしい、ぶっきらぼうな祈り。形式も作法も知らない。ただ手を合わせて、目を閉じて、願うだけ。けれどその中に込められた想いは、どんな聖職者の祈りにも劣らない。
手の中に、小さな光が灯る。
王都の路地裏では。
商人が店先の扉を閉め、看板を裏返した。「本日休業」。妻が怪訝な顔をしたが、商人は黙って手を合わせた。
「聖女さまが帰ってきたら、うちの一番いい布で服を仕立ててやりたいな」
妻が隣で小さく笑った。
「あなた、聖女さまの寸法も知らないでしょう」
「知らん。だから帰ってきてもらわないと困る」
二人で手を合わせた。小さな灯火が、二つ灯った。
教会の末端で長年仕えてきた若い聖職者が、石の床に膝をついていた。祭壇の前で額を伏せ、肩が震えている。
「私は——知っていました。薄々、気づいていたのに、何もしなかった」
懺悔の涙が石畳に落ちる。一滴。二滴。それが聖堂の静寂の中に小さく響く。
「聖女さまが苦しんでいると知りながら、目を逸らしました。教会の教えに背くことが怖くて」
声が震える。
「だから——せめて今は。この祈りだけは、嘘ではないと誓います」
灯火が灯る。懺悔から生まれた灯火は、他の灯火と何も変わらなかった。
辺境の小さな教会で、かつて聖女候補の教育に携わった老修道女が、静かに手を合わせていた。曲がった指で数珠を繰り、目を閉じる。何人もの少女を聖女として送り出した。元気で利発だった子。泣き虫だった子。大人びた目をした子。その少女たちがどうなったか——今はもう、知っている。
「あの子たちに。どうか安らぎを。そして——最後の聖女に、帰る場所を」
灯火。
街角で。農村で。山の上で。海辺で。
一つ一つは蛍の光にも満たない。けれどそれが——集まっていく。大河が無数の沢から始まるように、万の灯火が世界中で同時に灯り始めている。
聖なる炉の中で——リーリエは、その光を感じ取った。
炉の外壁を透かして、微かな光が差し込んでくる。一つ。二つ。三つ——いや、数えきれない。無数の小さな光が、世界の隅々から炉に向かって収束していく。最初は蛍の瞬きのように散発的だった光が、次第に途切れのない流れになっていく。
「——届いてる」
声が震えた。
祈りだ。
名も知らない人々の祈り。リーリエの顔も名前も知らない人たちが、それでも——「もう誰かに犠牲を強いたくない」という願いのために——祈っている。
涙が頬を伝った。
止められなかった。止めようとも思わなかった。胸の奥から込み上げてくるものを、押し留める術がなかった。
「カイン……見えますか」
「ああ。見えてる」
カインの声も、微かに震えていた。
「届いてるよ。みんなの——」
言葉が続かなかった。涙で喉が詰まった。
カインの指が、リーリエの頬に触れた。涙を拭う。不器用な、けれど温かい指先。力を失いかけている手が、それでも優しくリーリエの涙を拭ってくれる。
「泣くのはあとだ」
「……はい」
まだ足りない。この灯火がもっと増えなければ、炉は変わらない。
けれど——応えてくれた。
世界は、応えてくれた。




