それでも世界を守りたかった
大司教が——膝をついた。
白金の法衣が石畳の上に崩れた。三十年間、教会の頂点に立ち続けた男が、一人の少女の前に膝をついた。それは降伏ではなかった。もっと深い何か——三十年間張り続けてきた弦が、ついに切れた音だった。
リーリエは驚かなかった。驚くよりも先に、胸が痛んだ。
白金の法衣が石畳の上に広がっていた。灰色の髪が額にかかり、痩せた手が膝の上で震えていた。三十年間——いや、それ以上の歳月を支え続けてきた老人の背が、今、折れようとしていた。
「私は……」
大司教の声がかすれた。
「世界を、守りたかっただけだ」
その言葉に——嘘はなかった。
リーリエにはわかった。この老人が三十年間、何を抱えてきたのか。聖女を炉に送るたびに、どれだけの重荷を背負ってきたのか。
「若い頃のことだ」
大司教が語り始めた。視線は石畳に落ちたまま。独り言のようだった。
「結界の綻びから災厄が侵入したことがあった。小さな町が——一夜で消えた。私はその町に向かう巡礼団の中にいた。到着したとき……町は、なかった。建物も、人も、すべてが灰と化していた」
声が震えた。
「生存者はいなかった。子供も。老人も。赤子も。結界が——ほんの一瞬綻んだだけで、これだけのことが起きる。私は思った。二度と——こんなことは、起こさせないと」
リーリエは黙って聞いていた。
「大司教になった。聖女制度の真実を知った。一人の犠牲で万人が守られる。……私は迷わなかった。あの町の光景が——いつも、目の前にあった。もし結界が崩壊すれば、あの光景が世界中に広がる。それだけは——防がなければならないと」
大司教が顔を上げた。
灰色の瞳に——涙があった。
リーリエは息を呑んだ。この老人が泣くのを、初めて見た。冷徹な灰色の瞳に、人間の涙が浮かんでいた。
「三人の聖女を、炉に送った」
大司教の声が震えた。次の言葉を口にするのに、長い間がかかった。
「一人目の名は——テレサ。二人目は——マリア。三人目は——アンナ」
名前を覚えていた。一人一人の名前を。「資源」として扱ってきたはずの聖女たちの名前を、この老人は忘れていなかった。
「彼女たちの顔を覚えている。声を覚えている。怯えた目を——覚えている。テレサは泣いていた。マリアは母の名を呼んでいた。アンナは——何も言わなかった。ただ目を閉じて、震えていた」
大司教の手が顔を覆った。
「夢に見る。三十年間。彼女たちが泣いている夢を。『助けて』と叫んでいる夢を。——それでも、世界を守るためだと。自分に言い聞かせてきた」
大司教の手が顔を覆った。法衣の袖から見える細い手首が、震えていた。三十年間守り続けてきた冷徹さの仮面が、今、完全に砕けた。残ったのは——疲れ果てた老人の涙だった。
リーリエの胸が——痛んだ。激しく。鋭く。紋章の痛みとは違う、もっと人間的な痛みが胸を貫いた。
この老人は——悪人ではなかった。人間だった。世界の重荷に押し潰されそうになりながら、間違った方法で必死に立ち続けていた一人の人間だった。
方法が間違っていた。聖女を「資源」と見なすことで、自分の心を守った。感情を切り捨てることで「仕事」を続けた。それは——防衛反応だった。終わらない苦痛に対する、合理的な防衛反応。
リーリエが感情を凍結させたのと、同じ防衛反応だった。犠牲にされる側と、犠牲にする側。立場は正反対でも、心を守る方法は同じだった。感情を閉じること。痛みを感じないようにすること。
「大司教様」
リーリエは——自ら、大司教の前に膝をついた。
聖女が大司教に膝をつく。かつてなら考えられない光景だ。聖女は聖堂の祭壇の上にいるもの。高い場所から世界を見下ろす、遠い存在。けれどリーリエは——自分の意志で、老人と同じ高さに降りた。同じ目線で、老人の顔を見つめた。涙に濡れた灰色の瞳と、涙の跡が残る薄い青紫の瞳が、同じ高さで交わった。
「あなたが世界を守ってきたことは——事実です」
大司教が顔を上げた。涙に濡れた灰色の瞳がリーリエを見つめた。
「三十年間、結界は維持されました。世界は守られました。あの町のような悲劇は——繰り返されなかった。それは、あなたの功績です」
「しかし——」
「方法が間違っていた」
リーリエは静かに、しかし明確に言った。
「世界を守りたいという気持ちは否定しません。でも、人を犠牲にしてまで守る方法は——間違っていました」
大司教の薄い唇が、細かく震えた。
「……間違い、か」
「はい。でもそれは——あなたが悪人だったからではありません。他の方法を知らなかっただけです。別の道があることを、信じられなかっただけです。五百年前の初代聖女も、時間がなくて別の道を選べなかった。あなたも——別の道を知らなかった。けれど今は、知っている人がいます」
リーリエは微笑んだ。穏やかに。目尻が下がる、温かい笑み。かつての虚ろな微笑みではない。瞳の奥まで光が灯った、本物の笑み。
「ありがとうございました、大司教様。世界を守ってくださって」
犠牲にされた側の人間が——犠牲にした側に、感謝を述べる。それがどれほど困難なことか。どれほどの強さが必要か。
大司教が——息を呑んだ。
灰色の瞳が大きく見開かれた。聖女に——犠牲にした側の人間に、感謝を告げられた。
外から民衆の声が続いている。「もう犠牲はいらない」。その声を聞きながら、大司教の表情が——崩れた。三十年間維持してきた、冷徹な功利主義者の仮面が。
外の声がさらに大きくなった。世界が動いている。不可逆的に。
教会軍の残存勢力が——投降し始めた。
結界の外でレオンハルトが降伏を受け入れている気配を、リーリエは紋章を通じて感じ取った。聖堂の各所で、武器を置く音が響いている。
大司教が最後の抵抗をやめたことで、教会軍を繋ぎ止めていた鎖が——解けたのだ。
「大司教様。結界を——解いてください」
リーリエは静かに言った。
「聖なる炉への道を開けてください。もう——犠牲はいりません。別の方法で、世界を守ります」
大司教は長い間、沈黙していた。外からの声が続いている。「もう犠牲はいらない」。世界が変わったことを告げる声が、石壁を越えて響いている。
そして——頷いた。
小さく。かすかに。しかし——確かに。三十年間守り続けてきた城壁が、最後の一角まで崩れた瞬間だった。
聖堂の壁画の中で、歴代聖女たちが微笑んでいた。穏やかな微笑み。その微笑みが——今は、安堵の微笑みに見えた。




