集いの声
辺境の村は、草原の中にぽつんと佇んでいた。
石造りの家が十数軒、井戸を中心に寄り集まっている。畑は痩せ、家畜の数も少ない。結界の末端に位置するこの村は、世界の恩恵から最も遠い場所だった。それでも人々はここに暮らしている。土を耕し、水を汲み、子を育てている。結界が守ってくれているから——と信じて。
リーリエは村の入り口に立ち、深く息を吐いた。
試行のためには「祈り」が必要だった。分散型の結界は、聖女一人の命ではなく、万人の祈りを燃料とする。その検証として、まずはこの周辺住民のわずかな祈りでも、炉が反応するかを確かめなければならない。
問題は——理由を説明できないことだった。
「聖女制度の真実を伝えれば、祈りの意味を理解してもらえるかもしれない。けれど、ここでそれをするわけにはいかない」
リーリエは胸の中で言葉を反芻した。辺境の小さな村に、世界の残酷な真実を突きつけることが正しいとは思えなかった。何の準備もなく、受け止める器もないまま。
「あの、皆さんにお願いがあるのですが」
村の広場に集まった住民たちは、見慣れぬ来訪者を警戒の目で見つめていた。リーリエの銀灰色の髪、カインの黒い外套。辺境の村にとって、旅人ですら珍しい。ましてや、こんな異質な二人組は。子供が母親の後ろに隠れ、老婆が不安そうに隣人と囁き合う。
「祈ってほしいんだ」
カインの端的な言葉に、村人たちの表情がさらに怪訝になった。見知らぬ黒装束の男に「祈れ」と言われて、はい、と頷く人間はいない。
一人の老人が杖をつきながら前に出た。日に焼けた顔に深い皺が刻まれている。この村の長老だろう。背は曲がっているが、目だけは鋭い。長年この土地で風と土と向き合ってきた人間の目だった。
「祈る、とは? 何のためにかね」
リーリエは言葉に詰まった。
何のために。
聖女制度の真実を告げれば——「あなたたちの平穏は、一人の少女の命を燃料にして成り立っています」と言えば——混乱を招く。教会への信仰は辺境でも根強い。いや、辺境だからこそ、教会の教えは唯一の精神的支柱だった。聖女を敬い、結界に守られていることに感謝する。日々の祈りが聖女に届き、聖女が世界を守る。それが普通の人々の信仰だった。
その信仰を壊す言葉を、リーリエは持っていなかった。いや——持っていたが、使う覚悟がなかった。
「……結界を、より良くするためです」
曖昧な答えだった。自分でもわかっている。老人の眉がさらに寄る。
「結界は聖女さまが守ってくださるもんだろう。わしらの祈りなど、何の足しになるのかね」
その通りだ、とリーリエは思った。教会がそう教えてきた。聖女がすべてを背負い、民はただ恩恵を受ける。それが「正しい」世界の姿だと。その教えは嘘ではない——聖女が命を燃料にしているという事実を除けば。
若い村人が腕を組んで口を挟んだ。
「なんだか胡散臭いな。教会の使いでもないだろう、あんたたち。こんな辺境に何の用だ」
「教会の人間じゃないわ。けれど——」
リーリエの声が震えた。伝えたい。本当のことを。あなたたちの信仰は嘘の上に成り立っている、と。聖女は聖なる存在ではなく、命を削られ続ける人柱なのだ、と。
けれど、ここでそれを叫べば——
この小さな村に混乱をもたらすだけだ。不安と恐怖と怒り。何の準備もない人々に、世界の残酷な真実を突きつけることが正しいとは思えなかった。真実を伝えるなら、もっと大きな舞台で、もっと多くの人に、もっと周到に準備してからでなければ。
背中に、温かい手が触れた。
カインだった。言葉はない。ただ、掌の温度がリーリエの背骨に沿って広がっていく。大きな手。不器用な手。けれどその一触が、嵐の中の錨のようにリーリエを繋ぎ止めた。震えが止まる。呼吸が整う。
「……まずは試行だ。少数でもいい」
カインが静かに言った。リーリエに向けた言葉であり、自分自身に言い聞かせるような声でもあった。完璧でなくていい。まずは試す。それだけだ。
リーリエは一度目を閉じ、再び開いた。薄い青紫の瞳に、決意が戻る。
「皆さん。難しいことは言いません。ただ、結界に守ってほしい、と——この土地が安全であってほしい、と。そう願ってくだされば、それだけでいいんです」
老人がじっとリーリエの顔を見つめた。薄い青紫の瞳を、深い皺の奥から覗き込むように。何かを量っている。この娘が何者なのか。何を抱えているのか。長い人生で培われた直感が、言葉の裏側を探っている。
やがて、杖を地面に突いた。
「……まあ、祈るだけなら減るもんでもないわな」
老人が膝をつき、手を組んだ。祈りの姿勢。この辺境で何十年も繰り返してきた、教会の祈りの型。それが自然と身体に出る。
その姿を見て、数人の村人が続いた。全員ではない。若い男はまだ腕を組んで立っていたし、子供たちは何が起きているのかわからず母親の裾を掴んでいた。
それでも——わずかな祈りが、集まり始めた。
結界が守ってほしい。この土地が安全であってほしい。子供たちが明日も元気に走り回れますように。畑の作物が無事に実りますように。朴訥な願いが、荒野の空気に溶けていく。
リーリエはその光景を見つめながら、胸の奥に苦いものを感じていた。
この人たちは知らない。自分の命が燃料になっていることを。聖女という存在の、本当の意味を。知らないままの祈りに、どれほどの力があるのだろう。真実を知らない祈りは、真の力を持たないのではないか。
——それでも、やるしかない。
第三の道が可能かどうかを確かめるには、たとえ不完全でも試行しなければならない。理論だけでは永遠に先に進めない。
リーリエは深く息を吸った。荒野の空気は冷たく、喉を通るたびに肺の奥まで清められるような感覚がある。
「準備は整ったわ」
カインが頷いた。
「明日、やるぞ」
リーリエは拳を胸に当てた。紋章が、いつもより強く脈打っている気がした。
村人たちが三々五々と散っていく広場で、老人がリーリエのもとに歩み寄った。周囲に聞こえないよう、低い声で。
「あんた、聖女さまだね」
リーリエの目が見開かれた。老人は穏やかに笑った。皺だらけの顔に、温かい光が差す。
「目を見りゃわかるよ。わしは長く生きとるからな。——あんたの祈りは、わしらの祈りよりずっと重いもんを背負っとる。その目は、ずっと遠くを見とる」
リーリエは何も答えられなかった。喉の奥が詰まった。ただ、深く頭を下げた。銀灰色の髪が肩から流れ落ちる。
その背中に、カインの手がまた触れていた。今度は少し強く。「一人じゃない」と告げるように。




