氷上のルーチェ
昔から氷室ヒムロは猫が好きだった。
猫カフェに行った時には数少ない友人が恍惚とした氷室の表情に恐怖を覚える程だった。目をカッと見開いたままニタニタ笑う様はまるで気の触れたピエロだ。氷室の友人は二度と猫カフェに行くものかと心に誓い、今も尚、決心は揺るがずにいる。
氷室の両親は科学者で重大な研究書を手に飛行機で空を飛んだきり帰らぬ人となった。氷室が5歳の頃だ。飛行機爆破テロ組織の足は着かぬまま、ハンタードッグ(警察)の歩調は止まった。
氷室の母親の独身の姉が結局、いつも何を考えているのか分からない陰気な少年の世話を押し付けられる形になった。
「お父さんとお母さんがいる」
子供の無邪気さとは縁のない声で唐突に氷室は叔母に言った。氷室の指は雲を指していた。夕方の真紅が侵食する空に氷のような城の形をした雲が浮いている。少なくとも氷室にだけは美術館にある絵画のように幻想的な景色が見えていた。
叔母は「そうね」と一言言ったっきりこの厄介者をどう追い出そうか考えていた。手には大根をはみ出させたスーパーの袋があった。
時は経ち、成人した氷室はルーチェという名のロシアンブルーの雌猫を飼い始めた。最初はちょっとした好奇心だった。どうして自分がこんなにも猫を愛するのか知りたい。それは両親を亡くしてから始まった病気のようなものだった。
ルーチェは氷室に飼われてから程なくして人の言葉を吐くような仕草を見せるようになった。喉に何か詰まらせたように咳き込む。そして時々、「ニャ」ではなくハッキリと低い女の声で「ナ」と発音するのだ。それは次第に顕著として現れた。
「ヒ…ム」
黒猫が何もかも見通したような眼で氷室を見上げる。眼光がオレンジ色に輝いていた。夕方時だ。
氷室は眉間に皺を寄せ、しばらく呆然と佇んだ。猫は好きだが、猫又は好きではない。手にしたペットが本当は人間の生まれ変わりだったなどという話は頑固として御免だった。
氷室の表情が崩れる。大の大人が滅多に見せない涙をこぼそうとしていた。
「ルーチェ、頼むから猫のままでいてくれ」
その願いは聴き入れられた。
ルーチェが人の言葉を呻くことはそれ以来無かった。
夜の帳が降り依然として月が煌々と光る。10月に入ってから月見シーズン真っ盛りだった。
氷室はルーチェと和装して団子を食べていた。
叔母は金持ちの男と結婚し、昭和風の小さな屋敷を氷室に与えた。家のことを一通り熟すのには苦にならなかった。氷室は元々、そういう家庭的な人間だった。
確かに真夏の虫の悪戯には手をこまねいたが、かと言って出て行く程、贅沢を許される身ではない。
月を見ていると次第に意識が遠のく。和服に渋茶を零しながら、氷室は夢を見ていた。
氷でできた精密な城。白服の研究者達がガラス越しに様々な国の言葉で解説する。氷の城は宙に浮いている。色々な化学物質で出来たそれは見事な芸術品だった。
プレートのタイトルには『氷城のアトランティス』と英語で表記されている。
氷室の精神は両親の姿を求めて彷徨った。強く両親の存在を感じていた。両親は氷城を完成させたのだ。
子供の頃、見た景色を思い出していた。空で氷の城が真紅に侵食されたあの頃、両親は空から自分を見ていたのだ。
研究所には猫がいた。
野良だろうが、ルーチェそっくりの容姿をしている。
アルバムに写った母とよく似た人物が言った。
「チェルー、ここに来るのは禁止よ」
便乗して父と瓜二つの白服は恰幅良く笑った。
「飼い慣らしたのは君じゃないか」
「でもー」と母が愛らしくむくれる。
「ここは危ないわ。またアイツらが追って来るかもしれない」
父は母の肩をそっと抱いた。ライフパートナーという言葉が氷室の脳裏を横切る。
「氷室が大人になったら私達の研究、全てを打ち明けよう」
チェルーは「ナーオ」と鳴いた。欠伸して母にオネダリの目を向ける。
父の大きな手が乱暴にチェルーの頭を撫で回した。
「もし、私達が死んだら…」
氷城にヒビが入る。夢の欠片が壊れる。パリーンと音を立てて崩れた。
「猫に息子を任せよう」
氷室の意識は鮮明だった。しかし、何も覚えていない。まるで時が飛んだかのようだ。無音の世界で時計だけが音を刻む。
月の光は暖かくも冷たくも感じた。
氷室は歯を磨かず、和服のままルーチェと寝た。
その1ヶ月後、氷室を庇ってルーチェが死んだ。トラックの飛び出し運転が原因だった。ルーチェは物凄い力で氷室を暴走するトラックの前方から突き飛ばし、身代わりに凄惨な死を遂げた。
ルーチェがトラックにはねられる前に氷室は確かに聞いた。
「守れなくて、約束果たせなくてごめん」
氷室はルーチェのことを罵った。罵る口から自然と嗚咽が混じっていた。
夕方の真紅に侵食された氷の城のような雲が嘲笑うかのように、泣き噎ぶ人間の上空を漂う。
取り憑かれたように氷室は新しいロシアンブルーの猫を飼い始めた。
その猫もまた氷室の名前を呼んだ。




