世界で一番顔のいい人と結婚しました
「……お名前は?」
「ロザリンド・クラレンスです」
「お歳は?」
「今年で、二十三になりますわ」
先ほどからまじめな顔をしてロザリンドに問いかけるのは、勝手知ったる主治医のクラリス医師のはずだった。 しかし、彼女のあまりにも醜い見た目に、ロザリンドは思わず目をそらす。
骨と皮ばかりが浮き出た顔は、まるで髑髏に古い羊皮紙を貼り付けたかのようだ。 土気色でしわくちゃの皮膚には、シミが不気味に点在している。 その窪んだ眼窩の中で、目だけが深海魚のようにぬらぬらと光り、異様に大きくぎょろぎょろと動いていた。 クラリス医師と言えば、血色が良く、目がぱっちりとした快活な女性だったはずだが……。
――やはり、わたくしがおかしくなってしまったのかしら?
ロザリンドは数日前の馬車の事故で、つい昨日まで気を失っていたのだった。 王都の街を馬車で走っているときに、運悪く平民が馬車の前に飛び出し、咄嗟に避けた際に頭を強く打ち、生死の境をさまよっていた。 あわやそのままはかくなるかと思われたが、公爵家の必死の祈りが神に届いたのか、奇跡的に意識を取り戻したのである。
しかし、目覚めたロザリンドの世界は、意識も記憶もはっきりしているにもかかわらず、意識を失う前とすっかり変わってしまっていた。
恐る恐る部屋の隅に目をやると、いつもと変わらぬ様子の侍女のエミリーと、クラリス医師同様、なぜか醜悪な姿に変わり果てたアガサが、伺うようにこちらを見つめている。
エミリーは心からロザリンドを心配している様子だが、アガサは違う。 蛹になる前の幼虫のようにぶよぶよと太った体躯は、上等な侍女服をはちきれんばかりに押し上げている。 脂ぎった顔に埋もれた豚のように小さな目は、侮蔑と貪欲な光を宿して鋭く吊り上がり、まるでこちらをにらみつけているようだ。 艶やかだったはずの豊かな黒髪は、今はかさかさと乾燥した埃っぽい白髪の塊にしか見えない。
ロザリンドは強烈な吐き気を覚え、思わず胸をおさえた。
「ロザリンドお嬢様、大丈夫でございますか?」
まるで蜘蛛の足のようなクラリスの骨ばった腕が伸びてきたので、ロザリンドは叫んだ。
「エミリー、少しひとりにして」
エミリーが主人の様子を即座に察し、すばやく動いてクラリス医師とアガサを退室させる。 二人のおぞましい姿が視界から消えると、ロザリンドは重く長いため息をついた。
「お嬢様、やはり……」
心配そうに覗き込む姉代わりの侍女の、変わらぬ優しく美しい顔に、ロザリンドは安堵の息をもらして頷いた。
「ええ、本当に不思議なんだけけれど……。 わたくしには、クラリス先生もアガサも、ひどく醜く見えてしまうの」
クラレンス公爵家に咲く一輪の薔薇――ロザリンド・クラレンスは、王都のあらゆる詩人が言葉をつくしても、その美しさを表現しきれない至宝と謳われていた。 艶やかでふさふさとした長い金色の髪、静かな湖面の色を映したような碧眼、そして磨き抜かれ弾力のある乳白色の肌。 その見た目は、十年にいちどの奇跡との呼び声もあるほどだ。
しかし、その完璧な美貌を持つ姫君は、今年で二十三歳になるというのに、いまだ婚約者のひとりもいなかった。 彼女のもとには、国内外問わず、その噂を聞きつけた王侯貴族からの縁談が山と積まれる。 だが、ロザリンドはいつもゆるやかな微笑みを浮かべて、釣書を見てはゆるく首を横に振り、のらりくらりとかわし続けていた。
「薔薇の姫君は、あまりに気位が高すぎる」
「自分に見合う殿方は、この世にいないとでも思っているのだろう」
社交界のそんな囁きは、的を射ているようで、その実、本質から大きく外れていた。 彼女が頑なに首を縦に振らない理由は、ただ一つ。 十年前に亡くなった最愛の母、マティルダ・クラレンスの遺言にある。
マティルダも、今のロザリンド同様、同世代の男性貴族たちの視線を恣にした美貌の貴族令嬢であった。 そんな誰もが羨むマティルダを射止めたのは、当時のクラレンス公爵子息でロザリンドの父である。 クラレンス公爵は、他の男性貴族たちに負けず劣らず美しい容姿で、当時は王家の結婚以上に話題となったほどである。
しかし、ロザリンドがまだ十歳だったころ、マティルダは流行病に倒れてしまった。 病にやつれ、かつての壮麗な美貌の面影を失くした母が、か細い手で娘の手を握りしめて言ったのだ。
「ロザリンド……私のかわいい子。いいこと?あなたは特別に美しいのですから、結婚相手も、とびきり「顔のいい人」を選びなさい。 顔のよさは、血筋のよさ、育ちのよさ、そして何より、心のなかを表すものですからね。 醜い者は、男女問わず、心も歪んでいるものなのよ。――ああ、神よ、どうかロザリンドをお守りください……」
病床の母が絞り出したその言葉は、幼いロザリンドの心に強烈な薫陶となって、深く深く刻み込まれた。 以来、彼女の男性を測る唯一無二の基準は「顔のよさ」となったのである。
これまで誰にも、腹心の侍女であるエミリーにさえ明けたことはなかったが、紹介されてきたあまたの男性たちは、どれほど地位が高く、名声があり、財を成していようとも、彼女の厳しい審美眼に適う者はいなかった。 令嬢たちの間で名前が上る第一王子でさえ、ロザリンドは興味を持つことができなかった。
そうしてあらゆる縁談をかわし続けた一輪の薔薇は、その美しさを損なうことはなかったけれど、一般的には立派な行き遅れとなっていったのである。
娘の行く末を心配した父に呼び出され、テーブルに並べられた数枚の肖像画を前にしても、ロザリンドはいつも静かに首を横に振るだけ。
「お父様、この方々も、やはり……」
「ロザリンドよ。お前は変わらず愛しい娘だが、もう二十三だ」
「でも、わたくし、お父様のようなすてきな方じゃないと、嫌だわ」
そう言って上目遣いで父を見つめれば、公爵が何も言い返せないことを、この数十年でロザリンドはすっかり学習していた。 公爵も、愛しい妻と血を分けた愛しい娘をついつい甘やかし、そして何より娘を手放すさみしさから、強硬的な態度をとることができないでいた。
事故から数か月が経ったころ、王家主催の夜会の招待状が、王女名義でロザリンドのもとに届いた。まもなく隣国に嫁ぐことになる、第一王女からのお誘いである。第一王女であるナターシャは、ロザリンドより五歳年下で、王女が幼いころは姉のような存在として遊び相手にもなっていた。ナターシャはロザリンドを心から敬愛しており、自分のほうが身分が上であるが、私的な場ではロザリンドを「お姉様」と呼んで慕っている。
事故で生死の境をさまよったロザリンドを夜会に誘うのは、と貴族家も避けていたし、クラレンス公爵もロザリンドが社交の場に出ないよう配慮していたが、第一王女の誘いとなれば別である。ナターシャも、ロザリンドが自ら社交界に顔を出すまではと考えていたが、あと少しで大好きなお姉様と気軽に会えなくなってしまうさみしさから、半ば強引に招待状を送ったのであった。
ナターシャの手紙をうれしく読みながらも、ロザリンドの心はいつになく重い。
目が覚めて、どうやら公爵家の人間のうち、一部の者が醜く見えてしまっていることにロザリンドはすぐに気づいた。 父やエミリーは変わらないが、クラリス医師やアガサなど、公爵家の出入りの人間や使用人の一部がまるでおそろしい化け物のように目に映る。
淑女教育の賜物と、事故に遭ったばかりということで、ロザリンドの様子がおかしいことに気づいた者はエミリーしかいない。 そのエミリーにも、泣いてすがるほどの勢いで訴えられたため、しぶしぶ打ち明けたほどである。
ロザリンドの話を聞いたエミリーは、全面的にロザリンドの味方になり、周囲に悟られぬよう巧みに取り計らってくれた。 そのおかげで、ロザリンドはなんとか正気を保っていられたが、それでも人の集まる場所へ行くのは恐怖でしかなかった。
――これまで仲良くしていた方たちと会うのが怖い……。
なぜ一部の人間だけが醜く見えてしまうのか、それは自分の心の問題なのではないかとロザリンドは考えていた。エミリーもアガサも他の使用人たちも、公爵家の人間として信頼し、心を砕いていたつもりだけれど、もしかすると自分は心のなかで人を差別していたのではないだろうか。その不安をエミリーに漏らしたとき、腹心の侍女は難しい顔をして主人の考えを否定した。
それでも、ロザリンドは、公爵令嬢として矜持を持っていきてきた自分に不安を覚え、部屋に引きこもりがちになっていた。クラリス医師から、もっと前に外出の許可は出ていたが、ロザリンドが沈みがちだったので、クラレンス公爵も社交界に出るよう無理強いしなかったのだ。
しかし、いつまでも逃げ回っていられない。もしナターシャの見た目が変わっていても……、過去の美しい思い出を頭に浮かべ、ロザリンドは覚悟を決める。
「久々の夜会ですから、きっとすてきな出会いもございますわ」
相変わらず醜い顔のアガサが、宝石類を用意しながら、ねっとりとした声で囁く。夜会の準備ともなれば、エミリーひとりで対応できるものではない。ロザリンドはアガサのほうには目も向けず、あいまいにほほ笑む。事故後、様子が変わった主人に、アガサは不審そうな目を隠すことなく向け、エミリーがアガサをにらみつけていた。
「ナターシャ殿下なら、きっと変わりませんわ」
ロザリンドの硬い表情を少しでもほぐそうと、エミリーは鏡越しにロザリンドにほほ笑みかける。
「ありがとう、エミリー」
事故があってほっそりしたロザリンドは、その美しさに一分のかげりも見当たらないどころか、むしろ美しさにますます磨きがかかったように見える。公爵家の一輪の薔薇は、日々、美しさの全盛を迎えていた。
煌びやかなシャンデリアが眩い光を放つ大広間。 優雅なワルツの調べ。 しかし、ロザリンドの目には、地獄の饗宴のように映っていた。
会場に到着してすぐ、ロザリンドはナターシャと再会した。ナターシャはまるで絹のような銀髪で、表情もくるくると変わるかわいらしい姫殿下で、ロザリンドも本当の妹のように慈しんでいた。ナターシャがいつもと変わらぬ笑顔で声をかけてくれ、ロザリンドは目頭が熱くなるのを覚えた。ナターシャは、ロザリンドの記憶と寸分違わず、かわいらしく美しい姫である。
ナターシャと久々の再会と、結婚への祝いを述べていたのだが、ナターシャは本日の夜会の主役でもある。いつまでもロザリンドのそばにいるわけにもいかず、ナターシャがその場を離れた瞬間、ロザリンドはあまたの貴族に囲まれ、地獄の饗宴と化したのである。
着飾った貴族たちが、次々と彼女の前に現れては、言葉で表現するのも難しいほど醜い顔で賞賛の言葉を並べ立てる。 噂話が好きな侯爵夫人の口は、まるで肉食獣のように耳まで裂け、そこから覗く舌がぬらぬらと光っているように見えた。 貪欲な大臣の指は、まるで獲物を探す猛禽の鉤爪のように黄色く鋭く曲がり、指先には脂ぎった汚れがこびりついている。 美しいと評判の令嬢たちの瞳は、嫉妬の毒に侵された沼のように濁り、その奥で小さな虫が蠢いているかのような錯覚を覚えた。
母の遺言を思い出し、ロザリンドは絶望を覚えた。――「顔がいい人」と結婚なんて、本当にできるのだろうか。
ロザリンドはなんとかその場を取り繕い、ひとりテラスに抜け出す。ひんやりとした夜気が、火照った頬に心地よかった。 手すりに寄りかかり、大きく息をつく。
このまま、手すりの外に出てしまえば楽になるだろうか。そんな馬鹿げたことを考えていたときだった。
「あの……大丈夫ですか? 少し顔色がお悪いようですが」
穏やかで、思慮深い響きを持つ声。 振り返ったロザリンドは、その場で凍り付いたように動きを止めた。
そこに立っていたのは、ひとりの青年である。
ロザリンドは、目の前の青年から目が離せずにいた。 それは、ロザリンドがこれまで会った誰よりも――どんな絵画や彫刻、神話の英雄譚に語られる存在よりも、輝くばかりに美しい男性だったのである。
緩やかに弧を描く眉は、彼の温厚な性質を示しているようだった。 理知的な光を宿す翡翠の瞳は、夜の闇のなかでもひときわ輝いているように見えて、そのまま吸い込まれそうだ。 すっと通った鼻筋、主張しすぎない引き締まった唇。 そして何より、見ず知らずの彼女を心から気遣う、優しい憂いを帯びた微笑み。
その顔のどこにも、ほんのわずかな歪みも、濁りもない。 ロザリンドの心が、告げていた。――この人だ、と。
心臓が、事故の衝撃を受けたときよりも激しく、高く打ち鳴らされる。 これこそが、母が言い遺した「顔のいい人」。 探し求め続けた、運命の相手に違いない。
「ご心配、ありがとうございます。今、大丈夫になりましたわ。わたくしは、ロザリンド・クラレンスと申します。 失礼ですが、あなたは?」
体調は不思議なほど取り戻しているが、心臓がうるさく、手に汗がにじんで指先が震える。唇を引き結んで、緩んでしまう頬をなんとかおさえこむ。青年は少し驚いたように目を瞬かせ、それから柔和に微笑んだ。
「大変失礼いたしました。クラレンス公爵家のご令嬢様とは存じ上げず……。ぼく、いえ、私はエリオット・アシュフォードと申します。 アシュフォード伯爵家の次男です。 その、もしよろしければ、お水を一杯いただいてきましょうか?」
「いいえ、本当に今、大丈夫になりましたから。ありがとうございます、アシュフォード伯爵子息様」
エリオット・アシュフォード。 名前まですばらく聞こえてしまい、ロザリンドは扇で口もとを隠す。口もとがだらしなく緩み、エリオットの目を見て、恥ずかしくなってすぐにそらすをくり返す。何も言えずにいると、エリオットは困ったように小さく頭を下げた。
「突然声をかけてしまい、申し訳ございません。それではこれで――」
「待ってください!」
はしたないとわかっていながら、ロザリンドは思わずエリオットを呼び止める。驚いたようにロザリンドを見つめる瞳に、ロザリンドは自分の頬が熱くなったのがわかる。
「よろしければ、わたくしとお話しいたしませんか?」
未婚の令嬢が、なれなれしく殿方に近づくものではない。わかっているのに、ロザリンドは不躾にもエリオットとの間合いを詰め、そう声をかけていた。しかし、公爵令嬢の理性ではっと我に返る。
「わたくしったら、アシュフォード伯爵子息様のご都合も考えず、失礼いたしました。――きっと、婚約者様がお待ちですわよね」
こんなにすてきな男性が独身のはずがない。そんな当たり前のことにようやく思い至り、ロザリンドの肩がわかりやすく下がる。いくらエリオットがすてきな男性でも、そして自分が公爵令嬢という身分にいても、婚約者のいる方に横恋慕するなんて許されない。しかし、エリオット以上の男性に出会えることはないとロザリンドは根拠のない確信を持っていた。こうなっては、母の遺言を破ってしまうか、修道女になるしかないのでは……そんなことまで頭をめぐらせていると、エリオットが困ったように小さく告げる。
「その……お恥ずかしい話ですが、私には、婚約者がまだいなくて」
「え!?」
ロザリンドの声が、わかりやすく喜色ばむ。
「婚約者はおりませんの?」
「はい」
「本当に、本当ですか?」
「ほ、本当です……」
エリオットの肩がしゅんと下げられる。適齢期の貴族が、婚約者がいないのはこの時代では恥ずべきことであった。
「わたくしも婚約者がいませんの。その、よければ……仲良くしてくださいませ」
ロザリンドは、無意識に、淑女の笑みではなく心からの笑みを浮かべて、そう言っていたのである。
薔薇の姫君ロザリンドが、アシュフォード家の冴えない次男坊に懸想している――その噂は、翼を得たかのように瞬く間に社交界を駆け巡った。
それはそうである。これまで避けていた夜会に、エリオットがいるとなれば顔を出し、エリオット以外の男性とは言葉も交わさないのだ。誰がどう見ても、ロザリンドがエリオットを特別に想っていることは丸わかりである。そしてロザリンドも、それを隠そうともしない。
「お嬢様、本気でございますか!?あの、アシュフォード伯爵子息様に……?」
はちきれんばかりの顔のアガサが、まるで世界の終わりでも見るかのように叫ぶ。
「黙りなさい、アガサ」
エミリーがアガサに声をかけ、アガサを下がらせる。しかし、当のロザリンドは、アガサの言葉など右から左で、うれしいそうにエリオットからの手紙を読み返していた。なんやかんやと理由をつけて、強引に文通を始めたのだ。
エリオットはその見た目どおり文字も流麗で、ロザリンドはエリオットの翡翠の瞳を思い浮かべて、うふふと笑みをこぼす。
「アシュフォード伯爵子息様はそれほどすばらしいお方なんですね」
敬愛する主人の様子に、エミリーも思わず破顔する。
「ええ、そうなの!これまで出会ったどんな方より、本当にすばらしいのよ」
ロザリンドはそう言うが、一般的なエリオットの評価は「平凡」以外にない。アシュフォード伯爵は、とりたてて名門というわけでもないし、貴族としての最低限の資質は持っているけれど、中央の政治に発言力を持てるような家ではない。エリオットも、エミリーの記憶が正しければ、ごくごく平凡な容姿に、少し猫背気味な目立たない男性だった。事故の前に夜会で一緒になったときは、ロザリンドは歯牙にもかけていなかったはずだ。
しかし、今はどうだろう。
ロザリンドの目には、エリオットが唯一無二の殿方に見えており、エリオットただひとりに夢中になっている。騙されている様子もない――むしろ、騙されていたらクラレンス公爵が黙っていないだろう――し、エリオットのほうがロザリンドの態度に困惑しているようにすら見える。エリオットの見た目が変わったのかと公爵家の影を使って調査したが、エリオットの見た目は何も変わっておらず、変わったのはエリオットを見るロザリンドのほうだろうということになっている。
とはいえ、エミリーを除き、周囲の反応は、おおむねアガサと同じだった。 父であるクラレンス公爵も、書斎で娘と向き合い、言いにくそうに告げる。
「ロザリンド。その、エリオット君のことだが……」
「わたくし、アシュフォード伯爵子息様と婚約したいです」
「本気か?あとで、やっぱり嫌だと言っても、取り消しはできないんだぞ?」
「まあ、どうして?あんなにすてきな方との婚約を、やっぱり嫌だと言うなんてこと、するはずありませんわ」
クラレンス公爵は、娘の言葉を聞き、必死でエリオットの姿を思い出そうとするが、どうにも印象に残っていないその青年は輪郭をぼんやりと思い出すことしかできなかった。
友人たちも、口をそろえて彼女の「気の迷い」を正そうとした。 誰もが、馬車の事故が彼女の精神だけでなく、長年揺るがなかったはずの美意識さえも狂わせたのだと本気で心配した。
だが、ロザリンドの決意は、嵐のような反対に遭うほどに、むしろ固くなっていった。 どうしてあんなにすばらしい人が?とロザリンドは不思議で仕方がなかったほどだ。もしかすると、友人たちもエリオットを狙っていて、自分を邪魔しようとしているのではないかと疑心暗鬼にもなる。エリオットのことを悪く言う人間ほど、ロザリンドには醜く見えていたからだ。
彼女はそんな周囲の思惑はすべて無視して、エリオットとの時間を重ねた。
二人で公爵家の広大な庭園を散策した。 エリオットは、一つひとつの花の名前と由来を、楽しそうに彼女に教えた。 彼の植物に向けられる愛情深い眼差しは、ロザリンドの目にはこの上なく魅力的に映った。
公爵家自慢の図書室では、互いにおすすめの本について語り合うこともあった。エリオットの教養の深さと、物事の本質を見抜く深い洞察力に、ロザリンドは何度も感嘆し、そしてますますエリオットに夢中になっていく。そんな様子を目の当たりにしたクラレンス公爵は、数カ月経つころには、エリオットとの婚約を許すほうに気持ちが傾いていた。
生前、亡き妻が自分を見つめるときと同じ顔をしている娘に、公爵の心はすっかり懐柔されていたのである。
エリオット・アシュフォードは、社交界で有名な薔薇姫との関係に、最初は騙されているか、からかわれているのだろうと考えていた。
ロザリンド・クラレンスといえば、王国の貴族令嬢の中でも頂点に立つ美貌と、高すぎる気位で知られていた。彼女が高位貴族からの縁談を次々と断っていることは有名で、ついには王家の縁談さえも辞退したという噂まである。その極端な行動から、エリオットは彼女を「この世に自分に見合う男性はいないと思っている傲慢な女性」だと解釈していた。当然、自分のような家柄も容姿も地味な伯爵家の次男に、彼女が本気で関心を寄せるわけがない、と。
そのため、テラスで仲良くしたいと言われたときも、その後、公爵邸に招かれ親睦を深める機会を得たときも、エリオットは動揺を必死に隠し、「これは彼女の気まぐれなのだろう」「彼女はただ、友人が欲しいだけだ」と、何度も自分に言い聞かせていた。
だが、ロザリンドが時折見せる笑みは、社交界で見かける計算された淑女の笑みとは違っていた。それはまるで、曇りのない子どものように、心からの純粋な喜びと輝きを帯びているようだった。エリオットは、その笑顔の意味を考えまいと、必死に自分を律していた。
夜会があるたび、エリオットのもとにロザリンドがやってくるが、その日はロザリンドが現れず、胸のなかが少しものさみしい気持ちがして、エリオットは帰ろうと出口に向かっていたときである。
ロザリンドに縁談を断られたと目されていた侯爵のひとりが、嫌な笑みを浮かべたままエリオットのもとへやってきて、侮辱的な嫌味を浴びせてきた。
「アシュフォード殿は、最近あの薔薇姫の後ろによくくっついているそうじゃないか。よく女の後ろを歩けるものだ。男として恥ずかしくないのか」
ロザリンドとの関係は周囲から見れば不釣り合いであり、こうして不満が出てきてもおかしくはない。エリオットはただ黙ってその屈辱を受け止めた。
「わたくしのそばにいていただく方は、特別な方だけと決めていますので」
そのとき、薔薇姫の凛とした声が響いた。彼女はエリオットの腕を優雅につかむと、完璧な淑女の笑顔のまま、侯爵家の最近の事業の失敗を遠回しに指摘し、侯爵をさっさと退けてしまったのである。エリオットはそんなときでさえ何も言えず、ロザリンドの美しい横顔を眺めるばかりだった。
――どうして、こんなに美しい人が、自分のそばにいてくれるのだろう。
侯爵が去ったあと、ロザリンドはエリオットに向き直る。その眼差しは、いつも通り彼にはこの上なく美しく映るが、どこか悲しみを帯びていた。
「侮辱されたときは、きちんと怒ってくださいませ」
その言葉に、エリオットははっと息を呑む。これまで彼は、自分の身分にも容姿にも自信がなく、それゆえに他者からの侮辱を無言で受け流してばかりいた。それは、自分で自分を傷つけるのと同じことでもある。ロザリンドは、そんなエリオットを、本人以上に悲しんでくれている。
彼は、もはや彼女を「友人」だと誤魔化そうとしていた自分の気持ちを認めざるを得なかった。見た目だけではなく、心根まで美しいロザリンドに、どうして心が傾かずにいられようか。
季節は巡り、冬の訪れを告げる冷たい風が吹き始めたころ。
公爵邸の中庭に咲き誇った冬薔薇を見るため、冷たい風が吹くなか、二人は庭園を散歩していた。
「ロザリンド嬢、寒くはありませんか」
分厚い毛皮のショールを羽織っているロザリンドをよそに、エリオットはそこまで高級ではないコートに身を包み、どちらかというとエリオットのほうが寒そうである。鼻の頭を真っ赤にしながらロザリンドを心配するその瞳に、ロザリンドはうれしそうにほほ笑む。
「大丈夫ですわ。エリオット様のほうが寒そうですけど?」
「そんなこと……」
言いかけて、エリオットが大きなくしゃみを飛ばす。薔薇のように赤くした顔を見て、ロザリンドは一歩エリオットに近づいた。
「そろそろ中に戻りましょう。薔薇はいつでも見られますわ」
踵を返して歩き出すロザリンドをよそに、エリオットはなかなかその場を動こうとしない。不思議に思ってエリオットを振り返るが、うつむいていてその表情は読み取れなかった。
「エリオット様?」
「あの、その、ぼく……いえ、私は、地面に転がる石のようなものだと思っています」
エリオットが何を言おうとしているのかわからず、ロザリンドは小さく首をかしげる。
「そんなぼくと違って、あなたは空に輝く星のようだと……思います」
――わたくしにとっては、あなたも立派な星なのに。
そう言い返そうと口を開くが、エリオットの声にかき消された。
「ぼくとあなたはつりあっていないと思います。あなたには他にもっとすばらしい人がいると……思います。それでも、生まれて初めて、あきらめたくないと思いました。私と、結婚していただけませんか」
翡翠の瞳が不安そうに揺れる。ロザリンドはエリオットの言葉を脳内で数回反芻した。冬の冷たい風が吹いているのに、どうしてだか体が熱く感じる。
初めてエリオットと出会ったときのように、心臓がうるさく、手に汗がにじんで指先が震える。なぜだか目の前までにじんで見えなくなってきて、ロザリンドの頬に熱い何かが伝った。
「わたくし、あなたの顔がとっても好きなんです」
「……ええ!?」
ロザリンドの初めての告白に、エリオットは素っ頓狂な声を上げる。
「ぼ、ぼくの顔、ですか?あの、お世辞にも、そんなにいいものじゃないと思うんですけど……」
「わたくしには、世界で一番すてきな顔なんです!」
ロザリンドの勢いに、エリオットは思わず黙り込む。
「エリオット様と、結婚したいです。よろしくお願いいたします」
「本当に……?ぼくで、いいんですか?」
あんなに威勢よく告白をしておいて変なことを言うなあとロザリンドは思わず吹き出した。
「あなたが、いいんです!」
この様子をこっそり見守っていたクラレンス公爵とエミリーは、二人して涙を流して喜んだ。このころには、クラレンス公爵もエリオットとロザリンドの関係を肯定的にとらえ、アシュフォード伯爵とも連絡をとり、手を回していたのである。
冬薔薇に囲まれた社交界の薔薇姫は、母の遺言通り、「とびきり顔のいい人」と婚約したのだった。
教会の巨大な扉の前に、ロザリンドはエリオットと腕を組んで立っていた。あれから季節を一巡し、現在は穏やかな春を迎えている。真新しい礼服に身を包んで緊張の面持ちのエリオットを盗み見る。ロザリンドの目には、横に立つエリオットはいつにも増して完璧に美しく輝いて見えていた。
もちろん、純白のドレスで着飾ったロザリンドの美しさは言わずもがなである。
「どうして君は……」
非現実的なロザリンドの美しさに気圧されたエリオットが、不安そうな顔でロザリンドを見つめる。 今日もきらきらと輝いている翡翠の瞳に、ロザリンドはうっとりと見とれていた。
「どうして君は、ぼくを選んでくれたの?」
震えながら小さく発せられた言葉に、ロザリンドは驚きで目を丸める。 本当に自分でいいのか、ということはたびたび尋ねられたことはあったが、なぜ選んだのかを聞かれたのは初めてのことである。 これから神の前で永遠の愛を誓うというのに、エリオットはやっぱり自信なさげで、そんなところも愛おしく感じてロザリンドは思わず破顔した。
「そんなの、あなたが世界で一番すてきだからに決まってるでしょ?」
教会の扉が開く。 薔薇のように真っ赤になったエリオットと、薔薇のように美しくほほ笑むロザリンドの結婚は、やはり、王国中の話題にならないはずがなかった。




