《Prolog》と《Epilog》③
「神山支部長、現状の維持と空間の安定化をお願いします。敵の主干渉が情報層側から続いている以上、こちらの崩壊を防ぐためにも、支柱となってください」
神山は、ゆるやかに息を吐いた。
その手には、すでに開かれた旧式のパーソナル端末──黒檀色のSIG-Nodeがあった。
その姿は、まるで儀式の媒介具のようでありながら、どこか懐かしさを誘う“道具”としての佇まいも備えていた。
古びた外装には使い込まれた光沢が滲み、記憶の底に沈んでいた誰かの“過去”を引きずり出すかのようだ。
端末の画面はすでに赤黒い干渉光に包まれ、波打つコード列が空中に滲むように浮かび上がる。
神山の周囲には、歪んだ空気の層がいくつも重なっていた。
それは都市構造に刻まれた“識らざる視座”を、現実側へと召喚し続けている証だった。
彼は一言も発さず、ただ静かにその空間に立ち続けている。
けれど、世界の綻びが神山を中心に広がることはなかった。
まるで情報層そのものが、彼という存在を軸に“再構築”されているかのように。
結は、一歩引いた位置からその姿を見つめていた。
手にしたSIG-Nodeは沈黙を保ったまま。しかしその目は、細い糸目の奥に隠された“本気”を、はっきりと捉えていた。
──見えている。
神山遥歩は、全容を把握しているわけではない。
だが彼は、誰よりも早く“構造の異常”に気づき、
澪が観測する情報をもとに、この局面が何を求めているのか──どこに楔を打つべきかを理解していた。
この場において神山遥歩は、明確に“支柱”となっていた。
「澪」
名を呼ぶだけで、少女の肩が一瞬だけ揺れ──すぐに、静かに収まった。
手にした端末を握る指先には、もう迷いはない。
先ほどまでの怯えは、もはや影すら残っていなかった。
「あなたはこの場の観測座標を再構築、敵の干渉波を追って定位補足に集中を。誤差は二桁以下で構いません。最優先は“こちらに干渉している存在の輪郭を特定すること”です」
瞳が一度だけ瞬き、すぐに研ぎ澄まされた光を宿す。
感情を制し、思考を極限まで絞り込んだ“演算の目”。
「はい。観測座標、再構築フェーズに入ります」
「追跡開始。誤差範囲は十分小さく、捕捉可能です──輪郭、探知します」
澪は静かに息を吸い、左手に持つSIG-Nodeのインターフェースへと指を滑らせた。
重なり合う情報の層が幾何学的に展開し、コードが空中に流れていく。
結は一歩前へ出ると、指先をわずかに掲げ、冷ややかな声で告げた。
「対象に質量を付与。座標が定まり次第、質量比率を調整し、こちら側に引きずり出します」
その瞳は、見えない敵をすでに視界の中に収めているかのように──一切の迷いもなく、ただ一点を射抜いていた。
結は短く息を吸い、最後の一人──少年に視線を送る。
目が合った、その瞬間。
言葉にするまでもなく、彼には伝わっていた。
「了解。飛び出してきたら、歓迎してやるよ」
言葉と同時に、悠の右手が迷いなく腰元へと伸びる。
鞘から抜かれた二振りの短剣が、静かに空気を裂いた。
一振りは、金属の刃にかすかな赤光を宿す“プロローグ《Prolog》”。
もう一振りは、漆黒の中に沈むような艶を放つ“エピローグ《Epilog》”。
それは始まりと終わりを象る対の刃。
過去に抗い、未来を選び取るために──
少年は、両の手に物語を握った。
二本の刃が、かすかに重なり合い、チリ、と空気に火花を刻む。
重なり合うコードの奔流の中、悠の瞳には、すでに“戦場”が映っていた。
その返答に、結はわずかに目を細め、静かにうなずく。
言葉はなかった。けれどその仕草には、確かな信頼と、覚悟への応答が込められていた。
そして、迷いのない声で、静かに告げる。
「──戦術行動、開始します」
その一言が、場にいる三人の意識を一点に結びつけた。
◇
ひび割れたアスファルトに、雑草が勝手気ままに伸びている。
倒れかけた標識が軋む音すらなく、あたりは死んだように静まり返っていた。
──そのはずだった。
次の瞬間、路面の歪みをなぞるような何かが通りすぎ、空気がざらつくように揺れた。
【軋み】とも【振動】ともつかない、低くくぐもったノイズ。
溜まった砂ぼこりが、わずかに舞い上がる。誰も動いていないのに。
まるで、“何か”の痕跡だけを、現実がかろうじて感知したようだった。
澪の指先が空中をなぞる。
ホロウィンドウに映る複雑な波形──彼女の指は、ためらいなくその流れをたどっていく。
触れているのは空間の「表面」、その下にある、見えない“異常の脈動”。
「……目には見えない。でも、確実に“そこ”にいる」
その言葉と同時に、SIG-Nodeが反応した。
指の動きに合わせて、重なったレイヤーの歪みがノイズ混じりの座標として空中に刻まれていく。
やがて、澪の指先が止まった。
ホロウィンドウの波形が一点で大きく跳ね、空間の歪みが収束する。
そこは、都市構造の重なりが薄れた、ごくわずかな“隙間”。目には見えない侵入口のような場所だった。
「……座標、特定完了」
彼女の声は落ち着いていた。
指先に伝わる微細な反応だけを頼りに、“そこ”を見定めた。
「西へ3度、上へ3メートル。重なった情報層の狭間。
対象は、確実に“こっち”を見てる……結先輩、今です!」
その一言で、結の視線が鋭く動く。
澪の報告は、ためらいのない“観測”として、場の戦術に噛み合った。
澪の声の直後、結はゆっくりとそちらへ体を向けた。
その瞳に映るのは、まだ何もない空間。だが、彼女の意識にはすでに「場所」が結ばれていた。
右腕を持ち上げ、宙をなぞる。
まるで空間の一部を“切り取る”ような動作。
その軌跡に、淡く光るラインが走る。
▶ PROTOCOL: MASS_TUNING_Δ-LOCK
// プロトコル識別名:質量注入型拘束処理(仮想固定用)
▶ OPERATOR: HAKARIYA_YUI
// 操作者:秤屋 結
▶ ABILITY_CORE: Mass Tuning / TYPE: EXISTENTIAL MASS INJECTION
// 能力コア:質量調律(実体を持たない対象への質量注入)
▶ TARGET: GLITCH_ENTITY.shadow_core
// 対象:グリッチ実体《shadow_core》
▶ ENTITY_CLASS: NON-MATERIALIZED / TYPE-λ
// 分類:未実体化存在(λ型)
▶ MODE: INJECTION_SIMPLIFIED / REFERENCE_MODEL: OBSERVER_WEIGHT
// モード:簡易注入形式 / 参照モデル:観測者の標準体重データに基づく
▶ PARAMETERS:
// 使用パラメータ群:演算に用いる対象情報
▸ EXISTENCE_DENSITY (μ): 3.8
// 存在密度:情報層上の存在強度。高いほど“質量干渉”が通る
▸ VISIBILITY_RATIO (V): 0.62
// 視認率:目視・観測状態の安定度。高いほど実体的な輪郭を形成
▶ EXECUTION:
// 実行:演算処理と結果ログ
▸ FORMULA: M_virtual = μ × V
// 計算式:仮想質量 = 存在密度 × 視認率
▸ RESULT: M_virtual = 3.8 × 0.62 = 2.36 kg
// 演算結果:仮想質量 = 2.36キログラム
▶ RESULT: virtual weight affixed / entity path stabilized
// 結果:質量が付与され、対象の位置が固定状態に移行
▶ STATUS: MASS ASSIGNED / ENTITY LOCKED
// 状況:仮想質量注入完了、対象は拘束状態にある
▶ COMMENT:
// 結の観測コメント
▸ 「可視輪郭を確定。仮想質量、2.36キログラム。拘束処理に移行」
▶ PROCESS: COMPLETE
// 処理完了
“それ”が地に降りた瞬間、悠の身体はすでに動き出していた。
視界に映るのは、情報の揺らぎをまとった異形。触れれば認識すら侵されかねない存在に、少年は恐れの色を一切見せない。
二振りの短剣──
赤の光を帯びる“プロローグ《Prolog》”と、深い黒をたたえた“エピローグ《Epilog》”を逆手に構え、一直線に飛び込む。
加瀬 悠は、グリッチ・アビリティを持たない。
彼の戦いに、コードの力も情報操作の詠唱もない。
けれど、彼の動きに一切の無駄はない。
擬装制服による身体強化と、研ぎ澄まされた技術。
それが、刃を持たぬ敵の懐へ踏み込む唯一の突破口を生み出す。
「──悠先輩!」
澪の叫びと共に、彼女のSIG-Nodeが即座にルートを描く。
廃道の破砕面、電柱の根元、宙に浮かぶノイズ干渉の裂け目──そのすべてを繋ぎ合わせるように、ホロウィンドウ上に光のラインが浮かぶ。
「結先輩、ルート確定……空中、ポイントβに段差が足りません!」
名を呼ぶ声に、結は瞬時に応じた。
「──了」
返すよりも早く、彼女は空気を指先で切り取るように払う。
見えざる“その一点”へ、力を注ぐように。
▶ execute('Mass Tuning', target: air.θ, param: μ=2.9 × V=0.21 → required_mass=65.0kg);
// 実行:質量調律(対象:空気層θ)
// パラメータ:存在密度μ=2.9 × 視認率V=0.21 → 要求質量:65.0kg(対象体重に基づく)
▶ calculated_virtual_mass = 0.609kg
// 計算結果:自然状態での仮想質量=0.609kg(このままでは支えきれない)
▶ override: force-adjustment [UPGRADE LEVEL_2]
// 強制調整:オーバーライド適用(補強レベル2へ昇格処理)
▶ final_mass_assigned = 65.0kg
// 最終質量設定:65.0kg(対象が立てるだけの仮想質量を空気に付与)
▶ status: aerial foothold established / load capacity: KASE_YU
// 状態:空中足場の形成完了 / 積載対象:加瀬 悠に対応済み
▶ comment: “空域収束。空気に質量を与え、移動制限領域を生成”
// コメント:「空中の一点を収束。質量を持たせ、移動用の“踏み場”を固定生成」
▶ PROCESS: COMPLETE
// 処理完了
刹那、空中に光の断片が収束する。
無から生成された仮想質量の足場が、軌道上に一瞬だけ“存在”した。
悠の足が、その不可視の段差を確かに捉える。
「……サンキュ」
短く呟き、加瀬 悠はそのまま弾丸のように跳躍した。
斜め上、仮想質量で生成された《足場》を蹴り、空中へ。
動きは無駄なく、自然だった。まるで、そこが本当の地面であるかのように。
狙うは、質量を得て姿を現した敵の中心。
仮の重力に縛られた異形の“核”。
「……っ!」
その瞬間、敵の動きが変わった。
情報層に、異音が走る。
【軋み】とも【砕け】ともつかない、割れるような音。
──それは、砲撃だった。
敵の「腕部」にあたる部分が収束し、砲口のような穴が出現。
そこに光が集まり、螺旋を描く。
閃光が放たれた。
「──来るっ!」
とっさに身をひねった悠の身体を、光の弾がかすめる。
視界が白く焼かれる。
砲撃は空間を貫き、背後の廃ビルの壁を抉った。
視認されただけでは終わらない。
敵は質量を持ち、現実を傷つける攻撃手段を手に入れていた。
──二発目。
反応は間に合わない。
回避は困難。支援のタイミングは、今しかない。
──だが、秤屋 結は焦っていなかった。
視線をわずかに背後へ流し、端末を構えていた神山を見やると、
ほんの僅かに口元を緩め、静かに、しかし確信を持って言った。
「……神山支部長。そろそろ“あの話”を聞かせてあげてください」
神山が、目を閉じたまま眉だけを上げる。
「……“あの話”とは?」
問い返す声に、結は答える代わりに──わざとらしく小さく息を吐いた。
「澪が嫌がるやつです。怪談じみた……No.12でしたか」
その名を聞いた瞬間、遠くで澪の肩がピクリと震えるのが見えた。
「ま、またそれですか!? 今じゃなくても──っ」
「今だから、です」
結は冷ややかに断言した。
そして、その瞳に一瞬だけ鋭い光を宿す。
「敵の座標、完全に固定済み。あとは、記録を“再生”するだけです」
神山は肩をすくめ、小さく笑った。
「……まったく、意地が悪い」
黒檀色のSIG-Nodeに、静かに手を添える。
彼の声が、ゆるやかに、けれど確かに始まりを告げる。
詠唱が始まる。
それは音ではなく、意味として空間に突き刺さる。
「ログ照合……記録No.12、《祝福を受けた銀の砲弾》。召喚を開始します──」
──《銀にて穿て、虚構に刺さる記録》
空間が鳴る。
鐘のような、澄んだ音が響く。
▶ ACCESS [RECORD_ID: A-12S-SANCT]
// アクセス:記録ID A-12S-SANCT──聖別された兵装に関する召喚記録を呼び出し
▶ VERIFY CATALOG_NAME: 《祝福を受けた銀の砲弾》
// カタログ名照合:《祝福を受けた銀の砲弾》
▶ CLASS: SACRED ARTIFACT / TYPE: BOUND WEAPON
// 分類:聖遺物 / 種別:封印兵装
▶ INITIATE SUMMON_PROTOCOL
// 召喚プロトコル、起動
▶ AUTHORIZATION: COMMAND_LEVEL_7 (KAMIYAMA_HARUHO)
// 認証:コマンドレベル7──操作者:神山 遥歩
▶ PERMISSION: OVERRIDE-ALPHA / STATUS: GRANTED
// 権限:アルファ解除コードによる召喚許可/ステータス:発動承認済
▶ MODE: SUMMON_FROM_RECORD
// モード:記録からの兵装実体化
▶ ELEVATION: NULL_POINT (PHASE_LAYER: -2.0)
// 位相層:-2.0/ノールポイント層から引き上げて召喚
▶ OBSERVER: DISABLED
// 観測装置:無効化(干渉を遮断)
▶ EYE: CLOSED
// 視覚情報取得:遮断中(召喚過程は観測不可)
▶ RECORDING: SUPPRESSED (BULLET IS NOT LOGGED)
// 記録:抑制(この砲弾は記録媒体に残らない)
▶ SOURCE: FOLKLORE_NOISE / FORMAT: PRAYER + RITUAL INK
// 出典:伝承ノイズ/形式:祈祷と儀式的墨痕による伝承構成
▶ SUMMON_CONDITION: TRUE_NAME FIXED
// 召喚条件:真名の固定(名称が完全に一致すること)
▶ BINDING_RITE: COMPLETE
// 拘束儀式:完了(実体を安全に保持可能)
▶ MANIFESTATION_TYPE: SACRED_SHOT
// 顕現形式:聖なる砲弾(一次使用の霊装弾丸)
▶ SIGNATURE: POLISHED / HOLY LUMINESCENCE
// 特性:銀光に包まれた鏡面仕上げ/神聖な発光現象を伴う
▶ CAUTION: “SHOULD NOT BE LOADED INTO UNWORTHY HANDS”
// 警告:「資格なき者がこれを装填するべからず」
▶ INVOCATION: SUCCESSFUL / PRESENCE CONFIRMED
// 召喚成功/実体化を確認済み
詠唱の終わりと同時に、空気が裂ける。
何もなかった空間に、“それ”が現れた。
──銀白の砲弾。
それは、ただの弾丸ではない。
情報層に記録された“逸脱兵装”。
撃ち込まれた対象に、わずかな情報の歪みを生じさせることで、実体を不安定化させる。
銀の光に包まれた砲弾は、祈りと封印儀式によって保たれており、
正しい手順と資格を持つ者にのみ、安全に扱えるとされている。
神山が左手を軽く振り、銀色の砲弾が虚空に浮かぶ。
照準が敵の中心部──“頭部構造”と思しき部分に定められる。
その直前、ふっといたずらっぽく笑いながら、神山はこう告げた。
「この話、ちょっと長くなりますからね……」
「澪さん、今度ゆっくり──お菓子でも食べながら聞かせてあげますよ。……“この砲弾に関する興味深い噺を”って話を」
「ちょ、ちょっと待って、それ絶対やばい系ですよね!? わたし聞いてない、今の無しで──」
──その声をかき消すように。
砲撃、発射。
銀白の砲弾が、重力すら削るように虚空を滑走し、敵へと向かっていった。
直後、砲弾が敵の“頭部構造”を直撃した。
反転するように砕け散る外殻。
ノイズの閃光が弾け、敵の“構造”そのものが一瞬、崩れかける。
──次の瞬間、発射された第二の砲撃が逸れた。
本来なら悠を正確に撃ち抜いていたはずの一射は、空中でわずかに軌道を曲げ、彼の背後をすれ違って虚空を裂くだけに終わった。
それは、敵が放つ寸前に銀白の砲弾を受け、照準制御が乱れたがゆえの現象だった。
「悠、今です。斬りなさい」
結の声が響く。今度は命令だった。
悠の目が鋭くなる。
「──了解」
情報層と現実が幾重にも絡み合う歪んだ空間で、
加瀬 悠の双剣が、音もなく軌道を描いた。
──渾身の一閃。
《Prolog》が“始まり”を切り裂き、
《Epilog》が“終わり”を刻み込む。
その軌道は、まるでこの世界に定められた運命そのものを断ち切るような、鋭く、そして揺るぎない斬撃。
一瞬、敵の身体が遅れて軋み、
情報のノイズが悲鳴のように爆ぜた。
視界を染める、赤と黒のグリッチ残響。
──それは、確かに“届いた”。
SCP好きです。