聖魔の誓剣
洞窟の最奥、石を積み上げただけの粗末な玉座があった。その上に無造作に腰掛けているのは──盗賊団を率いる頭領、グラムである。
嘲るような邪悪な双眸が、怯えた様子の盗賊を静かに見つめている。焼き尽くすかのような赤毛に均整の取れた体躯、剥き出しの腕に走る無数の傷痕が彼のただ者でない存在感を際立たせていた。
膝をついている盗賊が震える声で報告を続けていた。
「英雄翁とか呼ばれるジジイが加勢して魔物は全滅……。俺達の部隊も七割壊滅、捕えた村人も五人しか……」
沈黙が場を支配する。
グラムはその言葉を聞きながら、ゆっくりと立ち上がる。その動きだけで、地面が軋んだように感じた。鋭く赤い双眸が盗賊を見下ろす。
「はぁ……ジジイも倒せねえなんてメートルの奴何やってんだ……、せっかく貴重な力を分けてやったのによ」
淡々とした声だった。怒号も鉄拳もない。しかしその静けさこそが、盗賊の背筋を凍らせた。
「……すまねえ、兄貴……っ!」
盗賊が額を地に擦りつけ、血がにじむほどに頭を垂れる。
「あー、いいって。英雄翁はお前らにゃ無理だろ、むしろ生きて戻っただけでも上出来だ」
グラムは肩をすくめ、にやりと笑った。その笑みはまるで獣が牙を剥いたような、冷たいものだった。
「準備しとけ。来るぞ英雄翁が、あの生ける伝説がよ」
「まさか、こんなすぐにですか?」
盗賊の震えた声に、グラムは鼻で笑った。
「来るに決まってんだろ。あの手の英雄様ってのは、こういう時に休むって発想がねぇ。ましてや、村人が拐われてるとなりゃ尚更だ」
グラムはやれやれと言った様子で首を回し、骨の鳴る音を響かせながら軽く肩をほぐした。
「で、でもよ兄貴、あいつは……魔王すら打ち倒したとか言われてる伝説の──」
「伝説はな、終わらせるためにあるんだよ。いくら過去に魔王を倒したっつっても……ただの人間だ、老いには勝てねぇだろ」
グラムの双眸が赤黒く輝いた。
「そして英雄ってのはな、守れなかったもんに一番弱ぇんだ。どれだけ立派な顔してようと、結局“人間”である以上はな」
グラムは冷ややかな笑みを浮かべ、力強く拳を握り締める。彼の目には、獲物を狩るための血に飢えた光が宿っていた──。
──木陰から飛び出したシグルドは素早く二本の短剣を見張りに向かって投げつける。
「ぐっ!」「がぁっ!」
放たれた短剣は狙い違わず二人の盗賊の喉に吸い込まれる。喉を潰されて呻く盗賊達にシグルドは一息のうちに駆け寄り、ためらいなく命を絶つ。
「よし、このまま奥に進むぞ」
洞窟の中には松明が照らす小道が続き、冷えた空気が漂っている。二人は無言で洞窟の奥深くへと足を踏み入れていった。
「ここから先は気をつけろ」
シグルドが低い声で言う。そしてしばらく足を進めると広い空間に出た。そこには八人の盗賊達が待ち構えていた。
「そっちから来てくれてありがとな、ジジイ」
奥の玉座から、低く響く声が返ってきた。石を積み上げただけの玉座の上──そこに腰を下ろしていたグラムが、ゆっくりと立ち上がる。その動作だけで、空気がひりついた。
「……ただの人間だと?」
シグルドが訝しむような表情を浮かべる。グラムは邪悪な目付きこそしていれど魔人のように角や翼があったり肌の色が異質だったりはしない。
「メートルのやつが世話になったらしいな、礼はさせてもらうぜ」
その言葉と共に襲いかかろうとする盗賊たちであったが、それよりもさらに先にシグルドは踏み込んでいた。
「え、はやっ、ぐわぁっ!!」
風を裂いたその身は瞬時に一人の盗賊を聖剣で切り捨てる。そして血が吹き出すよりも速く横へと飛び出し続けざまにもう一人を袈裟斬りにする。
「やるじゃん……おい、人質を用意しな」
その言葉に応じて盗賊が一人、村人の女を盾にしつつ首元に剣を当てる。
「助けて……死にたくない……」
「へへ、こいつがどうなってもいいってのか!?」
その言葉を耳にしても、シグルドの足は止まらなかった。一直線に、人質を取る盗賊のもとへと駆け抜ける。
「くそっ、お構いなしかよ! 死ねっ!」
盗賊の剣が無慈悲に振るわれた。
「いやああああッ!!」
響き渡る女の悲鳴、だが……
「何やってんだ、殺せ!」
「え?」
振るったはずの剣は何も切り裂いていなかった。空振りに呆然とする盗賊の視界に、英雄翁が迫っていた。
「も、もう一回だ!」
盗賊は女性の首に剣を当て引き裂こうとするが──
「──残響『時間蝕』」
空間が一瞬、ざらついた。ノイズのような感覚が現実を侵食する。ガンバの魔法が未来を喰らっていく。盗賊の剣は振ったと言う過程だけ消されて剣を振り終わったと言う結果だけを残された。
「な、なんだこれ……!? 確かに斬ったはずなの……に……」
動転する盗賊の首が落ちる。英雄翁の一撃が容赦なく彼を沈黙させた。反撃の余地などなく、盗賊は地に伏す。
女性はその場に崩れ落ち、泣きながらうずくまった。
「ふーっ……怖がらせてすまんな、よく耐えた」
大きく息をしたシグルドは、女性の肩に手を添え、優しく言葉をかけたあと、再び戦場へと顔を向けた。
──作戦はこうだ、今から『時間蝕』を詠唱しておいて発動待機させる。そして人質が殺されそうになった時に発動。一回で足りればいいが駄目なら残響で再発動してくれ。そして──
「あっちを先に殺れ!」
シグルドから分断されているガンバを狙うように指示するグラム。その声に応じてガンバに襲いかかる盗賊たち。
「疾く!見えざる盾よ、遮断せよ──『防壁』!」
ガンバの目の前に半透明の光の壁が突き上がり盗賊たちが勢い余って衝突する。以前使った『防壁』とは呪文詠唱が異なるためドームではなく壁が生じている。
──お前が狙われるだろうから、『防壁』と『回避』で身を守ることだけを考えろ。
シグルドの立てた作戦は見事に機能していた。
「背中がお留守だぞ、もう帰ってもこないがな」
シグルドに背を向け隙だらけの盗賊達は瞬く間に斬り伏せられ血飛沫が舞う。彼らが倒れ伏した時、そこに立っている盗賊はグラムしかいなかった。
「……強いとは思ってたが、まさかこれほどとはね」
グラムはゆっくりと拍手を打った。
洞窟の静寂を破るその音は、どこか場違いに軽やかで、不気味な余裕を感じさせた。
「皆さん、今のうちにこちらへ!」
ガンバが『防壁』を解除して捕まっていた村人達を外へと逃がしていく。シグルドはグラムが邪魔しないように牽制をかけていたがグラムには仕掛ける様子はない。そもそもグラムは武器すら持っていない。
「仲間を失ったにしては、余裕が過ぎるな……。あるいは、自信があるのか」
「自信? ……違うな。確信だ」
グラムの口元に浮かぶ笑みは、戦況すら手の内にあると語るようだった。その不気味な余裕に、シグルドの目が細められる。
「無手の者をいたぶる趣味はないんだがな、仕方ない」
シグルドが地を蹴った。足音が遅れて響く。疾風のような踏み込み。対してグラムは一歩、足を踏み出す。その瞬間、空気が凍りついた。見えない何かが押し寄せるような圧力──呼吸すらままならぬ殺気が、洞窟全体を支配する。
「ッ──!」
長年の勘が、全身を叩くように警鐘を鳴らしていた。このまま踏み込めば死ぬ。直感が、理屈を押しのけて叫んでいた。咄嗟に身体に制動をかけて止まったその刹那、視界を裂くように赤い閃光が横切った。
「そのまま、止まってな!」
再び赤い閃光がシグルドに襲いかかる。質量も形も知れぬ一撃が、ほとんど本能だけで構えた聖剣へとぶつかる。だが聖剣で受け止めたものの、その一撃で身体が吹き飛ばされる。
「秩序を乱す暴威より、無垢なる輝きを遠ざけたまえ。逃れ得ぬ鎖となりて、自由を封じよ──『拘束』!」
咄嗟にガンバが『拘束』による光の鎖でグラムの動きを封じた。
「大丈夫ですか!シグルド!!」
駆け寄ってきたガンバが叫ぶ。血の気の引いた顔が、衝撃の大きさを物語っていた。
「ああ大丈夫だ、ただの盗賊ではないとは思ってはいたが……」
ちらと、視線を向けた先。そこには、先程まで空だったはずのグラムの手に──紅く禍々しく輝く大剣が握られていた。刀身からは仄かに黒煙のようなものが立ち上り、紅蓮のごとき光が脈動している。剣というよりは呪われた何かが形を取ったような異様さだった。そして何よりも──
「聖剣と打ち合えた」
「えっ」
「並の剣では聖剣と打ち合えば一瞬でガラクタになる」
だが、グラムの大剣は、それどころか、聖剣と対等に戦う力を持っている。
「いや、この気配……あの剣の形……わしは知っている」
脳裏に甦るかつての戦友と共に挑んだあの決戦の光景。
「魔王の五魔具の一つだ……!」
魔王との最終決戦、五つの魔具を操る魔王の強大な力に対抗すべく、英雄たちは命を賭して挑んだ。その中でも、とりわけ凶悪な力を持っていた一本の魔剣があった。
「そう、魔王の五魔具が一つ、俺様の名前はグラムだ。記憶しとけよ?」
グラムは『拘束』による光の鎖をそこになかったかのように引きちぎると禍々しい剣を肩に担ぎながら、にやりと口の端を吊り上げる。
「そして俺達はお前に砕かれた魔王の欠片なのさ」
──洞窟に響くその言葉に、時間が止まったような静寂が訪れた。
「……欠片、だと?」
シグルドが低く問い返す。その声にはただ驚きだけでなく、理解を拒むような願いが宿っていた。
「そうさ。五つに裂かれた魔王の魂が五魔具に宿って各地に散った。そして、それぞれが“人間の姿”をとって蘇りの時を待っていた」
グラムの声は、どこか楽しげですらあった。
「俺達、五魔具は殺し合う事でお互いを吸収できる。そして全てが一つになった時、魔王が復活するのさ」
「……させると思うのか?」
老いた喉から振り絞る声は、若き戦士にも劣らぬ覇気を放っていた。静かに剣を構えるシグルドであったが。
「無理だろ、お前はもう戦えない。構えだけで……ただのハリボテだ」
見抜かれていた、度重なる連戦に無茶な戦いを重ねた老いた身体は限界を迎えつつある。
「……このために仲間を犠牲にしたのか」
「命は有効活用しねぇとな」
グラムが歩み寄るたび、肩の魔剣が脈動する。不気味な明滅は、まるで吸い上げた血が刀身を巡っているかのようだった。
「けど、そりゃお前も同じだろ? 聞きゃあメートルの奴を倒すのにガキを犠牲にしたらしいじゃねえか」
グラムは一歩踏み出すごとに、言葉を吐く。
その声は低く、冷たく、まるで毒を吐く蛇のようだった。
「お前とは違う……!」
「違わねえさ、村を救うため? 誰かを守るため? ははっ……笑わせるなよ。
お前の戦いはな、過去に死んでいった奴を忘れないための自己満足だ」
シグルドの眉がわずかに動く。
「……黙れ」
「そうやってな、亡霊を背負って戦ってる気でいるんだろ?
でもよ──誰かを守れなかった後悔で剣を振ってる時点で、もう英雄なんかじゃねぇよ」
グラムは一歩、さらに近づく。その双眸は、深淵のように冷たい。
「お前が守れなかった命の、その一つ一つが、今もお前の背後で泣いてんぜ。
なんで助けてくれなかったのってな」
「黙れと言っている!!」
シグルドはグラムを拒絶するように剣を振るう。だが、その刃に宿る光は、主の心を映して揺れていた。聖剣は想いを映す鏡だ、気高き信念と誇りがなくてはその力を示さない。
「志だけ正義を唱えりゃ気持ちいいよなぁ、殺す理由に正義を使って、見捨てる理由に正義を掲げて……
お前らの中で、誰一人、自分の手を汚したと認めた奴はいねぇ!」
グラムの声が、呪いのように響く。シグルドの剣は微かに揺れ、光を失い始める。聖剣の輝きが、まるで彼の内面の苦しみに合わせて弱まっていくようだった。
「見ろよ、聖剣だってお前が英雄じゃないって言ってんじゃねえか。他人の死に酔ってる中毒者が!」
その瞬間、聖剣の輝きが完全に消えた。今、シグルドが持つのはただの鉄の剣だ。
「そんな、まさかグラムはこれを狙って……?」
「だいせいかーい、いくら満身創痍とは言え聖剣を持たれてちゃ万が一があるからな」
グラムが禍々しい剣を構え、一歩、また一歩と距離を詰める。
「──違う」
シグルドの胸奥から、低く、くぐもった声が聞こえた。
「……まだ終わっていない」
守れなかった命たちの声が、脳裏にこだまする。
あの時助けられなかった少年。
自らの剣で敵を貫いた際に巻き添えにしてしまった仲間。
奪われた村。焼かれた人民。
その全てが、今なお彼の中に生きている。
「お前がっ......! お前が、あいつらを……汚すなあああああッ!!!」
シグルドの叫びと共に、大地が唸る。光が失われた聖剣に光が再び灯る。しかしそれはグラムのものに酷似した紅い邪悪な輝きだった。
──掲げし信念は理想に裂かれ
託した夢は希望に裏切られた
天が呆れ地が嘆く
されどなお伝説は振るわれた──
──聖剣の伝承 第二節──
「あれは……魔剣!?」
「おいおい、冗談キツいぜ……」
洞窟に奔るのは、もはや聖なる輝きではなかった。
赤く染まった剣身は、怨嗟と慟哭の炎のようだった。
それは、咆哮。
ただの男が、背負い、呑み込み、燃やした無数の後悔の炎──
「わしも人間だ、わしの人生がある。
その生き方がどうあるべきかなど……
誰かに何かを言われる筋合いはない!」
シグルドは魔剣を振るい近くに倒れていた盗賊を斬りつける。赤い輝きが喰らい尽くすように盗賊の身体を呑み込むとそこには何も残っていなかった。
「それってやっぱりアレだよな……」
「お前が魔王の五魔具だと言うのなら一番よく知ってるだろう」
シグルドの痛みは、消えていた。骨も筋も、あれほど悲鳴を上げていたはずなのに。息も、不気味なほど静かだった。
「糞がっ、生命力吸収かよ!」
グラムが毒づいた瞬間、シグルドの身体が弾けるように飛び出す──紅く染まった魔剣を携え、疾風のごとく距離を詰めた。
グラムは咄嗟に剣を振り下ろす。重く、熱く、そして鋭い音。紅い火花が弾ける。
魔剣と魔剣の激突。
打ち合いを続ける最中、シグルドは転がっている盗賊を斬りつけて吸収していく。
「手癖悪すぎんだろ!」
「今度はお前が守って見せるといい」
グラムの眉間に皺が寄る。焦りではない、明確な苛立ちだ。
「守る必要なんざねえよ、先に喰っちまえばいい」
グラムが近くの盗賊を斬りつけると同じように紅い輝きがその身体を呑み込み消化した。
「まだ息があったと言うのに薄情な奴だ」
「うっせ、お前に喰われるよりマシだろ」
交錯する剣圧が岩壁を裂き、唸る風が洞窟を吹き抜ける。すでに周囲に倒れた盗賊の姿はない。死の気配だけが場を支配していた。
「あとはお互いが喰うか喰われるかだ!」
グラムの剣が、シグルドの剣をじわじわと押し込んでいく。
たとえ体力が蘇ろうとも、老いによって衰えた筋力までが戻るわけではない。
純然たる力の勝負になれば、齢を重ねたシグルドよりも、幾分か若いグラムに分がある。
この戦いが一対一であればだが。
「満つるもの、干されよ、我が声が枯渇を告げる──『脱水』!」
ガンバが詠唱したのは洗濯物を乾かすための生活魔法、だが。
「重ねて告げる、その身を渇きへと堕とせ!」
追加の詠唱でその威力を上げる、それをごく一部に集中させれば──
「どわぁっ!」
グラムの軸足を支えていた地面が突如砂に変わる。急な変化に対応できず体勢を崩すグラムにシグルドの魔剣が振り下ろされた。
「いってぇ!! クソジジイ、やりやがったな!」
ガンバに激昂するグラム、その怒りをぶつけようとするもシグルドはそれを許さず、冷徹な表情でその進路を遮る。
「俺様がやられる? そんなことあってたまるか!!」
一度傾いた趨勢は戻らない。グラムは次々に傷を負い動きが悪くなる。それに引き換えシグルドはグラムから生命力を吸収し回復を続ける。もう誰の目に見ても勝敗は明らかだった。しかし──
「……グラムの魔剣、様子がおかしい……?」
ガンバが異変に気づいた。
シグルドの一撃を受けるたび、グラムの魔剣の輪郭が揺らぎ、形を保てなくなっていく。
「まさか……魔具を……魔王の欠片を吸収し始めている……?」
よく見ると、シグルドの手にある剣がより深く、より禍々しい光を帯びていた。まるで、闇の中から何かが目覚めるように──。
「いけません! シグルド! その剣でトドメを刺しては……!」
魔を以て魔を制することはできない。ただより強い魔に回帰するだけ──
だが、怒りに我を忘れたシグルドに言葉は届かなかった。
「終わりだ!!」
傷つき動けなくなったグラムへ魔剣が振り下ろされる。
「……っ!!」
その瞬間、間に割って入ったガンバの肩を魔剣が深々と裂いた。
剣身が血を啜り、まるで嘲笑うかのように邪悪な光を瞬かせる。
「な、何をしている!」
斬りかけた刃を咄嗟に止めたとはいえ、その一撃は深く肉を抉り、鮮血が噴き出す。
だがガンバは倒れない。
膝をつきながらも、なお前を睨みつけ、シグルドに叫んだ。
「……その剣をよく見てください! 怒りと憎しみに身を任せたまま戦い続ければ、次に魔王になるのは……あなたです!」
そう言われ我に返るシグルド。魔剣に目を落とせば濃密な魔王の気配が漂ってきている。
「あなたに助けてもらったとき、本当に嬉しかった。それと同時に、生きていることの幸せを感じたんです。」
その言葉に、シグルドの心は揺れる。誰かに必要とされることが、何よりも心に染み入るのだった。
「英雄は……誰かを倒す者じゃない……誰かのために立ち続ける者です……」
涙と血にまみれながら、それでもガンバは懇願した。
「どうか! 私の、……私の“英雄翁”でいてください……!!」
──静寂。
魔剣が微かに、軋むような音を立てていた。
そして、それに抗うように、シグルドの手がわずかに緩んでいく。
「……っ……わしは……」
呻くように、言葉が漏れる。
「……わしは、誰かのために剣を取った……そのはずだった……!」
シグルドの手から、ゆっくりと剣が落ちた。
「……ありがとう、ガンバ。お前のおかげで……わしはまだ、わしでいられる」
赤く染まった剣身が、軋みをあげながら地に伏す。まるでその邪悪な意志が、なお主の怒りに縋ろうとしているようだった。
シグルドはガンバを抱きとめ、その背に回した腕に、全ての感謝と決意を込めていた。
「わしは英雄であろうともがいてきた、一人の老人だ。それでも、誰かにとっての英雄であることだけは──見失いたくない」
立ち上がった彼の背は、今もなお老いに支配されていた。だがその歩みには、かつて魔王を討った時と同じ、確かな意志の重みがあった。
「はーっ……茶番だな」
呻くような声とともに、グラムが地を這いながら立ち上がる。血まみれの体を引きずるその姿には、もはや威圧感もない。
「……それでも、わしは英雄翁であり続けると決めたのだ」
シグルドは剣を拾い、グラムに向き直る。しかし、その刃は未だに紅く輝き続けていた。沸き上がった憎悪と怨嗟──それは簡単に消えるものではない。心に深く刻まれた怒りの炎は、冷めることなく燃え続けているのだ。
「……」
紅く輝く剣に歯噛みするシグルドであったが、グラムから出た言葉は予想外のものであった。
「降参だ、こんな状況じゃなけりゃ確実に死んでた。……こんな生き残り方、冗談じゃねぇ」
己の敗北を吐き捨てるように言いながら、グラムは魔剣の刃を自らの喉元へ押し当てた。
「じゃあな、生まれ変わったらまた会おうぜ」
次の瞬間、鮮血が噴き上がった。崩れ落ちた肉体は闇に呑まれ、霧のように掻き消える。洞窟の中に、沈黙が降りた。
それは、一つの戦いの終わりを告げる静寂だった。




