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正しい日本語を使いましょう

作者: 林泰寧

 その克田という男は、今日も社員の行動を見張りに事務所の中を一人堂々と歩いていた。一人ひとりがコンピュータの画面に向かい、各々割振られた仕事をこなしている。そして克田は、彼等の画面の中を一つひとつ観察していた。

 その中に、計算表の中の文字を一個一個修正している若い男性社員がいた。克田は彼の前で足を止め、割込むようにキーボードを操作し始める。

「あのね、君。へたにそんなマジメにやってたら、お先真っ暗。()()()()()なら黙ってこう」

 すると、表中の問題ある数字のみが点滅するように切替っていく。男性社員は、茫然としてその画面を見ていた。

「こんなこといちいちやってたら面倒! もう()()()()()()()()に使えなきゃ」

「はっ、はい」

 男性社員はそう答えたが、その後口ごもるように何かを呟きかける。しかし、克田はその動きをも見ていた。

「何だ、言いたいことあるならハッキリ言え。そうやって作業に時間ばっかりかけて自分では終わったつもり。それでとにかく闇雲にやれば間違いばかり、できるのは余分なデータだらけ。だから永久に何の役にも立たない仕事だけして、その日暮らしするだけの無味乾燥な社会人生活なんだよ」

 それだけ言放ち、克田は次の机を見て回る。

(箇条書きに中黒チマチマ打ってるとか、こいつら全員()()()()。普通に右クリックで『箇条書き』って設定使えば済む話なのに。それこそヒラから部長クラスまで、()()()()()()()()()()()()()()。それに見てれば変な記号とか書式とか、パソコン初心者の使う()()()()使い物にもならない代物ばかり。しかもそれを誰も指摘しない。そうやって『我流』の方法ばかり携えて社会に挑んで、こいつら出世街道を外れるんだ)

 ──などと思いながら、克田は「正しい方法」の優位性を伝えるべく一人ひとりの操作方法を見て回っていた。


 ◎


 その日は晴天であり、気温は僅かに暖かかった。克田は事務所のある階に着き、その扉を開けてあいさつをする。日々「あたりまえ」のことを心掛けている彼には当然のことであった。

「おはよう」

 ──社員一同が静まり返る。みな目を丸く見開き、その場に固まった。するとみな極秘で何かを相談するかのように耳元で話し合い、そのまま席に座る。克田は、この一連の出来事に理解が追いつかなかった。

「……克田則之様。それは、よろしくありません」

 そばに聞き慣れた声があった。見れば同僚の橋本である。

「おい、よろしくないって──」

「待ってください! あなたは、言葉を()()()()()お話しになりました。それがとてもよろしくなかったのです」

「はあ……?」

「もしかすると、昨日の夜の新聞を読まれなかったのでしょうか。こちらを見てください」

 そう渡されたのは前の日の夕刊であり、そこにはいつになく大きい文字で「日本語正書法ついに決定、明日〇時より義務化」と書かれていた。他の新聞の夕刊も見せられたが、大半が「日本語の正書法」について大々的に取上げていたのである。その理由に就いては、日本語は世界各国の言語に対し正書法を持たなかったからとか、外国人にもわかりやすいよう配慮するためなどと書かれていた。

「ですので、今後より大人としての対応を以って、この正書法にしたがっていただきますようお願いします」

「……か、かしこまりました」

 よく見れば書類の本文も、あちこちに張られた掲示物も、みな似たようなデス・マス調の文体で書かれ、全て振仮名まで振られていた。その掲示物の中には、顔真卿の筆法で「猥語厳禁きたないことばのつかいかたはやめましよう」と書かれたものまで堂々と張り出されている。

(おいおい、何だよこれ……まさか)

「ねえ藤田──藤田亮子様、そのお読みになられている雑──と、東京ウォーカーを見せていただけますか」

「かしこまりました。こちらを渡します」

 克田は雑誌を受取り、その表紙を見る。レイアウトこそ以前のままではあるが、見出をよく見れば「渋谷(しぶや)の あまり ()られていないところ 十二選(じゆうにせん)」「今年(ことし)の (はる)は ここで お花見(はなみ)を しましょう」など、書かれていた文章はやはりデス・マス調と振仮名のものであった。業務用の書類はもちろん、若者の読むであろう雑誌まで全てが似通った──いや、もはや全く均一化された振仮名付きのデス・マス調で書かれていたのだ。

(……これが正書法、なのか)


 ◎


 昼休み、克田は外で昼食を食べようと思っていた。いや、昼食を食べるために本屋に入る者がこの世のどこに存在しようか。

 その店頭に並べられた雑誌を見ると、どの記事の題名から内容も全て同じデス・マス調と振仮名で書かれていた。古典コーナーに行くと、まず「ツァラトゥストラ(さま)は こう (はな)されてきました」という本があった。見れば帯には「この(ほん)日本語(にほんご)正書法(せいしよほう)対応(たいおう)しています」と書かれている。

(マジかよ……正書法(あれ)のためにタイトルまで変えるのか)

 さらに見ると「(わたし)は (ねこ)です」「(だれ)のために (かね)は ()りますか」「(よご)れて しまった (かな)しみに」などの題名がズラリと並んでいる。その様は整然とした禍々しさ、美しさのある恐ろしさをも通り越し、もはや圧巻ですらあった。

 それから克田は本屋を出ると、ハンバーガーを一つだけ買って繁華街に出た。やはり多くの者が道を通り、思い思いの話を語り合っている。

「ごはんは何を食べますか?」

「私は豚骨ラーメンにします!」

「あなたは本当に豚骨ラーメンが好きですね」

 遠くでそう話していた男二人は、まだ元気な若さを湛えるべき大学生のようであった。

「これはおいしいですね!」

「本当においしいです!」

「後で岡田秀美様にも教えましょう!」

 カフェテラスの椅子で話していたのは、なんと二人とも克田の同僚である松村と斎藤だった。

「ああ、克田則之様。春眠暁を覚えずとはよく言ったもので、近頃は春の始めの暖かさのためか朝も眠いです」と松村。

「……さ、左様ですか」と克田は慌てて返すが、一瞬、斎藤の顔が曇る。

「突然ではございますが、ここのパフェはおいしいので、一緒に召し上がりませんか」

「!? か、かしこまりました」


 そうして流されるように入店し、克田は女子二人と椅子に座る。松村が手を挙げる。

「失礼します。この『(なま)クリームを ベースに、イチゴを はじめとする フルーツを ()せ、(うえ)から チョコレートソースと チーズソースを かけた パフェ』を一つお願いします」

「かしこまりました、『(なま)クリームを ベースに、イチゴを はじめとする フルーツを ()せ、(うえ)から チョコレートソースと チーズソースを かけた パフェ』を一つご注文されるのですね」

「はい。ありがとうございます」

 そうして店員は去っていった。松村と斎藤が業務連絡のような口調で楽しそうに話すのを横目に、克田は入店する二人の男性を見た。その二人はちょうど克田たちと近い席に座り、ずっと何も話さず無言のままであった。ところが、一方の男が小さい声で話しだす。

「やっぱ正書法正書法って、いちいちうっせーよな」

「だよなー、ずっと言い換えンの本当に無理」

「それにあのルビ! 俺たちもう子供じゃねーっつの」

「マジでわかるわー」

「そういやここって、結構かわいい感じの店だな」

「ああ。嫁も最近、ここ気に入ってて」

 すると男二人の話し合う声が聞こえた瞬間、斎藤は立ち上がった。

「ただいまから公衆電話に行きます。公衆電話とは町のなかにある、お金を入れて使う電話のことです。松村純子様は机の下に隠れ、克田則之様は逃げてください」

 そう叫ぶと斎藤は足早に店を出て、松村は地震よろしく机の下に隠れた。克田はしどろもどろしながら、ただ店を逃げていく他の客の姿をみるだけであった。

 それからバツも悪いので会計を済ませ店を出ると、何台ものパトカーが十分もせずに店の前へと到った。そうして先程の男二人が手錠をかけられ、警察官に連行されていく姿を見る。彼はこの時、正書法という名の()()()()()がいかに力を発揮し、世を裁きゆくかを見せつけられていた。


 ◎


 その克田という男は、その日も社員の行動を見張り事務所の中を一人歩いていた。普段どおり一人ひとりがコンピュータの画面に向かい、各々割振られた仕事をこなしている。そして克田は、彼等の画面の中を一つひとつ細かく観察していた。

 その中に、文字をテンプレートに一つづつ貼付けている女性社員がいた。克田は彼女の前で足を止め、マウスを奪い右クリックをする。

(……!?)

 だが、彼の使おうとした項目には「テキストエディタなどで つくられた テキストデータ〈文字(もじ)だけで 表現 (ひようげん) している データ〉を このドキュメント(じよう)の (ひよう)に ()れます」と書かれていた。これを押せばどのような操作がなされるか執拗(しつこ)いほどわかるのだが、その内容を「流し込み」のたった四文字で済ませていないことが、克田には信じられなかった。

「……どうされましたか?」

「あっ、いや」

 克田はそのまま表に関係ない所をクリックし、一度開いた項目を消す。そのまま朧掴(おぼつか)ない笑顔で彼女の席を離れ、また見回りに戻った。

 しかしよく見ると、ソフトの表示するアラート、打っている文章、画面の(ふち)に貼られた付箋のメモすらも、悉く振仮名付きのデス・マス調である。

(おいおい……誰にも見せんからいいだろ)

 しかし、ふと突然昼間のことが頭をよぎる。あの自由な口調で話していた男二人は、たったそれだけが理由で逮捕されてしまった。人々に長く読まれてきた数多の本が、全て一夜にして名を変えられてしまった。即ち今やこの正書法は万人基い万物の順うべき規則であり、これに背けば矯正、あるいは抹殺の対象となる。しかもそれを誰も問題視しないどころか、それこそ()()()()()()()()()()()なこととして受止めているのだ。克田はこのことが急に恐ろしくなり、何もしないまま自分の机に戻った。


 ◎


 その日の晩、克田は他の社員たちと飲みに誘われていた。この時には克田も正書法に慣れ、何を話しても怪しまれないためのコツを把み始めていた。

「──そして、友達の松村純子様だと思って話しかけたところ、まったくの人ちがいで知らない人でした」

「ああ、おもしろいですね」

 と、このような調子で話が続く。様子は全く普通の飲み会なのだが、話し声だけは正書法に則った口調である。この時の克田は手許のビールに抗えぬまま、既にジョッキ三杯分ほどの量を飲んでいた。

「克田則之様はよく飲みますね」

「いえいえ、私でも酔うときは酔います」

 すると、部長が手を肩にポンと置く。

「ところで、最近の仕事は調子がよいですか?」

「はい、調子がよいです。もう毎日多忙ですので、電車に乗る時も毎日どうすりゃ上手くいくか考えて実践してみたり! てか他の奴等なんか絶対ここまでしてねーよ! ははは……」

 声を止めると、辺りがしんと静まり返っていたことに気が付く。誰の動きも、声も、表情も止まり、みな死体でも発見したかのような、はたまた愚か者でも見つめるかのような、そんな面持で克田の顔を見ていた。

「あなたは、一体何を言っているのですか」

「へ?」

 突然、部長が口を開く。その声は鞭で肉を叩くように耳をつんざき、顔は将に号哭せんとも憤怒せんともするような表情であった。

「正書法に従わず汚い言葉を使うとはどういうことでしょうか」

「そのような話し方の人はすぐに退場してください!」

 先程まで一緒に酒を飲んでいた同僚たちが、力づくで克田の腕を押さえはじめる。そこから抜出そうにも彼等の力は強く、無理に抵抗せんとしたため床にそのまま投げ出されてしまう。

「まっ、待て! いや、待ってください!」

 立上がって説得しようにも、また強く腕を捉えられてしまう。見れば周りには席を逃げ出す者、泣き出してしまう者、一緒になって克田を逃さじとする者。かの項羽が垓下に楚歌を聞いた時すら、ここまでの絶望はしなかっただろう。

 ついに彼は取押さえられ、その頬は床にべったりと貼付いた。

「早く正書法学習センターに連れていきましょう」

「猥語話者強制収容所でなければ対応することができないと考えられます」

「えっ……えっ!?」

 克田は、これらの言葉を聞き一気に恐ろしくなった。もはやまともに思考することすら能わず、とにかくここから抜け出そうと俄に腕を伸ばした。しかしその指先は中身の入ったグラスに触れてしまい、彼は酒の液体を顔面から被ってしまった。克田は目の前が真っ青になり、喉の裂けんばかりに絶叫した。

 彼は発狂していた。直後、意識は闇の底に落ちた。


 ◎


 ──ピピピピッ、ピピピピッ、と、目覚時計の音が鳴る。驚きのあまり叩くようにしてボタンを止めると、時間は朝の七時。場所は、克田の自宅マンションであった。

(……夢? 今までの、本当に全部、夢だったんだな……?)

 それから彼はテレビも点けず、ポストに挟まった新聞も取らず、服を着替えてすぐ家を出る。それから道の看板にも目をそらし、人の話し声からも耳を遠ざけ、ついに何も見聞きしないまま事務室の前に到着した。

 克田は、ドアノブへと徐ろに手を伸ばす。誰も話しかけてはこないか、ラジオなどの声も聞こえないか。そうして彼は勇気を振絞り、ついにドアを開ききった。

「あっ、克田さん。おはようございます!」

 ──「おはようございます」という言葉を脳裡に反響させながら、克田は失神した。


(了)

 正書法とは云いましたが、作中のこれは少々いきすぎたものであります。本来の正書法とは「分ち書きはこうしましょうね」とか「単語の綴りはこうしましょうね」といった本当にごく簡素なものであって、適応範囲もまた教育や公文書等に留まり、個人の範囲にまで及ぶ強制力はありません。それこそ名前もなく動きもない混沌に天地を分けるような正書法なら善いと思いますが、作中のようにどんな会話も出版物も取締まるようなものは違います。

 最後に、まあ本筋とは微妙にズレているかもしれませんが、私の好きなこんな文章を示したいと思います。

和歌(やまとうた)は人の心を種として、(よろづ)の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水に住む蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神(おにかみ)をもあはれと思はせ、男女(をとこをむな)の仲をもやはらげ、猛き武士(もののふ)の心をも慰むるは、歌なり」

 では、またどこかで逢いましょう。

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