6話「それが私の交換条件です」
私――レイチェル・アラベスクは、今まで暮らしていた世界を追放され、一年間を東京の「とある街」で過ごすことになった。
ただ、強く言っておきたいのは、追放されたことについて、私はまったく神さまを恨んではいないということだ。
だって……私はあの街で掛け替えのない時間を過ごすことができたのだから。
あの街、あの区画は――言うなれば「子供」と「大人」と「大人になりかけた子供」が交差するエリアだった。
様々な事情を抱えて全国から集まって来た少年少女達は、誰もが自らの場所を探していた。
けれど誰もそれを見つけることが出来ない。だって、そもそもあの区画に答えはなかったのだから。
それは、まさに「地雷原」のような場所だった。
足を踏み入れたが最後、抜け出せなくなる。勇気を出して足を踏み出せば、その足が吹き飛ばされる。身体に、心に傷を負う。
みんな、あそこから出られなくなっていた。
あそこは迷いの森であると同時に――「牢屋」でもあったからだ。
ハッキリ言って、あの区画の評判は最悪だった。
足を踏み入れた当初は私も眼を疑ったし、今でもそれは思う。
けれど最初から、あそこにいる子達が最悪だったわけでもないし、あの場所が最悪だったわけでもない。
様々な要因が積み重なって、そういう空間が出来上がってしまったに過ぎないはず。
今となっては、推測することしか出来ないけれど。
けれど、この一年で……あの区画は、変わったのだ。
「牢屋」はなくなった。外部から「鍵」を掛けていた大人達には、手を引いてもらうよう丁寧にお願いさせてもらった。
牢屋から出たくないと言う子達もたくさんいたけれど、その一人一人としっかり話し合って、次に進む道を一緒に決めた。
結果的に――もう誰も、あの街の、あの区画に集うことはなくなった。
それは事実だ。
私のしたことが正しかったと言うつもりはない。
みんなが選んだ道で、他の苦難に出くわしたり、失敗することも絶対にあると思う。
でも……私はなんとなく信じているのだ。
みんなは、大丈夫だ、って。
――だから、あとは、私が自分の問題を片付けるだけだ。
「神さま、一発殴らせて頂いてよろしいですか?」
でも、これは問題というほどの問題じゃないか。
単に――死ぬほどムカついたから、パンチ一発で済ませようという、それだけの話なのだから。
「……僕を……殴るだって? 人間である君が?」
「はい」
神さまが大きく眼を見開いて、私の方を見ていた。
私は頷く。
胸の奥に――決して静まることのない憤怒を抱いて。
「威嚇するような真似をしてしまって申し訳ありません。右手に力を入れたら、自然と魔力とか、色々なものが集まってきてしまったんです」
これは本当だ。さっきから私の身体は自然と魔法を使っている。
地球から戻ってゲートをくぐった瞬間、いつの間にか生まれて初めて《暴風》の魔法が発動して、神さまの部屋を秒で更地に変えてしまった。
今は右手がビカビカに光っている。「神さまをブン殴りたい!」と強く願ったら、そうなっていた。手にとんでもない量の魔力が集まっていることしかわからない。
「本当かな。わかってる? とんでもない魔力だよ、それ」
「……正直、自分でも計りかねております。私、人を殴ったことは一度もないので……」
「へぇ。なのに僕を殴りたいって?」
「はい」
他人を殴って苛立ちを発散させるなんて、良くないことだと思う。
けれど……先ほどから身体のムズムズが止まらないのだ!
気が付くと、緩んだ指をキュッと固めたくなる。
右手だけじゃない。左手も同じだ。
身体が、本能が、心が――神さまを見ているだけで、その欲求を抑えられなくなる。
おそらく、これが「怒り」なのだろう。
私自身ですら自分の中にこんな衝動が眠っているなんて、考えたことすらなかった。
大抵何でも上手く出来るはずの自分が、逆に他人を殴ることだけは上手く出来ないのではないかと考えてしまうくらい未知の感覚だった。
「ですが、そうしないと心に収まりが付かないのです。お願いです、神さま。一度だけで構いません。殴らせて頂けないでしょうか」
「ふぅん……」
神さまがおどけるように言った。
「もしかしてさァ、レイチェル――僕を『消滅させたい』の間違いじゃないの?」
「え……」
「すごいパワーだって言ったでしょ。今の君が殴ったら城の一つぐらい軽くブッ飛ぶよ。」
私は違った意味で衝撃を受ける。
神さまを消滅させるなんて、そんな……全く望んでいないのに!
だとしたら、力を引っ込めなければ。
でも、どうすればいいのだろう。これは半ば本能的な行為だった。勝手に魔力が右手に集まってきて、ピカピカと光り出してしまうのだ。
「まぁ、僕はその程度のパンチ食らっても滅びないけどね。神さまなんだから」
「そ、そうなのですか」
私はホッとした。神さまは私が殴っても大丈夫らしい。
これなら安心できる。
「よかったです。じゃあ、殴らせて――」
「いいわけないだろうがっ、このバカ女!」
次の瞬間、神さまの表情が変わった。
神さまは眉間に皺を寄せ、強い眼差しで私の方を睨みつける。
「どんなパワーかなんて関係ない! 神を人間が殴るだって――バカを言え! ヒトの分際で僕に触れようなんて生意気な! そんなこと許せるわけないだろう!」
徹底的な拒絶だった。
別に一度くらいいいはずなのに。死んだりすることもないと自分で言っていたのに。
神さまは――あまりにも神さま過ぎたということだろう。
神はヒトではない。神とヒトは相容れない。
私は彼にたった一度、触れることすら許されないというだ。
――代わりに、私の「一生」を差し出す程度のことでは。
そう気付いた瞬間、私の「憤怒」の炎は強く燃え上がった。
赤色だけではなく、黄色にも、水色にも、様々な感情の炎色に姿を変えながら――心の炎は私の唇を動かす。
「でしたら……私も神さまに従うことはできません!」
「……!?」
神さまが眼を見開く。私は続けた。
「先ほどの隠居の話はナシです! 私は家に引きこもったりしません! 今までと同じくらい……いいえ、それ以上に『神に最も近い聖女』として生き続けます!
婚約だってしますし、いずれ子供だって作ります。それがお嫌でしたら――私の出した条件を呑んで下さい! 神さまを……一発、殴らせてください!」
こんなことを言って、また神さまの世界から追い出されるとは思わなかった。
たぶん、どこに追放されても、私はもう帰って来ることができる。
そしてこの世界こそが――私の居場所なのだ。帰るべき場所なのだ。
強く、思う。
こうして神さまと話していたことで、それを改めて理解した。
「それが私の交換条件です!」
私は力強く言った。
興奮のあまり、息が少しだけ乱れて、心臓が高鳴る。
けれど、その昂ぶりは長くは続かなかった。数秒の間もなく、神さまが私を強い眼差しで睨みつけ、言った。
「出ていけ」
「え?」
「僕は君の交換条件なんて絶対に呑まない。だからこれ以上、話し続けるのは時間の無駄だ。ただし――」
「僕が君の活躍を黙って見ているとは思わないことだ! この世界は僕の世界だ――レイチェル・アラベスク、君の世界なんかじゃない!」
● ● ●
まさにそれはレイチェル・アラベスクと僕が、これから長きに渡って繰り広げられる試合開始のゴングに等しかった。
レイチェルは「……失礼します」と口にして小さく頭を下げて去って行く。
残ったのは内装をすべて塵に還られた無機質な四角形の部屋と――そこに佇む神さまだけだった。
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