4話「聖女の帰還」
世界からレイチェル・アラベスクを追放して、あっという間に一年が経った。
本来、神の一年なんて一瞬だ。
でも、このときだけは違った。レイチェルが消えた世界の後処理に追われた一年だったからだ。
我ながら相当な荒治療を行ったと思う。
なにしろ僕は死んだら絶対に英霊になるような人物を自分の世界から追放し、元々存在していなかったことにしたのだから。
当たり前だが、様々な部分で齟齬が出た。
レイチェルが残した功績、影響力はあまりに強大で、それを「なかったこと」にするということは、社会に大きな風穴を空けるに等しい行為だったんだ。
その歪みを僕は一つ一つ、正していった。
人の記憶や歴史を操り、社会が崩壊しないように細心の「治療」を行ったわけだ。
何故、神さまである僕が、わざわざここまで――そんなことを何度も思ったさ。
でもこれがレイチェルの存在を世界から抹消した責務だとも思った。
そう、言うなればレイチェルは「病魔」だった。
削り取れば健康が大いに損なわれることがわかっていても、それを放置すれば更なる大病を呼び込んでしまう。
これでも僕は待った方だと思う。
けれど社交界デビューを果たせば、レイチェルの影響力が更に爆発的な加速度で広がって行くことは明白だった。
今、やるしかなかったんだ。
だって、まだ彼女の年齢が一桁だった頃の功績しか、説明してなかっただろう?
当たり前だけど、彼女が社会に与える影響は成長してからの方が上だ。
もはやグロリア王国は当然として、近隣諸国にもレイチェル・アラベスクという存在の影響力はとんでもなく広がっていたんだ。
だから、こうするしかなかった。
殺したり、失踪させたりしたら彼女の「残り香」が僕の世界に深く根付いてしまう。
そうしたらレイチェル・アラベスクは伝説となり、英霊となり、果ては――神にまでなっていたかもしれない。
僕の世界を僕のものに戻すことは永遠にできなくなるだろう。
だから、僕の行動は正しかった――そう確信して止まない。
話は変わる。
神である僕は「神座」という一種の別空間に暮らしている。
これは「どこよりも遠く、どこよりも近い場所」とでも言うべき空間だ。
僕は自由に地上へ降り立つことができるが、逆に僕の世界で暮らす人間達は絶対に立ち入ることはできない。
言うなれば、神の所在地である。
そこで慎ましくもあり、同時に絢爛でもある生活を送っているわけだが……。
「菓子作りも醸造も、中々文化レベルが上がってきたな。神の味覚を満足させられる一品が作れるようになるまで千と三四五年か……まあまあだな」
僕は愛用の椅子と机に腰を下ろし、記念すべき「祝 レイチェル・アラベスク追放一周年パーティ」の準備をしていた。
なぜ、神がそんな俗っぽいことを……などと言うのは不敬だぞ?
そもそも神の味覚は人間と変わらない。
というよりも逆だ。
神から生み出された人間達だからこそ、「僕と基本的に似た味覚を持っている」というのが正解なんだよね。
これは言語や文化など、細々とした身の回りの慣習に至るまですべて同じだ。
神である僕が生まれつき備えていた様々な要素を、被造物である彼らの遺伝子に刻まれた太古の記憶の 中から「思い出している」に過ぎないってわけ。
祝祭の慣習もその一つだ。神だって、めでたいことがあったら祝うのさ。
「レイチェルの置き土産だ。存分に堪能させてもらうとしよう……!!」
この日のために僕は最高級のチョコレートケーキと、それからロゼワインを地上から接収して持ち込んでいた。
チョコレートを用いたケーキを作る技術は、ハッキリ言って相当に高度だ。砂糖や小麦の生成技術が向上しなければ繊細な菓子を作ることはできないし、チョコレートは熱帯地域にしか自生しないカカオが必要だ。つまり、それらを収穫し、遠い地域に輸送するための交易ルートが開拓されていなければならない。
ワインの醸造技術も同様だ。特にロゼワインを苦味なく、上質に作り出すためにはブドウの果実を無駄なく圧搾するため、高度に発展した技術力が必要だ。
僕の世界では「魔導機」と呼ばれる魔力で動く機械によって、この科学革命が成されている。
ちなみに「葡萄果実の魔導プレス機」もレイチェル・アラベスクが残した遺産の一つだ――おっと、今の世界では「いつの間にか出来ていた謎の機械」扱いだったな。
くくくくく……。
ちなみに、レイチェルが開発した魔導機を用いて生み出されたワインを僕が飲むことの是非だが、これは僕的には余裕でOKだ。
なぜなら……もう「レイチェルが創ったという歴史」は消滅したからね!
最悪の失敗作の痕跡は消え去り、結果だけが残った形だ。
この世界の神は僕だけなのに、まるでレイチェルが神のように崇められ、愛されるのが僕はムカついて仕方なかった。本当に邪魔でしかなかった。
彼女が短い十六年弱の間に成し遂げた功績は「名もなき遺産」となり、この世界を発展させる礎になるだろう。
「それでは、乾杯といこうか……」
深々と椅子に腰掛け、チョコレートケーキを切り分け、ロゼワインをグラスに注ぐ。
一年前の出来事が、つい先ほどの出来事のように僕の頭の中には残っている。
「レイチェル・アラベスクの、永遠の不在に、カンパ――」
そう。
グラスを掲げ、高く持ち上げた瞬間だった。
「そのパーティ――私も混ぜてくださいませんか、神さま?」
神座にあるはずの僕の私室に、凄まじい突風が吹き荒れたのは。
一瞬でグラスが弾け飛び、薄桃色の液体が飛散する。
まっすぐチョコレートケーキが僕の顔を目掛けて飛んで来たので、それを僕は破裂させる。
分子レベルにまで分解されたケーキは突風で後方へと流れていく。
オーク材の机はバキバキに粉砕されて、塵へと成り果てる。書類棚や工芸品の壺、照明といった地上から接収してきた家具はすべて形を失う。
数秒後、残ったのは僕と「空間」だけになった。
飾りをすべて取り払われた、私室用に創りだした「神座」そのものだ。
真四角のなにもない空間。
そこに、僕という神さまが一人いる。そして、もう一人――
いるはずのない人間が、そこに立っていた。
どうして。
僕は自分の目を、頭を疑った。そう思わずにはいられなかった。
けれど、これは現実だ。
間違いなく――彼女はそこにいるのだから。
僕は、思わずその人物の名前を口にする。
「レイ……チェル……」
「はい。神さま」
そっと口元を隠していた黒いマスクを外しながら、レイチェル・アラベスクが頷いた。
――満面の笑顔で。
「ただいま帰って参りました」
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