1話「最も神に近しき聖女 レイチェル・アラベスク」
レイチェル・アラベスクの名が初めて世間に知れ渡ったのは、そもそも彼女に物心が付くはるか前だったと言われている。
彼女が最初に注目を集めたのはそのあまりに可憐な容姿だった。
瞳はガーネットのように深い赤色で、髪は熟練の細工師ですら紡ぎ出せないような銀髪。肌は陶磁器のように澄んでいて、唇は小さく、果実のように瑞々しい。
このときのレイチェルはたった三歳だった。
だが、彼女を見た誰もが確信した。疑うことすらしなかった。
十年後、彼女がこの世界で一番の美女になることを。
まさに美の化身の再来と言われたレイチェルの存在は一瞬で国中に知れ渡ることとなった。下級貴族でしかなかったアラベスク家には縁談の話が早くも何十件も舞い込んだ。
当然、アラベスク家が属するグロリア王国の国王からも。
だが、話は一国だけに収まらなかった。
レイチェルの噂は――瞬く間に「国境」を越えた。
他国の王達もレイチェル・アラベスクという存在に気付いてしまったのだ。
結果として、すぐさまレイチェルとの縁談を目論む王や貴族達が衝突することになる。
誰もがレイチェルを自らの、息子の、甥の妻に迎えたがったのだ。
だが、そう目論む者があまりに多すぎた。彼らは総じて互いを牽制し、アラベスク家に様々な援助を持ちかけた。
これが「並程度の美女」ならば、決してこうはならなかったはずだ。
たとえ将来、絶世の美女になることが約束された令嬢がいようと、噂がさほど広がるはずもない。
そして一人の最も力を持った王がレイチェルを手に入れる。ただそれだけ。競争になどなるはずがない……。
だが、レイチェルは美しすぎた。
まるで神の恩恵を受けているかのごとく。
ゆえに彼女を――誰もが欲しがった。愛したがった。
故に噂は街を超え、国を超え、果ては大陸を超えた。
「レイチェル・アラベスク」という少女を一人の人間が独占することを誰も良しとしなかったのだ。
だが、レイチェルを取り合い、アラベスク家と隣り合った二つの領土でそれぞれの嫡男が小競り合いを起こした事件――後世で言うところの「リュー峠の戦い」が発生したことによって、状況は大きな変化を見せる。
今回は貴族同士の問題で済んだ。だが、このままではレイチェルを巡る争いが正式に国同士の紛争にまで発展するのも時間の問題だと考えたのだ。
有力者達は事態を重く見て、会合を開き、レイチェルに対するとある協定を極秘裏に締結したのだ。
レイチェルの相手を選ぶのは、レイチェル。
それ以外の誰であろうと、自らの意志で彼女を手に入れようとしてはならない、と。
それは実質的な休戦協定であり、「婚約禁止協定」でもあった。
各々が抑止力を行使することで、レイチェルの成長を待ち、そのときに改めて本格的な「許嫁」として彼女をその手に収めようと考えたのだった。
これが「美」の時代の結末だ。
最もレイチェル・アラベスクが――軽んじられていた時代。
単なる「貴族のアクセサリー」としてしか見られていなかった時代である。
なぜか。
いかに数多の王を動かし、紛争の原因となっていたとはいえ、この頃のレイチェルは所詮、小さな少女でしかなかった。
彼女はなにもできなかった。ただ美しく存在していただけ。
言うなれば「世界で最も美しいお人形」とさほど変わらなかった。ただ椅子に座って、笑顔を振りまいていたにすぎない。
だからここまでは「美」の時代でしかない。「容姿」という要素でしか、他者が彼女の卓越ぶりを感じ取ることができなかった。
神になど程遠い――ただの少女だった。
だが、そんな時代はあっという間に終わりを迎える。
人々はすぐに気付く。レイチェル・アラベスクは――決して美しいだけのお人形などではない、と。
レイチェルが五歳になった頃ぐらいだろうか。彼女は自宅の書斎に引きこもり、毎日、本を読むようになった。
科学や魔術、法律、経済、文化、風俗、戦術論――大人ですら理解するのに何日も掛かる分厚い本を恐ろしい速度で読破し、そしてその内容を理解してのけたのだ。
数多の物語もレイチェルを強く魅了した。
楽しい物語、優しい物語、ワクワクするような物語、恐ろしい物語、心が引き裂かれるような物語――レイチェルは様々な世界を本から学んだ。
本とは、著者の人生の生き写しである。
何百、何千冊もの本に込められた思いを、魂を、知識をレイチェルはとんでもない速さで吸収していった。それが可能な少女だった。
そして――誰もがレイチェル・アラベスクを意識せざるを得なくなり始めた。
王や貴族だけではなく、民すらもレイチェルの存在に気づき始めたのだ。
発端はアラベスク家を擁するグロリア王国に開国史上最悪の水害が起こったときだった。
水害対策で大規模な工事が必要となり、また国中で食料が足りなくなった。その窮地を救ったのがアラベスク家であり――そして何より、まだ七歳だったレイチェルだったのだ。
彼女は画期的な治水の手法を考案し、グロリア王家が水害に対して、まともな対応策を取れずにいた中で、率先して民を救った。
加えてアラベスク家は先んじて貯蔵していた食糧を市場に安く流通させ、多くの飢餓者の命を救った。そのアイディアを出したのもレイチェルだったと言われている。
魔術師として頭角を現し始めたのも、この頃だった。
レイチェルは戦闘用の魔法に興味を持たず、人々の暮らしを魔法によって向上させる「生活魔法」に深くのめり込んだ。
その中でも特に彼女を魅了したのは国の在り方を大きく変化させる「魔導工学」だった。
魔導工学が扱うのは道路や橋、街灯、ダム、各種建造物を始め、それらを作り上げるための重機等――女性魔術師が普通は関心を持たない「工業」の分野に魔法を融合させた学問だ。
結果、王都を始め、グロリア王国各地の生活を支えている数々の魔導機の開発・考案にレイチェルは携わることになる。
こうしてレイチェルを「容姿」だけで評価する者はいなくなった。彼女は「神童」や「天才」を超え、「最も神に近しき聖女」と呼ばれ始める。
故に次の時代は一つだけではない。
彼女の才覚は一気に開花した。そして、少女期から数多の「経験」すら積み始めた。
次は「知」の時代であり、「仁(つまり、思いやりや慈しみだ)」の時代であり、「魔」の時代でもあった。
気が付けば、誰もがレイチェル・アラベスクから目を離せなくなっていた。
誰もが、彼女を愛し、敬い、大切に感じるようになっていた。
まるで世界の中心が――あくまで一人の人間でしかない彼女であるかのように。
「いや…………そんなの、ありえないだろ……」
だって、この世界は僕のものなのに。
僕が作った世界で、今まで何千年も僕が理想の形になるように運営してきたのに。
ヒトが誕生するまで、本っっっ当に長かったんだぜ?
そこから数千年ってところか。やっと文化と文明が生まれて、ヒトというよりは人と思えるような礼節も学んだ。世界運営はここからが楽しいんだよ。
なのに、なんだこの女?
レイチェル・アラベスク。
最も神に近しき聖女。誰からも愛され、誰をも愛し、誰よりも優れた存在。
つまり「神さま」である「僕」からしたら――完全な失敗作だってこと!!!
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