一章 旅立ち⑧
それでもリセッシュ家にいた時とは違い、少しだけ希望を抱きそうになるのは――グランツ様の人柄に興味があるからだ。
名門ファブリーゼ家だから、というわけでは無い。
グランツ・フォン・ファブリーゼ――その当人とまだろくに会話を交わしていない。
そんな中、自らが勝手に決め付けた印象だけで物事を判断してはならないとイヴの良心が告げていた。
グランツ・フォン・ファブリーゼは美しい。
馬車から降りて一目見た瞬間、イヴはそう思った。
昔読んだ物語に出てきた妖精の国の王子様のようだと密かに思っていた。勿論、そんなことは口が裂けても言えないが……これから再び会うことができるなんて、それだけで幸せな気持ちになる。
(グランツ様へのお目通りが叶うなんて、普通は考えないもの)
リセッシュ家にいたら、きっと自室に閉じ込められて一目見ることすら叶わなかっただろう。
「イヴリース様、此方の扉が中庭への入口となっております。もし散歩などを楽しまれたい時は是非」
侍女であるシンシャの声でハッと我に返ると、イヴはコクコクと頷いた。
ギィイ……!
重い扉がゆっくりと音をたてながら、開かれる。
「わぁあ……!」
途端、視界に飛び込んできたのは色とりどり、大小様々な薔薇の海だった。香水などとは異なる柔らかな多種多様な香りが中庭の空間全体を包んでいる。
その世界はとても煌びやかで夢のような場所だった。
「どうぞ、此方へ。足元にお気をつけ下さい」
シンシャの手を借りながら、ゆっくりと一歩ずつ中庭の階段を降りていく。中央にはガゼボが建っており、そこには既に人が座っているのが見えた。
「あ……っ」
「ご安心下さい、イヴリース様。グランツ様より、急がずともよいと言付かっております」
人影が見えた途端、慌ててしまったイヴのことを察してかシンシャは優しく手を握り制すると言葉を投げかける。
「慌てて転ばれてはお身体に傷ができてしまいます。ゆっくり参りましょう」
「は、はい……」
ガゼボまで延びた整えられた道をゆっくりと歩く。
やがてガゼボの入口に辿り着くと、建物の奥にその人物は座っていた。
(グランツ・フォン・ファブリーゼ様……。私を、この屋敷に呼んだ御方)
緊張で声が震えそうになる。それでもイヴは精一杯“令嬢”として振る舞おうと、ドレスの裾を持ち上げては深々と一礼した。
「お待たせして申し訳ございません。イヴリース・フォン・リセッシュ、参りました」
「……茶会の用意は既に済んでいる。どうぞ此方へ」
グランツ様はそういうと席を立ち、イヴの手を取ると席へと案内してくれた。
「侍女達からミルクティーが好みだと聞いている。好きなだけ飲みなさい」
そっと耳打ちされた言葉に、思わず顔が熱くなる。
低く沈んだ、落ち着いた声が耳を擽る。
優しい眼差しが此方を見るたびに、心臓が早鐘を打つ。苦しくて、熱い。
(生きて此処から帰れるかしら……)
来たばかりだと言うにも関わらず、既にイヴは帰ることを考え始めていた。