一章 旅立ち⑤
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「…………」
グランツ・フォン・ファブリーゼは人知れず悩んでいた。
理由は明確だ。
リセッシュ家からやって来た令嬢――イヴリース・フォン・リセッシュについてだ。
「まさかあんなに怯えるとはな……」
初めて彼女を見た時、美しいと思った。
この国において希少な黒い髪と瞳は、黒真珠のような美しさを宿していて見惚れた。普段、どんな社交界で女性に言い寄られたとしても心動かされることはなかった自分が、こうも一目見ただけで心が高鳴るとは思いも寄らなかったのだ。
そんな自分自身の変化に驚く一方で気になったのは、イヴリースの態度だった。令嬢らしい堂々とした振る舞いはなく、まるで小動物のように怯えて震えていたのが印象的だった。
それほどまでに怖がらせるような応対をしてしまったのか。それとも怯えるほどに自分の顔は怖いものだったのか。
女性経験については皆無といっていいほど、仕事にばかり注力してきたグランツにとって、イヴリースとどのように接したらよいのか……それが目下の悩み事だった。
「クスクス……。顔が面白いことになっていますよ、グランツ」
不意にノックがされ、執務室の扉が開いたかと思えば其処には昔から個人講師を兼任している執事――オブシディアンが立っていた。
「オブシディアン……笑わないでくれるか。これでも真剣なんだ」
「ええ。貴方がクソ真面目な性格の持ち主で、女性不信な人間であることは重々承知の上ですよ」
「…………」
昔からのことでもう慣れているが、この執事は性格が悪い。それも非常に、だ。常々人の痛いところを突いてくる。
「とはいえ、普通に話すだけで良いのではないのですか?」
「……普通にと言ったって、震えていたんだぞ。リセッシュ家でどんな扱いを受けていたかは後々調べさせるつもりだが、今は少しでも此処に馴染んで欲しいんだ」
「貴方という人は……きっとまた気苦労の多いことを考えていそうですね」
淹れたての紅茶を机上に置き、ふむとオブシディアンは呟く。
「イヴリース様の好みの物が何か、少しでも分かれば良いのですが……」
「中庭で茶会でも催すか? 今は薔薇が見頃だ」
「そうですね。侍女達からも何か報せがあるかもしれませんし、今はひとまずお茶でも飲んで気持ちを落ち着けては如何かと」
「……いつもすまないな」
「とんでもございません。我が主」
オブシディアンは恭しく頭を下げながらも、彼は彼なりにグランツの不得手なところをカバーしようとしてくれている。それが判るからこそ、それ以上の苦言は言わないし言うつもりもない。
幼い頃から過ごしてきた、家族のような安堵感と信頼をグランツはオブシディアンに対して抱いていた。