二章 イヴとグランツ⑩
「…………」
それらの資料に目を通し終えた後、私は自分の記憶の奥底に眠っているある一つの記憶を思い出していた。
それは遠い遠い昔の記憶――。まだ自分が幼くて、未熟で、浅はかだった弱い頃。知らない街で迷子になったことがあった。従者もおらず、ただ一人広い世界にぽつねんと放り出された瞬間、最初に小さな心に宿った思いは冒険心だった。
不安でも恐怖でもない。
自分一人でも前に進めるのだという幼い虚栄心と自信だった。人混みを掻き分け、喧騒に耳を傾けては街に行き交う人々を観察する。
その街がどれだけ豊かなのか。
人々の間に幸せが溢れているのか。
そんなことに胸を躍らせながら、知らない街を冒険した。――だが、それも長くは続かない。小さくて体力も乏しい自分はすぐに疲れ果ててしまった。
「……オブシディアン……?」
従者の名前を呼ぶ。
普段ならすぐに返事がある筈なのに、その時ばかりはなかった。
「オブシディアン……オブシディアン……!」
何度も名前を呼ぶ。
けれど答えはない。
「…………」
その時、自分は初めて孤独というものを体験した。孤独と不安。言葉にできない、視界が真っ暗になるかのような感覚。
けれど、自分は泣かなかった。
幼いながらも、自分が伯爵家の長子であると自覚していたから。泣くわけにはいかなかった、泣くことは負けることと同義であったから――。
「…………っ」
小さくて薄い唇をギュッと噛み締めると、人混みの中から一度離れ露店の近くに移動した。街行く人々はみな、親や兄妹といった家族と共にいる。
そんな姿が羨ましくて、寂しくて、少しだけ嫌になった。
「オブシディアン……」
小さな両手を見つめていた、その時だった。
「……キミ、迷子なのかしら?」
「…………!」
不意に、頭上から一つの声が降ってきた。
顔を上げると、そこには異国めいた髪と瞳の色を宿した一人の女性が立っていた。だが女性はすぐに身を屈め視線の高さを自分と合わせると微笑んだ。
「泣かなくて偉いわ。一人で来たわけじゃなさそうね――お名前は?」
「……グランツ。グランツ・フォン・ファブリーゼ」
自らの名前を名乗ると、その女性は一瞬驚いた表情を浮かべた。けれどすぐに微笑み頭を下げると「安心して」と口にした。
「貴方の匂いが移っている従者を探せばいいのよね? 少し待っていてね」
そういうと女性は目を閉じ、何かに集中しているようだった。だが、ものの数秒と経たずに見つけたと呟くとパチリと瞼を開いた。
「とても心配している匂いがするわ。貴方のことをずっと探し回っているみたい。何か、連絡を取れる手段はある?」
「あ……」
その言葉に、ふと思い出したのは笛のネックレス。魔法を込めた、危険が及んだ時に吹く笛を首元から取り出すと思い切り吹いた。すると、
「グランツ様……! 誠に申し訳ございませんでした! このオブシディアン、なんとお詫びをすれば良いのか。旦那様に速やかに報告致します!」
「オブシディアン……!」
聴覚に優れたオブシディアンがすぐに人混みの中から姿を現すと、自分は思い切り抱き着いた。
「よかったわ。無事に見つかって」
「貴女がグランツ様といてくださったのですか。なんと御礼を申し上げれば……」
「私はなにもしてないわ。ただ一緒にお喋りをしていただけだもの」
オブシディアンに抱かれながら、チラリと女性を見た。素朴なドレスの胸元には、この領地を束ねるリセッシュ家の家紋が刺繍されていた。
「私にも小さな娘がいるの。貴方よりまだ小さいけれど……もしまた逢える機会があったら、遊んであげてね」
女性はそう言うと、ハンカチと一緒に色とりどりのチョコレートを自分の手の平に乗せた。
「今度は離れ離れにならないよう、道中気をつけてね」
ヒラリヒラリと手を降ってはその女性は人混みの中に消えていった。




