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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

サングリアル

作者: 雪芳

 シューズの裏側、ガラスの破片の歯ぎしりを聞いた。

「しっ」

 耳元を篭った熱が走る。顔をあげると、藍がサッと僕の口許を手で押さえた。


 ヒタッ。


 何者かの足が止まる。僕の出した音に気付いたに違いない。

 ゴム底が泣く。僕たちの方へと向きを変えるために。


 ヒタッ、ヒタッ。

 共鳴し、僕の心臓は激しく肋骨をうち始める。藍は呼吸をするのをやめる。


 ヒタッ、ヒタッ、ヒタッ。

 容赦なく接近してくる気配。狂ったように荒い息遣い。祈るように僕は、ぎゅっと藍の服を握り締める。今正に、僕たちの目の前で、絶望が立ち止まった。

 ――――が。


「14歳だぁぁぁっーー!!」


 瞬間、弾けるように奇跡は訪れた。すぐに足は、その方向を転換させると声の先へと走り出す。確実な獲物を求めて。


 数秒ののち、水のように世界は静まりかえった。藍は息を吐くと、扉を開けて外へと歩み出る。無論、僕も続く。堪らなく懐かしい光が飛込み、安堵がようやく微笑んだ。


 立ち上がりながら、シワくちゃの服を伸ばす。

「見付かるかと思った」

 藍が深く相槌をつく。少しの安心に和らぐ横顔。その頬は、女の子だけが持つ柔らかな雰囲気に充ち溢れている。でも既に彼女の視線は、次の戦いへと注がれていた。


「ココは危ないわ。食事もとれたし、日が落ちるまでに安全な場所を探さなきゃ」

「うん、そうだね」

 頷きながら僕は、周囲を見渡した。人気の無いレストランの厨房。窓から注ぐ橙色の光。そして、僕らを隠してくれた食器棚。


 こんなにも現実的な景色なのに、なんだか夢の底にでもいるみたいだ。


「大人たちが来る前に、逃げないとね」

 僕は呟き、手に持った鉄パイプを強く握り締めた。この、僕らが持つ唯一の武器を、今度こそ振るう時が来るかもしれない。

 ……誰かを殺さなければならない、そんな時が。


 始まりは、日常と変わらない姿で現れた。日曜日、僕は居間で寝転びながら、そのニュースを観た。


「南米で、新種のウイルスが猛威をふるっています」

 蝉の鳴き声。乾いたタオルケットの感触。遠い国の話。


「死者は既に千人を超え」

 全力にした扇風機。まどろんだ風。知らない人の話。


「WHOが世界各国に警戒を呼び掛けています」


 あの柔らかな夏の匂いは、もうどこにもない。




「14歳、」

 僕の呟きに藍が振り返る。

「死んじゃったかな」

「分からない」

 一瞥しただけで、藍は再び正面を見据えた。長い廊下の向こう、確かに存在するはずの非常階段を探しているのだ。


「助けにいけば良かったかな」

「どうせ死ぬだけよ」

 藍の返答が心臓を刺す。冷淡な言葉だけど、それは真理だ。僕たちが逃げ回った日々の中で見付けた、現実。


 新興ウイルスにより汚染された世界は今、14歳を求めている。致死率98パーセントという恐怖は、人を狂わせるには十分だった。


 アナウンサーの、血走った目、最後のニュースを、僕はぼんやりと思い出した。



 なぜ14歳の少年たちが感染しないのかは、依然と不明のままです――。


「ギャアアアアア!」

 突然、獣の雄叫びのような悲鳴が鼓膜をぶっ叩いた。

 藍の表情が一気に曇る。僕は思わず、耳を塞いだ。


 それでも尚、悲鳴は続く。そして一緒に、破壊音が鳴り轟いた。


「共食いが始まったのね。急ぎましょう」


 共食い。聞きたくない言葉。


 世界は狂ってしまった。

 秩序は死んでしまった。

 今この瞬間、世界を牛耳ぎっているのは、非感染者を食べれば病が治るなんていう、愚かな迷信だけ。


 死神が歌い踊る。

 14歳を奪い合う。殺しあう。

 人間が人間をボリボリと咀嚼する。


 可能ならば膝をついて震えていたい、だが、真摯な藍の目はそれを許さない。

「逃げるのよ、陸」


 僕たちは手を握り、再び走り出した。



 生きることは初めから、混沌だった気がする。


 真っ白で味気無い心音だけ重なって、ただ僕は、教室の机をじっと見下ろしていた。


 校庭、廊下、体育館、屋上。

 狭い敷地内をぐるぐる見渡して、それを檻のように感じた。


「生きることって、死んでるのと一緒だ」

 深い海に沈んでいくような毎日の中、唇をそんな風に動かしたのは、必然のように思えていた。


「そんなこと、ないよ」

 否定をしたのは、藍だった。

 ブラウン管の反対側ではなく、油臭い雑誌の裏側ではなく、テストの向こう側でもなく、他人事ではない。

 僕の目の前で否定したのは、藍だった。


 聡明で、勇気があって。

「死ぬことと生きることは一緒じゃないよ」

 人気者で、優しくて、正しくて。

「全然、違うよ」


 目障りな、僕の双子の姉。




 僕たちは、なぜ生き残っているんだろう。



 リノリウムの床は冷たく、沢山の血がこびりついていた。

 汚れたシーツを頭から被り、ふらふらと足を絡ませながら歩を進める。窓のない廊下は暗く、非常灯の明かりだけが薄く光っている。


 窓がなくて良かった。街は化け物の巣窟だから。


 14歳が見付かったことで、僕たちがいる地区は感染者でごったがえしていた。皆、脂ぎった目で、舐めるように14歳という薬を探している。他の地区への移動は確実に不可能な状況だった。


 絶体絶命。

 そんな中、窮した藍の提案は、実に突飛なものだった。


 ――病院に忍び込んで、病人のフリをするのよ。


 追い詰められた僕たちに、選択肢なんかなかった。



 ウイルスに感染すると、約二週間で人は死に至る。

 まず、酷い咳と頭痛、高熱、全身の痒みに襲われる。

 やがて皮膚が異様な緑色に変色し始め、生きているのにかかわらず体が腐っていく。ガスが溜り、あらゆる部分がぶくぶくに膨れ上がる。


 そして最後、頭は二倍に膨張し、皮膚は暖簾のように垂れ下がり、身体中から血を流して死ぬ。

 まるで割れた水風船のように。



 僕たちは彼等の姿を必死で模倣しなければならなかった。

 道端で倒れていた死体の腐肉を身体中に塗りたくり、頭に新聞紙をグルグルに巻き、抱き合いながら汚れきったシーツをスッポリ被った。そして二人で死にかけを装う。


 滑稽かもしれない、だけど生き残る道はこれしかない。



 病院の廊下には、沢山の人が密集し、寝転んでいた。


 ガスの効果で完全に腐り、液状になった死体の上に、死んだばかりの人が横たわる。

 それに重なるようにもたれるのは、呼吸もろくに出来ない病人。皆、ゴムのようによどんだ瞳で天井を見上げている。蝿を振り払う力など無く、蛆虫に体を食わせるばかりの人。


 その上を、幸か不幸か、まだ体の動く人間が踏み砕いてゆく。


 強烈な匂いが鼻をつく。

 鼻と言うよりも、頭を殴るような暴力的な匂いだ。目にしみ、吐き気すら薄る。熱っぽい臭気は喉に詰まって、僕の肺を汚してゆく。


 地獄絵図と悪臭、人々のうめき。

 その中を、溶けかけた人間の柔らかさを足の裏で感じながら、歩く。死体のない場所を、懇願しながら。


 僕は泣いた。

 だけど僕の足の下で泥のような人々は、泣くことさえ許されていない。

 彼等と僕の壁、それは「14歳」という曖昧さだけ。


 慟哭する僕の肩を、藍がぎゅっと抱き締める。温かい藍の服は、汗や疲れでじっとりと湿っている。

 僕は暗闇に慣れた瞳で、藍をみやった。

 藍は、涙を堪えていた。


「死ぬことと生きることは一緒じゃないよ」

 普通の学生だった頃の藍が、そう言って笑った。

 太陽に包まれて眩しい教室は、藍の輪郭を奪って、僕は藍と自分の差に白い嫉妬を抱いていた。


 とてもとても、昔のことだ。

 壊れたままのあの日は、まだ戻ってこない。



「あっ」

 ふいに、藍が声をあげた。びくりと怯えながら視線を落とすと、藍の足を掴む小さな手があった。

 腐り、まんじゅうのように膨らんだその手は、しっかりと藍の足首に触れている。よく見ると、僕たちの太股にも届かないほど幼い子どもだった。


「マンマァ……マン、マァ」


 手をあげ、振りほどこうとした藍だったが、子どもの言葉に体を硬直させる。

 立ち上がり、ぶよぶよの体で包むように藍の足に寄り添う幼児。


「マンマァ……マン、マァ」


 藍を母親と勘違いしているのだろう。

 必死なその姿に、藍はついに膝をついた。そしてそのまま、子どもに優しく手を添えた。

 触れた先から崩れてゆく肉体。藍はうち震えた。


「陸、」

 うめき、

「苦しいよ」

 そして涙を落とした。


 藍は強い。

 藍は勇気がある。藍は優しい。

 藍は、藍は。



 もしあの昼下がりがなくて、あんなニュースもなかったら、今頃僕たちはどんな日々を送っていたろう。


 藍は生き生きと楽しそうに僕を諭して、

 僕は何もしてないくせに疲れきった心のまま藍を嫉妬して、

 やがて大人になって、それぞれの道を選んで。


 成人式に一緒に出て、

 結婚式に下手なスピーチをして、

 普通の家庭を作って、

 こんな風に子どもを抱いて。


 ……ああ、藍に言わなくちゃ。

 僕たちは、僕たちは、


 僕は藍を掴んで、立ち上げようと力を出した。

 その時だった。



 突然、血のあぶくが、僕たちの顔に降りかかった。


 何事かと血を拭い、目を開ける。

 眼前に、潰れた蛙のような、子どもの顔があった。


「14ざぁあっ、14ざああいい、

14ざあああァイイィィイ!!!」


 一瞬で内臓が悲鳴をあげる。黒板を爪でひっかいたような子どもの雄叫びが、心臓を直撃する。


 この子は。

 この子は藍を母と思ったんじゃない。

 母のために、14歳を捕まえたんだ。

 人々の眼球が、ギロリとこちらに向けられる。全身が粟立ち、魂が警鐘を鳴らす。


「藍、逃げよう!」

 僕は呆然と座り込む藍の体を無理矢理、引っ張った。

 だが、藍の体は地面に密着したようにピクリとも動かない。

 見やると、あの子どもが血を吐き、ゲコゲコと喉を揺らしながら笑っていた。その手は、がっちりと藍を掴んでいる。


「離せ、離せよっ!」

 これが子どもの、死にかけた子どもの力なのか。

 まるで鉛でも乗っかっているようだ。


 ザワザワと辺りがうごめく。巨大な腸の中にでもいるような感覚が肉体を這う。


 ヤバイヤバイヤバイ。

 いやだいやだいやだ。


「藍っ!」

 僕は力を振り絞り、子どもの顔面に蹴りを入れた。

 瞬間的に、目をつむる。

 ぶより、とした弾力。

 力に任せて肉に沈む爪先。

 バチン、と気味の悪い音が辺りに響く。

 首の肉がぼろりと剥げ、支えを失った子どもの頭が、天井へと飛びはねた。


 蛍光灯が割れ、雹のように降り注ぐ。

 それが合図となった。

 僕は、放心状態の藍をシーツでくるむと、一気に担ぎ上げ、駆け出した。





 どれほど走ったのか分からない。


 酸素不足の頭はギリギリと痛んで、意識は朦朧とし、肺も心臓も脇腹も空気を取り込もうと暴動を起こしている。

 僕は走りすぎてオーバーヒートした体を横たえながら、氷のように冷たい汗を流していた。


「藍、大丈夫?」

 なんとか息も整ってきて、僕は漸く藍の様子を覗き見る。

 シーツに隠れた藍の表情は酷いものだった。暗く重たい額は、もう何年も放置された人形のようで、先程の明るさは全く感じられない。


 たまらず、藍を抱き締める。微かにある震えが、次第に僕の緊張を溶かしてくれる。

 藍は生きている、僕たちはまだ、生きているんだ。


 そんな確信を抱いてから、僕はようやく周りに見渡した。血と汚物と屍の沼を駆けずり回って、追ってくる人々を懸命にまき、気配が遠ざかった所で適当な部屋に飛込んだ。

 わけも分からず疾駆したが、病院からは出ていないはずだ。


 この病院にはいくつの棟があるのだろう、そしてここは、広い建物の、どこに位置するのだろう。

 窓から外を見下ろすが、高いことばかり分かって何階かは見当もつかない。


 僕は藍をおぶると、ゆっくりと部屋を観察した。


 一見すると、実験室のようだ。

 ビーカーや試験管といった身近な実験道具から冷蔵庫みたいな高そうな機械まで、黒い机の上に乱雑に並べられている。一部の機材が血で汚れていて、長居したくない場所には違いない。


 それでも、もう外は夜。病院内は敵だらけだ。

 下手に動くことはあまりにも危険だろう。


「ねぇ藍、また食器棚にでも隠れよっか」

 返事はない。ただ、一定の呼吸音だけ、ぼんの首に伝わってくる。藍を担ぎ直してから、僕は部屋の奥にある扉を慎重に開いた。

 扉を開けると、中は暗く、階段が下へと続いていのが見てとれた。念のために内側から鍵をかけて、藍を階段の上に座らせる。

「ちょっと待ってて、様子をみてくるから」


 鉄パイプを両手で強く握り締めると、僕は階段を降り始めた。いつでも振り回し、敵を倒せるように。

 階段を下りると、そこはただの部屋だった。暗くてよく判断は出来ないが、先程と同じように机が並んでいるだけのように見える。窓がいくつかあるだけで、どこかへ通じる扉はなさそうだ。ここなら安全かもしれない。


 僕はライトを探した。病院には僅かに電気が通っていたようだったから、非常時でもライトがつくかもしれない。

 僕は鉄パイプを構えなおすと、点灯する緑色のボタンを恐る恐る押した。


 緊張の中、パッと周囲に光がともる。

 だが、目に飛び込んできたものは敵ではなく、僕の予想だにしていなかったものだった。


「あ、ああ……」

 14歳。

 机に並べられていたのは実験道具でも機械でもなく、14歳の肉塊だった。

 14歳と書かれた紙が天井から垂れ下がり、その下に彼等は仰向けに置かれていた。

 あまりの衝撃に、掌が汗を吐き出す。


 彼等は、人の形をしていなかった。


 身体中の皮膚を剥かれた者。

 四肢をバラバラに断たれた者。

 胸が切り開かれ、花でも生けたように肋骨が剥き出しになった者。

 何の薬を使ったのか、体が青く変色した者。


 無数の死体が無惨な姿で卓上に放置されている。


 犬が肉でも食い散らかしたみたいだ。怖毛が走る。誰が、誰がこんなことを。


 極限まで解体された死体たちはの一部には、抵抗の後がある。生きながら殺されたのか。何のために?


「……生き残るために?」


 僕の疑問は、だが、叫声によってかき消された。



「藍!?」


 踵を返すと、藍の足にしがみつく何かが眼球に飛び入る。

 僕は鉄パイプをかじるように持つと、脱兎の如く階段を駆け上がった。


 ちくしょうっ、ちくしょう!


「藍を離せ!」

「待って」

 武器を降り下ろす寸前、藍のか細い声が割り込んだ。

「なんでっ」


「大丈夫、この人は、もう、」

 わななく藍の喉に頭を冷やされる。落胆したようなその目線に倣うと、制止の理由は簡単に理解できた。


 血みどろの白衣、がさがさと乾いた体液を巻き散らす皮膚、膨張した筋肉と脂肪、這い回る蛆虫だけが歯のように白い。

 腐敗液を垂れ流しながら咳をつくそれは、死の淵にある人だった。


 まばらに生えた黒髪は長く、もしかして女性かもしれない。下半身は既に無い。

 顔のありとあらゆる場所から水分と泡を噴出させながら、藍の足に頬を寄せる。

 だらりとのびた紫色の舌は、スカートから露出した藍の太股をぺろぺろと舐めていた。

 まるで赤ん坊みたいに。



 この人は、死ぬのか。

 階下に広がる行為をしたのは、この人に違いない。医療従事者の印である白衣は、もうお世辞にも白とはいえない。

 自分のためか、他人のためなのか。14歳にメスをいれ、奇妙な薬剤を投与したこの人は、今、死のうとしている。

 それなのに、懸命にすがる。口を開けて、むしゃぶりつく。14歳という未知の恩恵に、必死であやかろうとする。


 ふと、僕が蹴り殺した子どもの感触を思い浮かべた。

 この人はあの子と同じだ。そして彼等と、僕は同じだ。


 生きたくてたまらないんだろう、死にたくなくてたまらないんだろう。

 藍は瀕死のその人に手を添えると、小さく僕の名前を呼んだ。呼応して僕は、鉄パイプを壁にたてかけると、藍の側に腰を下ろした。



「ねぇ、陸」

「なに」

「なんで、私たち生き残ってるんだろう」

 藍も、同じことを考えていたんだね。

「分からない。だけど、14歳で、僕たちだったんだ」


 14歳。たったそれだけで、全ては変わってしまった。未来は削り取られて、過去は色を失った。


「ただそれだけなんだ」


 恐怖と逃避の連続。疲れきった僕たちに残された、不思議と穏やかな気持ち。

 どうして憎しみがないのだろう。ウイルスや、変わってしまった人々への怒りは、どこに隠れてしまったのだろう。

「藍」

「なに?」


「もしさ、生き残ったら。そんでさ、僕たち以外にも生き残っていたら……」

「うん」

「国をつくろうよ」

「国?」


「うん、生き残った14歳で集まってさ。新しい国をつくろう」

「うん」

「みんなのお墓を建ててさ」

「花、植えたい」

「うん、花も植えて、家も建てよう、畑もつくってさ」


「お米たべたい」

「お腹いっぱい食えるよ」

「うん」

「ね、つくろう。……つくろうよ」


 白衣の人が、藍の足にもたれかかるように事切れている。繊細な風景画の一部になってしまったかのように、静謐が僕たちを覆っている。……僕は鉄パイプではなく、藍の手を握り締める。


 暗がりの向こう、窓の外には月夜に淡く輝く街が見えている。そしてガラスに反射して映る、僕たちの姿。僕たちが僕たちへ、じっと視線を返している。

 ふと、さっき遭遇した子どもの目を思い出す。焦点の合わない瞳で、僕たちを14歳と見定めたあの子は、僕たちのこの目を見たのだろうか。

 赤く充血しながらも、洗練された命が燃える瞳孔。

 僕たちは今、確かに。


 ……沸き上がる気持ちはとても温かくて、もしかしてこれが、希望というものかもしれないと思う。


 暫く佇んでいると、ふいに、強烈な光が差しこんできた。


 風を切り裂く機械音、巨大な影が素早く窓を横切る。間近で見たことはなかったが、その正体はすぐに分かった。

 ヘリだ。


「国民の皆さん、14歳の皆さん。悪夢は終りました!」


 音声の割れたアナウンスが、乱暴に響きわたる。

「ワクチンがようやく完成しました。もう大丈夫です。悪夢は終りました!」


「悪夢は終りました!」



 藍と支えあいながら外に出ると、状況はガラリと変わっていた。

 歓喜する人々で道路は溢れ、歓声がヘタクソな合唱のようにあがっている。みな、我先へと空に手を伸ばす。空には無数のヘリが旋回していた。

 機体に日本国旗を張り付けたヘリは、光を大地へと注ぐと、再びアナウンスを始める。


「みなさん落ち着いて下さい! 数はあります。パニックを押さえるため、感染者は病院側へ。14歳は反対側に回って下さい!」

 モーゼの一声のように、人々がふたつの群れを形成し始める。


「陸、見て。あんなに生き残ってる」

「うん、うん……!」

 14歳はほんの僅かだったが、確かに生き残っていた。熱い感激が胸を押し上げる。生きている、あんなにも生きている。


「行こう、藍」

「うん、陸」

 僕たちは光に照らされ輝く人々の群れへと、足を伸ばした。


 だが。

 急に体が浮遊した。声をあげる暇もなかった。


 猛烈な閃光が大地から吹き出した。僕たちは瀑布のような風に押されて、そのままコンクリートに打ち付けられる。


 雷激が摩擦しあうような轟き。続く光線の後、巨大な火柱が上空へと立ちのびた。瓦礫が散乱し、僕の脇をかすめる。


 どういうことだ。なにが起こったんだ。


 なんの前触れのなく訪れた事態に、人々がクモの子を散らしたように走り回る。その背中を追撃する、ヘリ。

 爆撃を投下したのは、ヘリなのか。


 僕はハッとして、14歳たちを探した。彼等はすぐに見付かった。一機だけ降下したヘリへと、引きづられていく。ヘリの周囲では、武装した者たちが、容赦なく感染者たちに発砲している。


 まるで野良犬の回収だ。保護ではない。政府は、感染者と14歳を裏切ったのだ。


 そこまで思いたち、僕は藍の手を握った。逃げるんだ。ここから逃げるんだ。

 膝に力をこめて立ち上がる。そしてすぐに、藍を引っ張った。


 けど。


 軽い。あまりにもが軽い。

 僕は予想だにしていなかった感触にバランスを崩した。嫌な予感がした。

 恐る恐る、藍に顔をむける

 ……そこには、藍の細腕だけがあった。



「藍!」


 爆撃は続く。熱風と暴風、眼球に喰らい付く閃きの中、探す。


「藍、藍、藍!」


 眼前で人々が玩具のように吹き飛ばされていく。

 逃げ惑う人を貫通する攻撃。

 硝煙の臭いと、人の肉が焦げる臭い。

 つんざめく響音の中、僕は藍の名を叫んだ。


「……ぃく……」

 かすれた返事。藍はすぐに見付かった。


「藍!」

 車の陰に隠れて、藍は仰向けになっていた。背を低めて近寄る。傍らに藍を目にした瞬間、絶望が爆発した。


 藍の体は、赤い穴だらけだった。

 コブシほどの大きさの弾孔から覗く藍の臓物は、違う生き物のように各々動き、夜を見上げている。


 陸ぅ、と、藍が呼んだ気がした。


 首を半分失った藍が、僕を見つめ返す。不思議そうな顔。少し困っているような顔。あの教室で見た、僕を穏やかに見守る表情。

 思わず僕は、藍の首筋に顔を埋めて、傷口に唇を当てた。


 流れないで。僕を置いて流れていかないで。


「藍……」

 腹に違和感を感じた。藍が何か伝えようとしてる。

 僕は顔を起こすと、腹部を撫でた。


 冷たく、固い感触。カランと、それは大地を叩いた。


 鉄パイプ。


 藍が千切れかけた腕で、僕に鉄パイプを差し出していた。すぐさま受けとると、藍は腕を落っことした。

 そしてそのまま、藍は目を閉じてしまった。


 藍、藍、藍。

 僕に生きろと言うのか。


 手足が震え、身体中が燃えるように熱い。

 電気でも走っているかのような感覚が、目を、舌を、喉を、肺を、腹を伝わってゆく。


「生きることと死ぬことは、一緒じゃないよ」

 藍が笑う。過去が抱きすくめる。生と死の違いも分からなかった僕を取り残してゆく。


「ねぇ藍、国をつくろうよ」

「国?」

「うん、生き残った14歳で集まってさ。新しい国をつくろう」

「うん」

「ね、つくろう。……つくろうよ」


 僕は藍の遺体の上に腕を置いてシーツを被せる。


 見渡せば戦場。どこまでも戦いが牙を向き、生者をあざけ笑っている。

 僕はその場で鉄パイプを掲げると、雄叫びをあげた。

 どこまでも聞こえろ。僕は逃げやしない。

 生き延びてやる。


 すぐに立ち上がり藍に背を向ける。そして僕は、光へと駆け出した。


 シューズの裏側、ガラスの破片の歯ぎしりを聞いた。




2006年の夏ホラー用に書いたやつです。たまに同じネタで長編を書きたくなります。

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