異変
リストバンドを拾い上げると奈園はガシガシと頭を掻いた。
「瀬田くんがここに来たのはまず間違いないだろう。リストバンドあるし。問題はその後どこに行ったか、だけど…」
「十中八九これに乗ったでしょうね」
混乱から立ち直った村君が目の前にある謎のエレベーターを指差す。モニターには相変わらず『277』と表示されている。
どう考えても───というほど考えることが多いわけでもないが、足取りを追う限りどうしてもこのエレベーターは避けては通れないようだ。二人はしばらく黙っていたが、やがて奈園が沈黙を破る。
「しゃーない、行ってみるか」
それを聞いた村君はギョッとした。
「は?まさかこれに乗るつもりですか?」
「何処に続いてんのか知らねぇけどこれの行き先が分からんことには捜しようがないだろ」
奈園は上りボタンを押そうとする。が、すんでのところで村君が腕を掴む。
「やめときましょう!何かは分かりませんが絶対にヤバいですって!」
「ヤバいって何が…」
奈園は言い返そうとしたが村君の真っ青な顔を見ると口を噤み、おとなしく手を引いた。
瀬田くんはこのエレベーターに乗った。恐らくそれは間違いない。しかし迂闊に近づくわけにもいかない。八方塞がりになった二人の間に再び沈黙が訪れる。
次に沈黙を破ったのは奈園のスマホの着信音だった。白瀬から電話だ。
「もしもし」
「やぁ快明、久しぶりだねぇ。さて、いきなり本題で悪いが、行方不明の瀬田くんが見つかったそうだよ」
「はぇぁ!?」
思わず素っ頓狂な声が出た。情報の呑み込みが終わらない奈園に、白瀬は構わず話し続ける。
「今さっき登戸くんのスマホに連絡が入ってね、商店街を捜し回ってた嵯峨くんとばったり遭遇したみたいなんだ。その行方不明だった瀬田くんって子と。今から公園で落ち合うって話になったそうだから、私ちょっと送ってくね。事務所は鍵かけとくから」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!商店街?なんでそんなとこにいるんだ。だってこのエレベーターに…」
考えがまとまらないまま奈園が話していると
ガコォン
遠くで音が鳴った。そしてそれはこのエレベーターから聞こえてきた。正確には天井の巻き上げ機の音が筒の中に響いてきたというべきだろう。それもはるか上の方から。
あり得ないことだった。外から見た時、このビルは階層表記通り九階分の高さしかなかった。なのに今の音の響き方は明らかにそれを超えていた。まるでスカイツリーの天望デッキ行きのエレベーターを地上一階から呼んだ時のように、遠くから響く音だった。
二人はモニターを見る。するとそこに表示されている数字は278、279と徐々に増えていく。
「嘘…だろ…」
まだ上の階があったのか、という驚きではない。このエレベーターは本物だ、しかもモニターの表示通りの階層がどういうわけだか存在している、そのことに驚いていた。
ゴゥンゴゥンという音と共に数字は増えていき、やがて『297』で止まった。次に
ドドォォン
と、重たい何かが乗り込んでくる音がした。
そして─────エレベーターは降りてきた。恐らく九階に向かって。何かが来る、降りてくる。逃げなければ。ここから離れなければ。しかし、足が竦む。二人は得体の知れないものへの恐怖から動けなくなっていた。
「お~いどうした~?」
こちらの事情など露知らず、白瀬が呑気な声で話しかけてくる。それを耳にした二人は金縛りが解けたように震えると、元来た通路を全速力で引き返した。
しかし、すぐに異変に気付く。通路が長い、長すぎる。先が見えないほどに。走っても走っても、最初の突き当たりに辿り着かない。
そのうち扉の開く音がした。先程降りてきたエレベーターが九階に到着したのだ。
背後から、何か異様な雰囲気を感じる。背中に鳥肌が立つ。振り向く余裕もない中ただひたすら走る。
「あっ!」
「うわぁ!」
焦りからか足がもつれた奈園が盛大に転ぶ。後ろを走っていた村君は転んだ奈園に蹴躓いた。
「いってぇ~」
打ち傷をさすりながら辺りを見回すと、そこは九階の突き当たりだった。
尋常でない様子の二人に金髪で大柄な男が声をかけてきた。
「大丈夫かい?あんちゃん」
「え?えぇ、なんとか…」
奈園はどうにか平静を装おうとしたが、大の大人が二人揃って、息も絶え絶えで床に突っ伏しているのはどう見ても普通の状態ではない。男は不審そうな顔で尋ねた。
「なんかあったのかい?」
「っ!そうだ、さっきのエレベーターは!?」
奈園は慌てて振り返る。が、後ろにエレベーターは見当たらない。それどころかたった今走ってきたはずの長い通路すら見当たらない。通路はせいぜい十メートル程度、その先はただの壁だ。
ついさっきまでの自身の体験と目の前の光景が一致せず混乱していると
「この階層にエレベーターはないよ」
と告げられる。
奈園は『そんなはずはっ…!』という言葉をすんでのところで呑み込んだ。今この状況で異常なのは間違いなく自分たちだ。仮にここで先程の出来事を話したところで、頭のおかしい奴と思われて終わりだろう。余計な波風を立てないよう誤魔化すことにした。
「あ、あれ~?すいません、どうも僕らまだ酔ってるみたいで、ハハハ…」
「まだ昼過ぎなんだから、はっちゃけるのもほどほどにな?」
軽く注意を促して男は立ち去った。どうやらここ九階で奇怪な行動をとる酔っ払いは珍しくないようだ。
「一先ず事務所戻るぞ」
全力疾走でぐったりしている村君を抱えながら奈園は雑居ビルを後にした。