真夜中山中大丈夫
真夜中山中大丈夫
大丈夫大丈夫。
勇太を埋めることになった。勇太は私の幼なじみで、優しいけれど少し気の弱い所のある男の子だ。幼稚園の頃、私と勇太は家が隣同士で、自然とよく遊ぶようになった。小学校から中学校までつつがなくその関係は続き、私たちも、周囲の人々も、それを当たり前に思っていた。
私たちが高校生になってすぐ、勇太のクラスにききらが転校してきた。ききらは大きな目をした長い髪の女の子で、美人が転校してきたということでクラス中の男子が色めき立っているのが、違うクラスの私にまでわかるほどだった。もっとも、彼女の性格が広く知れてからはそういうこともなくなった。
ききらは感情の起伏が激しく、すぐ人を殴る子だった。そしてその被害に一番あっていたのは勇太だった。勇太はどうやら転校してすぐの何もわからないききらに色々と世話を焼いていたらしいのだが、そのせいで彼女の厄介な部分まで押しつけられる立場になってしまったようだ。
「嫌なら嫌だって言わなきゃ駄目だよ」と私は勇太に言ったのだけれど、勇太は「うん、まあ」と気弱な笑みを浮かべて曖昧な返事をするばかりだった。
私はたいそう憤慨した。これは正さなくてはならないと思った。勇太は私の大切な幼なじみなのだ。私はききらと会うことにした。
実際に目の前にすると、ききらは確かに美人だった。そして、それ以上に、瞳の奥でいつも何かに怯えているような少女だった。
待ち合わせの時間より20分早く喫茶店の席に腰かけていたききらは、会うなり私をじろりと大きな瞳で睨みつけて「何よ」と低く唸った。
攻撃的な声音の裏に、やはり怯えるような響きがあって、私が彼女に言おうと思っていた言葉はするすると胸から滑り落ちていった。
「私と友達にならない?」
思わず口から出たのはそんな言葉で、非難を覚悟していただろうききらは目を丸くしていたけれど、一番驚いたのは私だった。
それから、私たちは三人でいることが多くなった。勇太が不器用なききらをかまい、ききらが勇太を鬱陶しがり、私はそんなききらをなだめる。ききらは誰に対しても高圧的な態度を取り続けたが、かっとなって手を上げるようなことは少なくなっていった。
彼女はきっと不安だったのだろうと、私は思った。勇太が臆病さから他人に気を使うように、私が恐怖から目をそむけて明るい振りをするように、ききらは不安から暴力をふるう。
お父さんもそうだったんだろうか、と私は少しだけ思った。
高二の秋、勇太とききらが付き合うことになった。そのころにはききらは大分落ち着いた性格になっていて、いきなり激昂するようなこともなくなっていた。勇太に、ききらから告白された、と打ち明けられて、私はたいそう驚いた。
自分で言うのもなんだけれど、私たちはそういう関係ではないのではないかと、私はのんきにも思っていたのだった。男女の関係にならず三人でずっと友達でいられるのではないかと。実際にはききらは勇太を好きになっていて、私よりもちゃんとそのことに向き合っていた。
「どうしたらいいと思う」と、勇太は私の顔色をうかがうように見上げた。
「勇太の好きにすれば」
私が素っ気なく言うと、勇太はショックを受けたような顔をした。私は内心、勇太の態度に腹が立っていた。ききらが勇気を出してひとりで告白したのだから、勇太だってひとりで答えを出すべきだと思った。
勇太とききらが付き合うことになっても、私たちは三人でいることが多かった。いきなり二人きりになると間が持たないからと、二人に引き留められるのだ。どうして私がそこまで世話を焼かないといけないんだ、と内心呆れながらも私は二人を見守った。二人は徐々によく居るような恋人同士になっていった。
私はというと、嫉妬だとか羨みだとか、そういうのは驚くほど無かった。むしろ勇太に対して申し訳なくなるくらいに、あっさりと二人の関係を受け入れた。
思うに、勇太からききらの告白について相談を持ちかけられたあの時が私にとっての契機だった。
勇太は優柔不断な所があり、迷った時は私に相談して、私は大丈夫だよと優しく彼の背中を押してあげるのがいつものことだった。あの時、勇太をそれとなく誘導してききらの告白を断らせるのはおそらく簡単なことだった。けど私はあの一瞬、そんな自分や勇太との関係性に、ひどく嫌気がさしたのだ。
勇太は私に突き放されて、ひとりでききらを選んだ。ききらは人を殴らなくなり勇太と恋仲になった。私はこれが私たちにできる最善の選択だったと思い、ひとりで納得した。やはり少し、寂しくはなったけれど。
大学生になり、勇太は一人暮らしを始めた。ききらは一緒に住んでいるらしかった。私はというと二人とは別の大学を選び、少し距離を置いた。会う機会は減ったけれど、ききらとは連絡を取り合っていた。(勇太はあまりまめに連絡をするほうではなかった。)
あの二人そろそろ結婚するかも、とお母さんに言うと、「子供ができるほうが先かもね」と返されて私は苦笑いした。
大学一年目がそろそろ終わろうかという頃、深夜に、ききらからの電話が鳴った。電話越しでもわかるほど、彼女の声は震えていた。
「あのね」
「うん」
「勇太が、動かないの」
山へ向かう途中、見つけたコンビニで、私はバニラアイスとミルクティーを買った。ききらは何もいらないと言っていたけど、水分くらいは摂らせた方がいいかもしれない。ジュースの棚の前でしばらく悩み、彼女が人工甘味料の甘みを苦手としていたことをすんでのところで思いだした。
「飲む?」
車に戻り、ききらにお茶を手渡す。ききらは胡乱な目つきでお茶を受け取ったが、飲もうとはしなかった。
私はアイスクリームを食べて糖分を補給しながら、この後のことと、トランクの中の勇太のことを思う。勇太の分も何か買ってあげればよかっただろうか、とぼんやり考えた。
「勇太が動かないの」
電話でききらから住所を聞いて、一度も訪れたことのない勇太の部屋に駆け付けた私の顔を見て、ききらは繰り返した。
「全然動かないの。死んじゃったのかもしれない」
勇太はワンルームの床に力なく横たわっていた。頭から血が出て床を汚している。そのすぐ傍の、背の低い白い本棚の角に、同じような赤い染みがこびりついていた。
「今朝、喧嘩になって。それで、私、私、急に、我慢できなくなって昔みたいに」
殴ったの、と、血の気の失せた顔で、ききらがつぶやく。
「今朝?」
私はめまいを覚えた。ほぼ丸一日、ききらは身動きしなくなった勇太を前に何もせず、何もできずにいたのだ。
私が確認のために勇太に近づくと、勇太の身体からはすでに死体の臭いがしていた。
「ききら。勇太、もう死んでるよ」
ききらは私が来てからずっと部屋の隅で膝を抱え、すんすんと鼻を鳴らしていた。
「ねえどうする、ききら。警察、行く?」
私が聞くと、ききらは無言で首を振った。
「じゃあどうするの」
私は困り果ててため息をつく。ききらはすっかり幼児退行を起こしていてらちがあかない。とうとう本格的に泣き出した。
「ああもう」
私はききらを落ち着かせるために頭を抱いて、「大丈夫だよ」とつぶやく。
その時、私は何か、ひどく懐かしいような心地がした。深海の底から水面に浮かび上がって呼吸をしたような気分になった。
「大丈夫だよ」と、誰かに呼び掛けるのは久しぶりだった。自分がそれをずっと求めていたのだと、私は理解する。
「大丈夫だよ」
もう一度声に出してつぶやく。
「埋めようか」
泣きじゃくるききらを抱きしめて、私は言った。腕の中でききらがこちらを見上げるのを感じる。
「一緒に埋めよう」
涙でぐしゃぐしゃになったききらの泣き顔に、優しく、笑いかける。
大丈夫だよ。
私はずっと誰かに、そう言ってあげたかった。
私の乗ってきた車に、ききらと二人で寝袋に包んだ勇太を積み込んだ。出来る限り静かに車を走らせる。私が目指していたのはお母さんと昔に行ったあの山だった。子供のころに一度だけ行った場所だったけれど、地名も行き方もはっきりと思いだせた。
コンビニの駐車場でアイスを食べながら、私は助手席のききらを見た。ききらは手渡したお茶を飲みもせず、声も出さずにはらはらと泣いている。たぶん勇太のことを考えているのだろう。あるいは、まったく私の想像もつかないことで泣いているのかもしれない。ここに来るまで彼女は一言も話さなかった。
私は狭いトランクの中に押し込められた勇太のことを考えてみた。悲しくなるかと思ったけれど、何の感情も湧いてこなかった。臭いが残るとしたら、共用でこの車を使っているお母さんには申し訳ないな、と思った。まあお母さんもお父さんを乗せたりするのだから、その辺りはお互い様だ。
「そろそろ行こうか」
アイスを食べ終えた私が声をかけると、ききらはびくりと肩を震わせて、怯えたような目つきでこちらを見た。その姿にかつての気丈さはどこにもない。
「大丈夫だよ」
つとめて何でもないような調子で、私は笑いかける。もちろん、何ひとつとして大丈夫な事などなかったけれど。
真夜中の山道を車が登っていく。頭上に輝く月は半分よりも少し多いくらいの形で、風流に欠ける私には、どうにも中途半端だなあ、という感想しか抱けなかった。あんな形の月にもそれなりに雅な呼び名があるのかしらん。車はずんずんと山を登っていく。
山の中腹の薮中に隠すようにして車を止める。目印は他に何もないけれど、この少し広くなったような道も幼い記憶にあった。流石に記憶違いかもしれないけれど。
ききらと一緒に、トランクから勇太を出して運ぶ。道を外れ藪の中を進む。
「ちょっと、待って、明美」
後ろから聞こえてくる、息も絶え絶えのききらの訴えに、私は足を止めた。少しペースが速かったみたいだ。
「こんな真っ暗で、なんでそんな、ずんずん歩けるの」
「よく見れば足元見えるよ」
「うっそでしょ……」
汗をぬぐいながら、ききらがうめくように言う。
それからききらは少し饒舌になった。私もなんとなく高校時代に戻ったような気分で彼女と他愛のない話をした。どんな作業であれ体を動かしている間は、よけいなことを考えずに済む。
「着いた」
そこは、それまで進んできた藪の中とあまり変わらない場所で、違いと言えば少し地面が平らになっている程度だった。私が立ち止まったのでききらも止まったけれど、彼女は疑問そうにあたりを見回している。
「ここでいいの?」
「うん」
迷いなく私はうなずいた。
私が車に戻り、スコップを持ってくると、その場に残していったききらが蒼白な顔でうずくまっていた。
「声が……」
寝袋を見ながら、ききらが震えて言う。
寝袋を開いて確認する。勇太の顔は土気色で、死斑が浮かんでいる。私はききらに向かって、無言で首を振った。
「じゃあ、他に誰かいるのかも。確かに聞こえたの」
「なんて言ってたの?」
私が聞くと、ききらは口をつぐんだ。よく聞こえなかったとか意味のない声だったとか、そういう表情ではなさそうだった。
「とにかく、最後までやろうか」
私は地面にスコップを突き立てた。
「いつ用意したの?」
「ん?」
穴を掘る私を傍で見ながら、ききらがぽつりと聞いてくる。私が聞き返すと、彼女は私のスコップを指さした。
「ああ、これ。ずっと車に積んであったの。うち物置き小さいから」
「スコップなんて何に使ったの」
「穴掘り」
ざく、ざく、と、私は穴を掘っていく。
「私が、小学二年生の時にね」
ざく、ざく、と穴を掘りながら、私は昔のことを話した。
「お父さんが家に来たの」
「家に来た、って?」
ざく、ざく。
「うん、それまではお母さんと私だけだったんだけどね。急に来たの」
ざく、ざく。
ざく、ざく。
再婚だったのか復縁だったのか、私にはわからなかった。二人とも何も言わなかったから。お父さんはさ、私には優しかったんだけどね。ときどきお母さんのこと殴ってた。私がやめてって言ってからは、私の見てる時には殴らなくなったけど。
それでそんな生活が、三ヶ月くらいかな、それくらい続いてね。夏休みが終わって最初の土曜日の夜に、お母さんが。
お母さんが台所で水を出しててね。深夜だよ。私はまたお父さんに殴られて、傷を冷やしてるのかなって思った。あのお父さんはいやだな、別れてほしいな。私はそう思って、
それで起きて、二人の寝てる部屋を見に行ったんだ。お母さんは洗面器からタオルを出して、畳を拭いてた。お父さんは布団の上に仰向けになってて、顔の真ん中に工具のドライバーが突き刺さってた。お父さんが大事にしてた高いドライバー。横には金槌が置かれてた。
私はねえ、なんだか、ああそうだなあって、すごく納得する気分だったよ。お母さんに共感するとかじゃなくてただ、そうだなあって。
ねえ、夜中にさ。ぐっすり寝てる時に、ドライバーを顔に向けられて、思いっきり金槌で打ち込まれるんだよ。人を殴るってさ、たぶんそういうことなんだよ。
私ね、お母さんに声かけたの。何か手伝おうかって。お母さんは私が起きてるのわかってたみたいに、お父さん運ぶから一緒に持ってねって。それで、二人でここに来たの。この山に来たの。
今の私みたいに、お母さんが穴を掘るのを、私は横でじっと見てた。うん、そう、ちょうど今のききらみたいに。
ざく、ざく。
穴はだいぶ深くなった。本当に掘り返されないくらいにまでは、きっともっと深くしなくてはいけないのだろうけれど。
私はききらの手を借りて穴をよじ登った。土と野草の臭いは、なぜか穴の外に出てから強く感じた。息を整えていると、ききらの視線を感じた。
「明美は、どうして私に怒らないの」
ききらが大きな瞳をまっすぐ向けて、絞り出すように言った。「怒る?」と私は聞き返す。ききらは驚いたように眼を見開いた。
「勇太のこと、好きだったんでしょう?」
「好きだったのかなぁ」
他人事のように私はぼやいた。
「好きでいてほしかったのかもね」
二人で穴の中に、勇太を落とした。穴を見下ろしながら、ききらはまた、声もなく泣いた。私は震えるききらを抱き寄せる。ききらが私の服をぎゅっとつかんだ。
「今、また声が……聞こえたでしょ?」
私は首を振る。視界の端に赤いものが見えた。
穴の底にいつのまにか、真っ赤に濡れた肉片がみっしりと詰まっていた。肉片はヒルのようにうごめき、伸び縮みして、長く伸びたものは穴の淵にまで届きそうになっている。勇太は生きた肉片の海の中に埋もれてしまっていた。
ききらが悲鳴を上げた。溺れたような必死さで私にしがみついてくる。
月明かりの中で赤い肉が音もなくうねりながら勇太を呑み込んでいく。肉の海の中に黒い高そうなドライバーの取っ手が見えた。ききらは嫌だ嫌だ、ごめんなさいごめんなさいと誰かに謝りながら私にしがみつく。私は赤い肉から目を逸らすことができないまま、大丈夫だよとききらにささやく。
このぬるく湿った場所に私はまた帰ってきてしまった。私はききらの小さな体を頭を抱きしめて自分に言い聞かせるように大丈夫大丈夫私がついてるからね大丈夫だからねと繰り返す。ききらは自分にしか聞こえない声に責め立てられながら子供のように泣きじゃくる。赤い肉は勇太を呑み込んでいく。
大丈夫。大丈夫。
(おわり)