32.前に進む勇気(2)
美雪が服を着終えると、勇也は美雪をソファに座らせた。
美雪は緩んでいたリボンを解いて、改めてポニーテイルに結び直す。
髪が束ねられて見えるうなじがとても色っぽくて魅力的だ。
「西山先輩、そして神代さん、ありがとう。ふたりのおかげで俺は勇気を持てたんだ。だから、ふたりの願いも叶えてあげたい」
勇也は、そう独り言を呟いた。
「……?」
美雪は不思議そうな顔をしている。
「美雪。今、家にお母さんは居るかい?」
「えっ……! まさか、私達のことを母さんに話すの? この時間なら、今日はもうパートの仕事を終えて家に居ると思うけど」
美雪は顔を赤らめる。
それを聞いて、勇也もはっとした。
まだふたりが付き合っていることも話していないのに、結婚の挨拶をしに行くとでも思っているのだろうか。
――だが、今は唯達との約束が優先だ。
「それもあるけど、もっと大切な話がお母さんにあるんだ。一緒に行ってくれるかい?」
「……う、うん。分かった」
美雪は何だろって顔をしている。
勇也は美雪を連れて、彼女の家へと向かった。
たった五百メートルの道のりなのに、今日は更に長く感じた。
玄関に来ると、勇也は呼吸を整えてからチャイムを押した。
「ゆーちゃん、わざわざそんなことしなくても……」
「いや、そういう訳には行かないだろ」
すると、「は〜い」という声と共に美雪の母親が、擦りガラスの引き戸を開けて出て来た。
年齢は三十代中盤くらいか。
美雪に似て、背の低い可愛らしい女性だった。
少し弱々しい印象を受ける。
「あら、美雪じゃない。……その方は?」
母親は、美雪の隣に居る勇也のことを見る。
美雪が何と説明しようかと悩んでいると、勇也が先に口を開いた。
「俺は、美雪さんとお付き合いしている木下勇也と言います。今日はお話があって来ました」
勇也はもう何も怖くなかった。
落ち込んでいた時、あの壇ノ浦先生にも臆せず向き合える図太い神経は、今でも消えていなかった。
こうなれば、もう大丈夫だった。
美雪の母親は驚いた顔をしている。
「本当なの、美雪?」
美雪は恥ずかしそうに、黙ったまま、うんと頷いた。
すると、母親は微笑んだ。
「そう……、美雪にもついに大切な人が出来たのね。さあ、お上がりなさい」
「はい、ありがとうございます」
勇也は内心ほっとしていた。
当然、怒られるものだと思っていたからだ。
この時だけは美雪の父親が家に居なくて良かったと思った。
もし父親が居たら殴り飛ばされていたかもしれない。
勇也は、狭い台所を抜けると、障子一枚で隔てられた畳の部屋に通された。
外観に劣らない位に室内もだいぶ古めかしく、隙間風が吹いていて、少し寒かった。
勇也が母親に向かい合うようにして座ると、美雪が座布団とお茶を持って来てくれた。
こうして座っていると、本当に結婚の許しでも求めに来たような気分になった。
妙に緊張してくる。
実際、美雪の方はそう考えていたかもしれない。
障子の陰から、ポニーテイルだけがぴょこぴょことはみ出して様子を窺っていた。
「それで。改まって、話と言うのは?」
と、話を切り出したのは、美雪の母親の方だった。
「実は、今日は友達に頼まれて、ここに来たんです」
「えっ、どういうことです?」
「……裕子と言う名前に覚えがありませんか?」
途端に、美雪の母親の顔色が変わった。
「……知っているんですね?」
美雪の母親は俯いていたが、暫くするとゆっくりと頷いた。
美雪の方は拍子抜けしたらしく、障子の陰から現れた。
「な〜んだ、私達の話じゃなかったのか……。それより、裕子って誰なの?」
すると、母親の様子がおかしいことに気付いた。少し狼狽している。
「どうしたの、母さん?」
「美雪……、裕子さんと言うのは、君のお姉さんなんだ」
と、母親の代わりに勇也が答える。
「えっ!?」
美雪は唖然とした顔をした。
「何、訳を分からないこと言ってるの、ゆーちゃん? 私は一人っ子だよ。……ねえ、母さん?」
「まさか裕子が生きているなんて……」
美雪の顔色が変わる。
「えっ、まさか本当の話なの……!?」
美雪の言葉に、母親はゆっくりと頷いた。
「そんなの聞いたことないよ! 私にお姉ちゃんが居るなんて!」
「美雪、あなたが産まれる二年前に赤ちゃんが産まれたのよ。それが裕子だった」
「……えっ……」
「でもその頃は、前にも話したことがあると思うけど、とても貧しくて各地を転々としていたの。私は生まれた裕子を育てようと努力したわ。でも駄目だった。裕子を養えるだけのお金がなかったの。そんな状況の中で、お父さんは、私が出掛けている間に裕子をどこかに捨ててしまった」
「…………」
「……許せなかった。ペットでも捨てるように裕子を捨てたあの人が……。警察に通報も出来ず、私は必死で裕子を捜したわ。でも、見つからなかった。その後、お父さんに連れられて、私は涙を飲んでその地を離れたの……」
「…………」
美雪は黙ったまま、何も言わなかった。
勇也は美雪の母親に頭を下げて頼む。
「お願いです。これから裕子さんに会いに行ってくれませんか?」
「えっ、あの子が近くに来ているんですか!?」
「彼女は今、谷川市内に住んでいます」
「まさか……!」
「本当です。裕子さんの家は加佐未の『下町』にあります」
「そんな近くに住んでいたなんて!!」
母親は驚きを隠せない。
確かにそうだろう。
ここから随分離れた土地で捨てられた裕子と、その後も各地を転々とし、やっと定住した美雪一家が同じ街に住んでいたのだ。
奇跡としか言いようがない。
「裕子さんに会って貰えますね?」
「……はい、勿論です」
すると、美雪の母親は、慌てて出掛ける支度をし始めた。一刻も早く裕子に会いたいのだろう。
勇也は、美雪が俯いていることに気付いた。
ゆっくりと美雪の元に歩み寄る。
そして美雪を抱き締めた。
「美雪、ショックなのは分かる。でもこれは事実なんだ」
「でも……」
「考えてみろよ。裕子さんがこの家に来て、一緒に働いて貰えば、この家の生活もずっと楽になるはずだ。いや、きっとなる! だから、一緒に行こう。すべてを解決させる為に……」
勇也は、安心させるように美雪の頭を優しく撫でる。
「……ねえ、ゆーちゃん」
「ん?」
「引っ越しの前に、クリスマスパーティーをしよ? あのいつものゲーセンで……」
と、美雪は上目遣いをして、勇也にお願いした。
「分かった。勿論だよ」
勇也は嬉しかった。
美雪がパーティーを開いてくれる。
しかし、その前に終わらせなければならないことがある。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
加佐未北駅で、勇也は、美雪とその母親に合流した。
もう陽が傾いて、夕方になっていた。
勇也は、川田のママチャリでここまで戻って来たので、電車で来た美雪達を待たせる形となってしまった。
「ごめん、待たせちゃって……」
「別に気にしないで大丈夫だよ。私達も今着いた所だから」
「あら、美雪。三十分は待っていたじゃない」
「ち、違うの! 今着いたの!!」
と、美雪は慌てて否定する。
バレバレな嘘だったが、勇也は美雪の心遣いが嬉しかった。
「おーい、勇也くーん!」
勇也が振り返ると、唯と純が手を振っているのが見えた。
「あ、来た来た」
勇也も手を振り返す。
美雪は、唯を見て驚く。
「どうして神代先輩が!!」
と、警戒心全開である。
「お待たせ! 勇也くん、広田さん」
勇也は加佐未の近くに降りて来た所で、唯の家に連絡しておいたのだ。
唯は勇也の顔を見ると、ウインクをした。
勇也と美雪が仲直りしたことをその目で確かめたからだ。
すると、美雪が怒り出す。
「ちょっと先輩! ゆーちゃんに色目を使わないでください!」
その言葉を聞いて、唯は吹き出す。
「ふふっ」
「何がおかしいんですか! それにどうしてここに!?」
想定外に美雪がヒートアップしたのを見て、勇也は慌ててなだめに入る。
「美雪、落ち着いてくれ。実は裕子さんと暮らしていたのが、神代さんの幼馴染みの西山先輩なんだ」
「えっ!?」
純が三人の前に出て来る。
「はじめまして、わては西山純というもんや。……って、君、ほんま裕子に似とるなあ」
純は美雪を色々な角度からまじまじと見る。
ゲシッ!!
勇也と唯のケリが同時に入った。
「な、何すんねん! 木下! 唯!」
「じゅーんー、今度はこの子に手を出す気?」
「あ、アホ言うな! それに何で木下まで蹴るんや!」
「美雪は俺のものだ! ちょっかい出すな!!」
その瞬間、勇也は自分で言った言葉に驚き、真っ赤になってしまった。
それを聞いた美雪も耳まで赤くしている。
「よかったね、広田さん。こんないい人に巡り会えて……」
と、唯は嬉しそうに微笑む。
「こ、神代先輩……」
美雪も、そんな唯の顔を見て、ようやく警戒を緩めた。
暫く純は笑っていたが、突然表情をガラリと変えると、改めて美雪の母親の前に立った。
「はじめまして、西山純と言います。わてが今、裕子と一緒に住んどります」
「……あなたが裕子を守ってくださったんですね。ありがとうございます。大変だったでしょ、私のことを見つけるの……」
「いや、そんな褒められるようなことはしてません」
「それより、裕子はそんなに美雪に似ているんですか?」
「うーん、うり二つと言う訳やありませんが、えらい美雪さんとは雰囲気が似てます。違うのは胸の大きさかな」
純は美雪の胸を見ると、
「裕子はメチャメチャ巨乳なんですよ」
その直後、唯のケリが入ったことは言うまでもない。
「さ、さあ、気を取り直して裕子のアパートへ行こうや!」
唯にボコボコにされた純を先頭に、五人は『下町』に向かって歩き出した。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
ピンポ――――ン!!
純は、裕子の部屋のチャイムを鳴らした。
ゆっくりとドアが開く。
「あ、純ちゃん。昨日はどうして帰って来なかったの? 私、心配したんだから――――あっ!!」
裕子は、純の後ろに唯が居ることに気付いた。
急に顔が険しくなる。
「ちょっと、何であんたが純ちゃんと一緒に居るの!?」
裕子は、唯に掴み掛かろうとする。
が、純は裕子をなだめる。
「落ち着け、裕子」
「だって……」
この辺りの、早とちりしたり、独占欲が強そうな部分は、少し美雪に重なる点があるような気がした。
「唯はついでに来ただけや。それより、裕子」
「えっ?」
「これからお前に会って貰いたい人がおるんや」
「誰よ。もしかしてこの女とか言うんじゃないでしょうね?」
「ちゃう。こちらの人達や」
純はドアを大きく開いた。
すると、その陰から、勇也と美雪、そして彼女の母親が現れた。
「この人達は?」
裕子は、怪訝そうに美雪とその母親を見た。
何か違和感を感じた。
「木下。お前は唯を連れて、ちょっと下で待っててくれんか?」
「分かった。さあ、神代さん、行こう」
「うん」
勇也は唯を連れて、一階に向かう階段を降りて行った。
その間、唯は何度も何度も純の方を振り返った。
本当に心配だったのだろう。
「裕子、中に入れてくれんか?」
「……わ、分かったわ」
裕子は純達三人を、家の中に迎え入れた。
裕子はその後も、ずっと美雪達のことが気になって仕方がなかった。
「純ちゃん……、この人達は一体……?」
裕子は、不安そうな表情でふたりを見つめる。
「実はな、この人がお前の本当のオカンなんや」
「――――えっ!?」
裕子は驚いて、美雪の母親を見た。
何とも言えない気持ちになる。
母親はゆっくりと裕子の元に歩み寄った。
「ああ、裕子、こんなに大きくなって……! もう会えないかと思っていたのに……!」
母親は大粒の涙を零して裕子を抱き締めた。
そして美雪も話しかける。
「あなたが……、私のお姉ちゃんなの……?」
裕子は美雪を見た。
確かに自分に雰囲気が似ている。
何だか数年前の自分を見ているようだった。
裕子の瞳から涙が溢れ落ちる。
「い、今更ノコノコと出て来て……、何年私のことを放っておいたと思っているの!?」
「裕子、この人はお前を捨てた訳やないんや。オトンが、生活が苦しいからって勝手に……。でも、そのオトンはもう家を出て行ってしもうた」
「だ、だからって……! そんなのずるいよ……」
裕子は泣き崩れた。
「裕子、ずっと独りぼっちにしてごめんね。でも、今日からは私と美雪が一緒よ。必ず私があなたを守るから」
すると、裕子は母親に泣きついた。
母親は優しく裕子の頭を撫でてやった。
裕子は今日、初めて母親の温もりを知ったのだ。
暫くして、純は立ち上がった。
「……裕子、もうわてがついとらんでも平気やな? こんなええ家族がおるんやから」
「純ちゃん……」
「お前は誰かに頼って生きたかったんやろ? これからはオカンに、家族に頼ってもええんや。これ程、頼りがいのある奴はおらんで」
「……あの子が好きなのね」
「ああ。わてはずっと唯が好きやった。幼い頃からあいつだけを見て来たんや」
「かなわないな、あの子には……」
「裕子、分かってくれたんか」
「……ほんとは最初から分かっていたわ。でも、独りになるのが怖かった。だから……」
「おおきに、分かってくれて」
すると、裕子は微笑んだ。
「純ちゃん。私、頑張るね。そして絶対に純ちゃんみたいな、いい人を見つけるんだ」
「裕子……」
純は裕子の顔を見ていられなくなり、後ろを向いてしまった。
「広田さん。木下の奴が首を長うして待っとると思うで。そろそろ行こか」
「はい」
「今度、私の家に遊びに来てね」
「ああ、絶対に会いに行くからな、裕子」
純は、そのまま振り返らずに、外に出て行った。
アパートの前では、案の定、勇也と唯が不安そうな顔をしながら待っていた。
「あっ、純!!」
唯は、純に気付くや否や、飛び付いた。
「ど、どないしたんや、そないな顔して……?」
「だって、不安で不安でたまらなかったんだもん」
「おいおい、心配すんなや。わては唯一筋やで」
「どーだか」
純と唯がじゃれ合っていると、美雪と合流した勇也が早速帰ろうとしていた。
「木下、もう帰ってまうんか? もうちょい話でも……」
「すいません。俺は美雪との時間を大切にしたいんです」
「そうか、木下。お前は、もうすぐ……」
「勇也くん!」
唯が、勇也を呼び止めた。
勇也は振り返ると、唯のことを見た。
唯は、目に涙を溜めていた。
「今日は本当にありがとう! ……そして、これまで本当にゴメンね。あたしがずっと勇也くんの側に居るって言ったのに、約束破っちゃったね。……たくさん勇也くんのこと、傷付けちゃった」
「もういいよ。結果的に、お互い何が大切なのかが分かったんだし」
唯は、勇也の胸に飛び込んだ。
「勇也くん……、あたし、勇也くんのこと、大好きだったよ」
それは唯の正直な気持ちだった。
純のことを大事に思っているのに何を言っているのだと思われるかもしれないが、その言葉に嘘は無かった。
「最後まで言えなかったけど……、俺も君のことを特別に思っていたよ、神代さん」
勇也は、唯の頭にポンポンと手を置くと、ゆっくりと彼女から離れた。
以前のようにドギマギしたり、頭を撫でられている勇也は、そこには居なかった。
少し自信を持って、ひと回り成長した勇也が居た。
そして、くるりと反対を向いた。
「……それじゃ、さよなら。神代さん」
「……さよなら、勇也くん」
そう言うと、勇也は美雪と手を繋いで帰って行った。
今回で第三編「転」は終わりになります。
唯と離れて美雪と結ばれた勇也。
谷川市からの別れの時が近付きます。
エピローグ含めてあと三話となる第四編「結」を明日よりお楽しみくださいませ。




