玖.灰色の掌
≪灰色の掌≫
***
――数年後。
「蛇の化け物のいるクニ」は、いつしか「蛇の守り神のいるクニ」になった。
まだ山の社で暮らしている那蛇叉であったが、最近では集落まで降りていくようになっていた。ときどきお供えものと称して、畑で採れた野菜などを持ってきてくれる人間も増えてきた。
それもこれもすべて……最後の“蛇遣い”であり、初代“蛇守り”である少女のお陰だろう。彼女の粘り強い説得や、誠意のある態度は、人々から徐々に恐れをなくしていったのだ。
彼女は“蛇遣い”を廃止し、代わりに“蛇守り”を名乗り出したのだった。
「初游、もう行くのか」
数年前、久々に再会したときよりもずっと大人びた妹を見て、彼は声をかけた。彼女はやさしく笑う。
「ええ。ここから社までは、結構かかるのよ」
「だが、別にいいだろ。明日の朝に発てばいい。今夜はここで過ごしたって罰は当たるまい」
引き止める兄を見やり、初游はおかしそうに笑って、つかまれた腕をほどく。兄はやや傷ついた表情になり、それを隠すように顔をしかめて見せた。
「親父も、おまえがなかなか山から降りてこないから寂しがっているし……」
「あら、ちがうわ。さっさと孫の顔が見たいのよ。兄さま、せっかくのかわいらしいお嫁さんをもらったのに、恥ずかしくて会話もできないなんて、お父様も悲しむわ」
からかうように言ってやると、兄はややバツの悪そうに苦笑する。
それでも、まだ妹を今夜こそは行かせないとばかりに食い下がるのだ。初游はとうとう、奥の手を使うはめになった。
「兄さま。あんまりしつこいと、お婆様に兄さまの奥手ぶりを教えてしまいますよ?」
「な、なにを。初游……」
初游の言葉に、とうとう兄は詰まった。しばらく口をもごもごさせたあとで、彼は言い訳の最終段階を口にする。
「今宵は、宴を開くのに……」
「あたしのことは、気にしないで。山の社から、見えるから。少なくとも、彼は目がいいのよ」
にっこりと言う妹を見て、兄はついに肩をがっくりと下ろした。
妹が強情で一途なのは今にはじまったことではないのだ。あの岩のように頑固で有名な祖母を説得し、蛇を自由にしたのは、目の前にいる健気な妹だということを、兄は今でも不思議な気持ちで思うのだった。
「ああ、わかった。さっさと行きなさい。ただし、また定期的に顔を見せておくれ」
「わかったわ。ごめんね、兄さま」
手を振る兄に、初游は晴れやかな笑顔のまま振り返る。
「でもあたし、やっぱり“蛇守り”なの」
***
茶色い髪をなびかせて駆けてくる少女を見ながら、彼は幸せの余韻に浸っていた。
まだ幼いころ、よく夕日をながめながら、ぼんやりと自分の見えない影をつくっていたことを思い出す。蛇に憑かれた人間に影はなく、彼は子供のころから自分のひとりぼっちの影を想像していた。
(ちょうどこんな、燃えるような夕焼けだったな)
そのとき彼が頭に浮かべた影は、たったひとつだった。
ぽつりと立ち尽くす、ひとりぼっちの影法師……
「なにしているの」
にこっと笑う、彼女の顔。
那蛇叉は高鳴る胸をおさえてくすぶる。
できた影に目を落とす。
本物の、影。
(今は、ちがうのだ)
足元に広がる、みっつの影。
那蛇叉は両手を、わきにいるふたつの手に絡めた。強く手を握り、交互に顔を見やる。
ふたりとも、びっくりした表情でこちらを見返す。
『なんだよ、急に』
紅い眼の、灰色の髪をした少年がぼやく。
「本当、びっくりするわよ」
茶色い髪をした、強いまなざしを持つ少女は微笑する。
「別に、なんでもないよ」
黒髪を振り、那蛇叉は肩を揺すって、声をたてて笑う。
もうすぐ、日は沈み、夜がくる。
それでも、もうひとりぼっちの夜ではない。
明日、日はまた昇り、光をそそぐのだ。
それが那蛇叉にとって、とてもすばらしいことだった。
***
握られた掌。
初游は幸せだった。
きっと、那蛇叉も蛇も、自分と同じ気持ちならばいいと思う。
きらきらと燃え、紫に色を転じる空をながめながら、穏やかな気持ちで三人はいた。
だれよりも孤独で、寂しがり屋。
けれど、今はちがうのだと、一様に強く感じるのだ。
掌から伝わるぬくもりが、その熱が、こんなにも安心できるものなのだと、はじめてわかった。