捌.陽炎、抱擁
≪陽炎、抱擁≫
*
苛々していた。こんなにも、苛々と。
夏の日差しのなかで、彼は木の陰にうずくまっていた。滑稽だ、と自嘲し、彼は薄ら笑いを浮かべる。
腕から肩にかけて、血糊がべっとりとはりついている。しばらく傷口を押さえていたが、やがて深々と刺さっていた矢を抜き取った。
『痛ッ』
どっとあふれ出した血をにらみつけ、彼はさらに腕を強くにぎった。
彼は、山に棲む蛇の妖怪だった。もうずっと山の奥深くで暮らしていたが、ここ最近は人間たちがやってきては、山の木々を切り倒し、彼の住処を奪っていた。
――化け物。そう、呼ばれていた。
(なにが化け物だ。そっちが勝手にやってきたんじゃないか)
矢傷に顔をしかめながら、彼は毒づく。姿を見とめられるたびに矢を射られたり、石ころをぶつけられたりすることにも、慣れつつあった。
そうしてしばらくしていると、止血し、痛みもやわらぐ。ほっと息をつく。
簡単には死なない。傷もすぐに癒える。それでも、胸の内に巣食いはじめたどす黒い感情は、そう簡単には消えなかった。
(許さねぇ。人間ども、いつか復讐してやる)
額の汗をぬぐい、立ち上がった、そのとき。
「あら、こんなところにいたのね」
ガサッと音をたてて、ひょっこりとひとりの少女が顔をのぞかせた。茶色の髪の、目のぱっちりした少女だ。
びっくりして微動だにできない彼に向かって、少女はにこりと笑う。
「ふふ、はじめまして。わたしとお友達にならない」
*
蛇は自身の首から、そっと木でできたうつくしい笛をとると、彼女に渡した。
「なあに」
にこにこしながら尋ねる少女に、彼はぶっきらぼうにそれを差し出すだけ。彼女は柔くほほえむと、それを受け取って吹いてみた。
心地よい音色。高くも、低くも、自由に変化する、不思議な音色だ。
蛇は目を瞑りながら、その音に耳をすませていた。
萌える木々、咲き誇る花々、薫る風、凪を感じて。
山は動く。
川は流れ、大河を目指し、海へとつながる。
鳥の声、虫の音、生命のせせらぎ。
笛の音は、高く、遠く、そして深く響く。
ゆったりと流れる時間のなかは、とてつもない幸福をもたらした。
「ありがとう」
唇から笛を離すと、そっと彼女はささやいた。そして、おもむろに唇を重ねると、やさしく抱きしめてきた。
肩や腰に腕をまわし、抱きしめかえす。力は込めず、触れるような抱擁。
それだけで、彼は幸せだった。
それから三日後、彼女の裏切りを知るまで。
*
月がぽっかりとのぞいている。そこにだけ雲はない。
しんしんと雪がふり、地を白く染めていく。純白の布を敷きつめていく。
涙は枯れることはないと、思っていた。けれど、どうしたってもう出なかった。恨んでいた彼女の死は、とてつもない衝撃だった。愕然とし、そして呆然とした。
(まだ、あいつが好きだったのか)
自身にあきれかえる。裏切られてもなお、自分は彼女を愛してた。彼女の存在が、大きすぎた。
わかっていた。
本当は、わかっていた。彼女が仕方なく“蛇遣い”になったことも、理解できないことじゃない。彼女はクニの長の娘で、どうしようもなかったのだ。
やさしく、自分に人一倍厳しい彼女は、自分を犠牲にした。自分を恨めばいい、と。
(ああ、だから人間は理解できない。どうして)
――どうして、謝ったのか。最後に、「大好き」だと言ったのか。
わからなかった。ただ、心は冷たく濁っているような気がする。もう、あたたかさなんて感じられない。
どうすればいいのか、わからなかった。ただただ寂しくて、嘆く。
(ああ、恨んでやる)
唐突に彼は思った。
(絶対に許さない。俺様を裏切ったこと、そして、愛したことを)
彼にとって、憎しみも、愛しさも同様の感情。
(絶対に忘れない。恨んで、一時も忘れてなんかやらない)
天を仰ぐ。満天の星。
(それだけは、許して・・・・・・)
名も知らぬ少女を、その儚い命を、蛇は愛しく想い、泣いた。