陸.煩悩
≪煩悩≫
***
何度も何度も、唇を押し付けられた。
むさぼるような口づけに、誘惑の香りはさらに色を増し、無意識に恍惚とした表情になる。
そのうち、ぼんやり霞む頭のなかで、なにか映像のようなものが流れてきた。思考や記憶がぐちゃぐちゃになりながら、すごい勢いで初游のなかに入り込んでくる。
蛇か、それとも那蛇叉か――目の前にいるのがだれなのか、初游にはわからなくなっていった。
『信じていたのに!ただ、愛してたのに!』
「ずっとひとりだった。さみしさに潰れそうだった」
頭のなかには、次から次へと声が響いてくる。
それは蛇と那蛇叉の、膨らんだ叫びだった。
『裏切られた……許せない。ああ、おまえはよく似ているよ』
「それでも、恨もうだなんて考えなかった。自分の運命だと、そう受け入れたはずだった」
強く同調してしまった彼らは、止まることなく、ただ欲求を満たそうとしているようだった。なんとなく初游にもそれがわかってきて、呑み込めるようになる。
『はじめてだったんだ……怖がられず、あんなにやさしい笑顔を向けてくれた』
「みんな向けてくるのは、恐怖と嫌悪のまなざしだけだ」
『“蛇遣い”がくるたびに、その笛で調教されるたびに、胸は張り裂けそうだった』
「冷たいまなざしのなかで、会話できたのは、自分に憑いた蛇だけだった」
『あいつの面影がある“蛇遣い”を目にするたび、くすぶるように心臓がうずいた』
「だれでもいい。認めてほしい。わかってほしい。僕は生きているってこと」
息が荒くなる。
ぽたぽたと少年の眼から涙が散った。あたたかいそれを頬に受け、初游はうっすらと目を開ける。
(蛇は……ただ、人が恋しいだけだったんだ。初代の“蛇遣い”に、恋をしたんだ)
はずすことなく見つめていると、少年の目がかすかに揺れる。紅と黒に揺れながら、瞳にただ少女を映す。
「……こんなつもりじゃ、なかったんだ」
定まりかけた瞳をはっきりと見つめかえす。少年の口からこぼれたのは、まちがいなく那蛇叉のものだった。
「ちゃんと……受け入れるはずだった。決心はついてたんだ……死にたかった」
いまだ少女に覆い被さりながら、少年はぽろぽろと涙を落とした。月光がそれを映し出して、まるで真珠のようにうつくしくきらめいていた。
「ど……して、死の選択をくれなかった?殺してくれればいいのに」
切なく胸を締め付けるのは、なんだろう。
ずっと暗い夜のなかに取り残され、必死で太陽を追いかけたかっただけなのに。光にこがれて、それから目をどうしてもそらせずにいただけなのに。
(お婆様、兄さま……あたし、“蛇遣い”失格です)
初游の母は、蛇の化け物に憑かれた人間に情けをかけ、そうして結局自分を破滅に追い込んでしまった。それは情けないことであり、“蛇遣い”としてあるまじき行為だった。
(だけどあたし、今なら母さまの気持ちがわかる気がする)
それは決して正しくないのかもしれない。
結局は自己満足にすぎないのかもしれない。
それでも――
「あなたは生きるのよ」
強く、言葉を発する。
伝えられるだろうか。
はじめ、従わないようなら死あるのみ――そう思っていたが、彼を見て、その言葉はどうしたって言えなかった。いや、考えられなかったのだ。
「……調教はしない。本当の化け物は、なにも知ろうとしない人間の方よ」
まっすぐに見上げる。
少年の黒い瞳の奥で、かすかに紅が揺らめいた気がした――そう思った、その瞬間。
きつく、冷たくにらまれた。その眼は再び、紅い色を帯ていた。
『それなら、アンタがいなくなればいい』
首すじを舐められ、顔を斜めに向ける形で固定される。初游は再び身動きが完全にとれなくなり、動揺した。
「待って。なにをするの……」
怖かった。
少年の顔が近くにある。灰色の髪が頬をくすぐる。
『アンタがいる限り、俺様は救われない。混沌とした闇に突き落とされた復讐を果たすまで、自由になれない』
苦しげに眉を寄せ、彼は初游の首に顔をうずめた。
『アンタの血がつづいていく限り、俺様は苦しみに捕われる。だから……』
――冷たい感触が、柔い肌に突き刺さる。そのまま貫かれるかと思いきや、それは首に押し当てられたまま動きをやめた。
……牙だ。
毒牙が、ぬっとかいま見えた。
恐ろしさに身をよじり、声もなく震える。母を弱らせた毒牙が、今自分をも襲おうとしているのだ。
(いやだ)
動けぬまま、初游は那蛇叉を呼んだ。
(那蛇叉、那蛇叉……)
***
なんとか、意識を取り戻した。
強情な身体をやっとのことで初游から離す。
『邪魔をするな』
ぐぐっと、身体が傾いて、初游に覆い被さろうとするが、なんとかそれを食い止め、那蛇叉は唇を噛み締めた。
「僕は殺したいわけじゃない。アンタは……アンタはただ、いつまでも過去に捕われているだけだ」
きっぱりと言い切る。するとすぐに、自分の口を借りて蛇が言った。
『貴様にこの苦悩がわかるか?身を引き裂かれるほどの痛みが』
ゆらゆらと揺れる。頭がカッと熱くなり、すぐに蛇に身体を譲ってしまいそうだった。
『あの笑顔が、言葉が、すべて偽りだったのだ。その絶望を、貴様は知るまい……』
好きだったから。
愛していたから。
彼女が自分を裏切り、“蛇遣い”と名乗ることは許せなかった。
愛していた分、憎しみも増えた。
(そうか。ただ、蛇は寂しいだけだったんだ)
苦い思いで那蛇叉は思った。自分が強く彼に同調してしまったのも、すべてその気持ちが強いからだったのだ。
それがわかった途端、妙に蛇に親しみが持て、泣きたくなった。
無力な自分が、こんなにもいやに思ったことはない。
(なにができるだろう。僕に、なにが)
「あたしになにができる?できることはないの」
驚いて、いまだ自身の下にいる少女に目をやる。目に涙をためながら、彼女は強いまなざしでこちらをしっかりと見つめていた。
――はじめてだった。
こんなにも、しっかりと見とめられたことなんてなかった。恐れられ、忌みきらわれていた彼にとって、他人からまっすぐに見つめられることは、あまりにも衝撃的なことだった。
そしてそれはなんとも言いようのない、不思議な感覚を彼に与えた。
「あたしはね」
ぽつりと、こぼすように初游は口を開いた。
「あたしは、認められたかったの。クニの人々が求めていたし、代々のものだって理由もあったんだけど……魅力があったの、“蛇遣い”には」
目をそらすことなく、彼女は「彼ら」に話しつづけた。
「“蛇遣い”はね、みんなから尊敬され、必要とされるの。だからあたしは憧れた……拒むことのできない、魅力的な理想だった」
月明かりだけだった社に、いつしかゆっくりと橙色が格子の外からさしていた。風はそよそよと緩やかに、やさしくふたりの頬をなぶる。
唇を噛み締めながら、初游はまたつづけた。
「だけどね……その反面、とても辛かった。あたしはどうして、なにも知らない“蛇の化け物”を従えるのだろうって。そんなこと、望んでないのに。だけど、そんな疑問をもつことすら許されなかった。まだ見ぬ蛇を憎まなくてはならなかったから」
知らぬものを憎むことは、そんなに簡単じゃないの――ささやくように、ほとんど聞こえないくらいの小さな声で彼女は言う。
那蛇叉も、彼のなかにいる蛇も、ただ魔術にかかったかのように、ぴくりとも動かずに彼女の言葉に耳を傾けていた。
「そのうち、蛇退治――調教させることは当然だと、感覚が麻痺したの。ただ、みんなのために、それから自分が認められるために、あたしは“蛇遣い”になった」
どこか、心のずっと奥の方の、固く冷たい部分が、すっと溶けていくような錯覚を覚え、那蛇叉は目を見開いた。
暗く濁った世界が、一瞬にして明かりに満ちあふれ、彼は目を見張る。まるで、決して互いに交わることのないと信じて疑わなかった平行線が、一本のまっすぐな直線だったことを思い知った――そんな気分だった。
そしてそれは、それほどまちがいではなかった。
(同じだ。蛇も僕も、この娘も、同じだったんだ)
対の関係。
黒と白、それから灰色。
本当はすべて同じだった。
(理由はみんなちがうけれど、苦しみは同じ。だれも、ただ快楽だけで生きてはいない……)
同じだけ苦しみ、悩み、嫌悪して生きてきた。それは必ずしも、絶対に理解できない心情ではあるまい。
自分と少女の共通する孤独に気がつき、那蛇叉は霧が晴れるように笑顔をつくった。
「なら、君にできることがあるよ」
きょとんとする少女に、少年はやさしくほほえみを浮かべた。