肆.玉響の馨香
≪玉響の馨香≫
***
ああ、しまったと思ったときには、すでに初游は横たわっていた。
跨るように少年が彼女に馬乗りになり、身動きひとつできなかった。格子からもれる月光によって浮かび上がった那蛇叉の瞳は紅く、切れている。ニヤリと笑う口からは、鋭い牙がのぞいていた。
月の光に反射して、きらっと彼の髪が光る。灰色がかった白銀の髪が、静かに風に揺れた。
さわさわと鳴る風を頬に感じながら、初游は震えることも忘れ、その姿に見入った。
『なんだ、こんな簡単に堕ちるんだな』
ぞわりと鳥肌がたつ。声は地の底から響くように、陰気な気配をたたえている。禍々しい空気が辺り一面をしめた。
『“蛇遣い”と言ったって、所詮ただの小娘――その細い首、すぐにでもへし折って、頭から丸呑みにしてくれよう』
白い指で頬をなでられる。触れるか触れないかの微妙な位置で、何度も何度も指先を転がす。
(なぜ。蛇は封印されているはずなのに!例え暴れたって、こんな力は使えないはず……)
次第に痺れてくる手足の感覚に、初游はかすかに焦りの色を見せる。
那蛇叉の身体を手に入れた蛇は、少女の顎に手をかけ、くいっと引き上げた。
『俺様が憎いか?恐いか?だがな、すべてはおまえの先祖のせいよ……』
顔が近づけられ、同時にぶわっと芳香が散る。目眩しそうなほどの濃い香りは、すぐに初游の頭をぼんやりとさせた。
(これが蛇の毒牙――娘を虜にする香り)
頭ではわかっていた。
それでも、どうしようもなかった。
『先に騙したのは、おまえの先祖だ。俺様を騙し、人間に封じたのだ』
苛々した口調であったが、すぐに蛇はニッと笑う。紅い眼が細められる。
『狡猾は人間よ。俺様の力を神託などのために使い、私利私欲のために支配する、邪悪な生き物……』
「……ちがう……あなたが、クニの人々を傷つけたから封印されたのよ」
鈍い頭でのろのろと言葉を紡ぐ。蛇が笑うごとに、濃厚な香りが頭を支配する。
『気丈な小娘だ。まだ荒がうか』
ニヤリと不適に笑い、蛇は紅い眼で初游を見つめながら、その唇を押し付けた。
びっくりして身体はかたまり、動けなかった。ただ呆然と乱暴な口づけを受けていた。
「――ンンッ」
『なにも知らぬのだな。はじめにさげすみ、俺様を独りにし、理不尽な乱暴を働いたのは人間のほうだ』
吐き出された言葉の衝撃と、口づけされた衝撃を二重に受けながら、初游は愕然とした。
目を見開き、なにも言えずにいる少女に満足したのか、蛇はニタリと笑みを広げる。
『俺様の棲みかを奪ったのも人間だ。だから、仕返に奪い返した。財力も、愛娘も』
「そ……んな……」
そんなことって。
言葉を失う。
初游はずっと、蛇の化け物を悪しきものと教わってきた。クニの人々のために、立派な“蛇遣い”になるのだと。
しかし、よく考えてみれば、初游が教えられた史実は「人間側」から見たものである。どうしてわざわざ、人間が非になるように伝えようか。
真実は巧みに曲げられたにちがいない。
『勝手に恐れられ、忌みきらわれる気持ちが、貴様にわかるか?!』
再び唇をふさがれる。
息苦しさを耐え、やっと唇を解放されると、いっぱいに息を吸い込んだ。
(たしかに、人間が正しいわけじゃない。だけど――)
初游は少年を思い出していた。
どこか儚げで、しかしそれでも芯はまっすぐに見えた少年。彼は、心から笑ったことが、はたしてあったのだろうか……?
「たしかに、人間も悪い。だけど、あなたがしたことだって、正しくはない」
キッと紅い眼をにらみつけ、初游は強く言い放つ。
「いちばん辛いのは、人間と蛇に挟まれている彼だわ」
人間でもなく、化け物にもなりきれない――。
なんのために、生きるのか。
初游はやっと、なぜ少年の瞳が悲しげに見えたのかわかった気がした。