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参.とこしえの孤影






≪とこしえの孤影(コカゲ)







***




 結局、彼女が社にたどり着いたのは、真夜中を過ぎてからのことだった。

 山には蛇の邪気を恐れてか、獣一つ見当たらず、その名の通り生き無し山にふさわしいとさえ思えた。

 社は木造の、こじんまりした建物だ。床は高くなっており、階段を数段あがって入り口になる。黒い幕で覆われたその向こうに、蛇の化け物がいる――

 思わず初游は震えた。手のなかに笛を握りしめ、彼女はついに社のなかへ入った。





「だれ」

 すぐに声がした。

 初游は答えず、手元のろうそくに火をつけ、辺りを照らす。ほのかな灯りに浮かびあがるであろう化け物の姿に備えて身をかたくした初游であったが、そこに見えたのは、ただ驚きに目を見開く少年だった。


「だれ」

 彼は再度尋ねてきた。

 不思議な少年だった。黒髪は柔くたれ、しっとり潤っているように見え、肌は透き通るように青白く、うつくしい。目は大きく、切れこみを入れたようで、それだけが蛇を思わせた。

 深い緑の衣をはおった少年は、ただ静かに身体を起こし、こちらを見ていた。


(まるで囚われの姫君だわ……)

 幼いころ聞いた古潭を思い出し、初游はしばし少年をうっとりと見つめていた。かよわく、儚げで、それでいてどこかかなわないような強さを感じさせる――そんな雰囲気が彼にはあった。

 初游は少年が彼女とまったく同じことを、彼女に対して思っているとも知らずに、まやかしの術にかかったように見つめていた。


 やがてハッとし、布団に目が止まると、初游は少年が眠っていたところを起こしてしまったのに気がついた。

(こんな時間に訪ねるなんて、いくらなんでも深夜だもの。無礼極まりない行為だわ)

 初游は気まずさを呑み込むように、曖昧に笑った。




「はじめまして。初游と申します」

 正座し、お辞儀をして彼女は名のった。

 本来、“蛇遣い”はもっと威厳に満ちあふれ、蛇の化け物に対して遠慮や気遣いは不要であったのだが、初游はそれではこのうつくしい少年に申し訳ないような気がした。彼に会ってその眼を見てはじめて、少年は化け物ではなくひとりの人間であり、自分と同じものなのだと感じたのだ。

(彼は化け物と同等。情けはいらない)

 強く自分に言い聞かせるが、うまくいかなかった。



「あたしは“蛇遣い”。あなたが蛇の化け物?」

 気を取り直して尋ねると、少年はややムッと顔をしかめた。

「化け物じゃない。那蛇叉ナタシャ


 ――那蛇叉。


 初游はその名を口のなかで反芻させた。きれいな音の名。

 初游は“蛇遣い”が蛇の化け物の名を呼ぶことを禁じられていることも忘れ、さっそくその名を呼んだ。

「那蛇叉。いい名ね」

 ぷいと顔をそむけ、照れを隠そうとするこの少年に、初游はだんだん興味がわいてきた。想像とかけはなれた「蛇の化け物」だったのだから。



「寝ていたの?なにをしていたの」

「……宴を見てた」

 那蛇叉は格子を振り返ってそう言った。

「ここから見えるの?」

「蛇の化け物の力があるからね」

 初游はずいっと彼に近づいた。近くで見ると、やはり化け物などという感じはなく、どちらかと言えば、神に近い気さえする。

「蛇の化け物の力って、どんなものなの。お婆様は、憑かれる人間によって力は変化するって言ってたわ」

 怪力、地獄耳、体質変化など、初游は化け物の力について知識を得ていた。しかし、遠くのものを見る力があることははじめて知ったのだ。

「たいしたことはないよ。ただ、見たいものなら見れるだけだ」

「すごい!すてきな力ね」

 はしゃぐ少女をちらと見やり、那蛇叉は軽く笑った。



「あの宴は、君のためのものだね。みんなすごくよろこんでいるよ」

 少年の瞳が悲しげに歪んだ。

 初游はハッとする思いで、唇を噛み締めた。

(そうだ。あたしは、“蛇遣い”。仕事をしなくちゃいけないんだ)



 クニの人々のため……。

 目の前にいるのは人間ではない。人間に化けた蛇なのだ。


 そう自分に言い聞かせ、初游はきっと表情を厳しくさせた。そしてそれに気づいた那蛇叉もまた、妙に顔を引き締めると、いっそ自分からと口を切る。

「僕に選ばせてくれるの。それとも、君が選ぶの」

 恐れも戸惑いもない少年に動揺しながらも、初游はかたい表情のまま告げた。

「どちらでもいいの。化け物が比較的おとなしいなら選ばせてやってもいいし、暴れるようなら“蛇遣い”が判断して審判してもいいの」

「そう。なら僕はどっちに入る?」

 初游はちょっと考え込んだ。そもそも、すべてが予期せぬことだったのだ。



 彼女が教わってきたことは、蛇の化け物の醜く、獰猛な姿であり、この少年のような優雅とも呼べる穏やかさなど想像もしていなかった。

「蛇に憑かれた者はみな、人間を憎むのじゃ」

 祖母からきつく言われた言葉を思い出す。

「なぜ奴を孤独に追い込むかわかるか?親しくしてはならぬからじゃ。情けは不要だからじゃ。心を開いてはならぬ。相手は蛇……きっとその開かれた心を、一口で丸飲みにしてしまうじゃろう」



 また、初游は自分の母親の身体が弱い理由も聞いている。

 彼女の母は蛇に憑かれた人間を不憫に思い、そこにつけこまれ、蛇の毒にやられたらしい。殺るか殺られるかの戦いであり、“蛇遣い”には慈悲の心などいらないのだ。

「決して心を通わせるでないぞ。恩を仇で返されるような仕打が待っておる……蛇は狡猾なのじゃ。油断するでないぞ」


 何度も、頭に叩き込んだはずだった。蛇の化け物は油断させようとしてくるはず。決して安心などしてはならない。

 わかっている。

 しかし、汚れた獰猛な化け物を調教するのが自分の使命だと信じてきた少女にとって、目の前の少年はあまりに儚く見えた。この自分とそう歳の変わらない少年は、弱い人間そのものであり、強さを誇示する化け物とは真逆に映る。

 だからはじめ彼を見たとき、驚きと戸惑いが生まれてしまったのだ。



(だけどこの人も、すべてを受け入れるフリをして、あたしの隙を狙っているにちがいない……騙されちゃだめだ)

 なんとか戸惑いを殺し、初游は少年の真意をうかがうように目を細め、静かに口を開いた。





「……おまえは、選びたい?」

 辺りはしんと静まりかえり、虫の音ひとつ聞こえない。ただまっくらな世界に取り残されたような、恐怖や寂しさに似た感情だけが迫ってくる。

「服従するか、暴れるか……」

 ぐっと思い切ってその眼をのぞきこむ。その黒い眼に紅い光が見えたら、すぐにでも笛を吹こうと、手に力を込める。



 永遠に時が過ぎてしまったようだった。

 実際はそれほど時は経っていないのだろうが、それでも初游にはかなりの時間に感じられた。

 じっとりと汗ばみ、喉はからからに渇いている。

しびれを切らしそうになったそのとき、ようやっと少年は口を開いた。




「どちらも、いやだと言ったら……?」



 真意が、つかめない。どうしてこうも、彼は霞がかっているのだろう。

 初游はじれったくも思い、手のなかの笛を握りしめた。

「そんなの、選択肢にない。魂を蛇の化け物に完全に預けるか否かよ」

 いっそのこと、どちらでもいいからさっさと魂を蛇の化け物に譲ってほしかった。そうすれば自分は迷うことなく、この少年に遠慮なくできるのに。


(――迷う?)


 ハッと、初游は息を呑む。自分はいったい、なにを迷っているというのだろう。



「よくわからないな。僕が選べるのは、生か死か、じゃないのか」

 怪訝な顔をする那蛇叉を見て、今度は初游が顔をしかめる。

「死?そんなの、だれが言っていたのよ。あなたは、蛇の調教に協力するかしないか、よ」



 那蛇叉は眉根を寄せる。思ってもみなかったことだった。









***



 考えれば、彼はだれからも選択肢を聞いてはいなかった。蛇に憑かれた人間のさだめを聞かされ、ただ漠然と生きるか死ぬかを考えていたのだ。

 まさか、協力するかしないかが選択に問われるなんて、思ってもみなかった。


(けれど結局、変わりはないじゃないか)

 どこか冷めたところで彼は思った。

 生きるということは、どちらにしたって蛇に魂を売り、身体をあけ渡すことである。

そこに自分はいない。ただ蛇のなかで、自分の身体が勝手に動くのをながめるだけなのだ。

 用は、“蛇遣い”に協力して、彼女が調教しやすいようにするか、蛇の化け物に同調して、彼女を困らせるかどうかだ。

 それが“蛇遣い”から与えられる選択肢だ。


(だけど、蛇に憑かれた人間の選択肢は、やはり生か死なんだ)

 蛇にくれてやるくらいなら、いっそ身体もろとも滅びてしまえばいい――那蛇叉の心に、はじめて暗い陰がさした気がした。


 自分はずっとこのときを待っていたのだ。社に隔離されることなく、自由に解放される日を待ち望んでいた。それは死をもってしか達成できないにちがいなく、那蛇叉はずっとそれを求めてきた。

 クニの人間が自分を人間として見てくれないのは、仕方のないことだと理解しているつもりだった。

 しかし今、選択をつきつけられ、やはり自分には人間としての権限がないことを目のあたりにしたのだ。



(心のどこかで、たぶん僕は願ってたんだ。“蛇遣い”は、僕をちがうように見てくれるのではないか、と)



 それはその通りだった。

 有望とされる初游は、那蛇叉を恐れはしなかったのだから。それでもやはり、“蛇遣い”の彼女にとって、彼はただの“蛇の化け物”にすぎない。それは思っていた以上に、彼の心を傷つけた。

(“蛇遣い”になにを求めているんだ。馬鹿だな……僕は結局、ただ人として見てほしかっただけなんだ)

 情けない、と彼は思う。あきらめたはずだったのに、やはり心のどこかで望んでしまうのだ。




 たまらなく、苦しい。

 どうしてだ――?



 心のなかで、なにかが芽生えた。暗く、重い、そんな感情がじわじわと迫りくる。

 どうして、自分はこんなことになるのだ?

 なぜ自分は忌むべきもので、目の前の少女は敬意される存在なのだ?

 たまたま生まれたちがいに、なにがあるというのだろう。



 彼女は光で、自分は闇。

 どうして、自分は自分を捨てなくちゃならないんだ!




『だからさ、そろそろはっきりさせとこうぜ』

 頭のなかで、蛇が言った。

『奴らは自分たちの安泰しか望まない。おまえの苦悩など、考えもしないんだよ』

 目の前で、茶色の髪がかすかに揺れる。彼女の手のなかに、小さな笛のようなものを見つけ、那蛇叉はぞくりとした。

『あいつはあれで、おまえを獣同然に扱うのさ。おまえの身体をもらい受けた俺様は、預言を授けなきゃならねぇ。おまえはただ、暗闇のなかで自分の身体が滅びるのを黙って待つだけさ』



 それは恐怖だった。なにも待つものがなく、孤独に溺れて暗闇にいるのは大変な苦痛に感じられる。

(ずっと、“蛇遣い”を待ってた。待つものがあるだけで、僕は生きてこられた)


 死しかない。

 破滅しか。

 なにも、ない。


『だからさ、俺様と同調しようぜ。もし無事にこの社を出られれば、俺様の力は完全に解放される。そうすれば、おまえの身体から出ていくよ』

 揺れる心をたたみかけるがごとく、蛇はさらにつづける。

『俺様がここまで同調できたのはおまえがはじめてなんだ。失敗はしないよ。互いに有益な交渉だろう?』




 たしかに、その通りだ。那蛇叉の心はぐらりと揺れた。

 死を選べないならば、自分は生きて自由を勝ち取るのだ。この身体はだれでもない、自分のものなのだ。

 ほんのすこし蛇に身体を譲れば、あとは自由の道が開ける。




 那蛇叉の眼は、らんと光を帯た。










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