弐.抗えぬ宿命
≪抗えぬ宿命≫
*
空が灰色に陰っていた。
なにもない。
――なんにも。
ただ重い雲が垂れ込めて、明かりの射さない方角を示すのだ。破壊という名の甘美な戦場に放り込まれ、選択の余地もないところで。ただ、待つばかり……
影のように、ひっそりとありながら。光に映し出された影――影法師――のように、自分を偽り、幻想の自分を夢みて。
白にも黒にも染まれない、ひとりぼっちの灰色で。
***
「おーい!初游!」
ふと足元から顔を上げる。遠くから走ってきたのは、まぎれもない兄の姿だった。
三年ぶりだ。
「兄さま」
初游は駆け出し、にっこり笑みをもらす。
光に透ける茶色の髪をした、明るい少女だ。目はぱっちりとしており、唇はふっくらとして桃色に色づいている。
彼女は薄紅色の小袖を着ており、首には小さな笛を紐で通してかけていた。笛は竹でできたようなもので、腹の部分に蛇の紋様が入っている以外は、特段変わった風ではない。
しかし、彼女の兄はその笛を見とめ、誇らしげに頷いた。
「とうとう、なったのだな。よくがんばってくれた」
初游はにっこり微笑すると、自身も誇らしげに告げた。
「クニの長の娘ですもの。当然よ」
彼女のクニには、昔から蛇の怪物がいるとされていた。
古の大蛇は山に棲んでいた。
蛇の怪物は人間に化けて、娘を独特の香りで誘惑し、拐っていったり、人々の食糧や財産を根こそぎ奪ったり、とにかく人間にとっては迷惑極まりない、恐ろしいイキモノだった。
そんななか生まれたのが、“蛇遣い”である。“蛇遣い”とは、人間に化けた蛇の化け物を調教する者のことであり、代々クニの長の娘が務めている。
というのも、はじまりはずっと昔――
蛇の化け物が人間の青年に化けて、長の娘を誘惑しようとしたことがあった。聡明で呪術にもたけていた彼女は、そのまま蛇の化け物を騙して、人間の姿から元に戻れなくさせたのだ。暴れ狂う化け物を、彼女のもつ不思議な力と笛によって、鎮めたのだ。
それからというもの、代々長の家系の娘は“蛇遣い”となり、還暦を迎えて次の世代に伝えるまでそれを務めるのだった。
蛇の化け物は人間の身体が滅びると、次の入れ物になる子供を選び、クニに産まれる幼子のどれかがそれになる。蛇に憑かれれば影をなくし、すぐにそれとわかるのだ。
蛇の化け物に憑かれた幼子はクニの生き無し山という山奥の社へ隔離され、代々の“蛇遣い”によって無害に調教されることとなる。調教された蛇の化け物は、クニの守り神となり、“蛇遣い”は蛇の預言を伝える巫女のような存在になる。
長の娘である初游もまた、八つになるとそのことを告げられ、十三歳くらいになると、クニの端にある修行場に行き、“蛇遣い”の技を叩き込まれた。山の知識、武道や学問だけではなく、精神の向上、神秘の力に対する理解も求められる。“蛇遣い”なるものは生まれ持った能力があり、それを開花させるのが修行であった。
なにより初游は待ちこがれられた“蛇遣い”であった。
前の“蛇遣い”であった初游の母は身体が弱く、彼女が幼いときに他界しており、今現段階で正式な“蛇遣い”はクニにいなかったのだ。初游の祖母が修行の監督をするのだが、すでに能力は弱まっており、もし蛇の化け物が暴れ回ることがあれば大変なことであった。
びくびく怯える三年を過ごし、ようやく待ちわびた“蛇遣い”がやってきたとあって、クニの人々は大いによろこんだ。
「これでやっとクニの人間も安心して暮らせる。今宵は宴を開こう!」
次期長となる初游のふたつ年上の兄は張り切ってそう言った。しかし、初游は静かに首を振って、柔くそれを拒んだ。
「いいえ、兄さま。あたしは、すぐにでも蛇の化け物のいる社へ向かいます。クニの人を安心させてあげたいの」
「だが、せっかくの帰郷というのに。蛇の化け物など、別に明日でもよいだろう?」
がっくりする兄にふるふると首を振りながら初游は言った。兄の心は、充分すぎるほどうれしいものだった。
「ありがとう兄さま。けれど、あたしはもう“蛇遣い”なの」
それからちょっとほほえんでつづける。
「あたしは出席できないけれど、どうか宴は開いて。社から、その様子をながめるわ。クニの人々が幸せであれるよう、兄さまもがんばって」
その日のうちに、初游は社へと出向いた。人々が住まうクニの村から、山奥の社まではずいぶんと時間がかかる。半日も歩き、やっと到着するのだ。
社には結界がはってあり、化け物は外に出られないようになっている。
蛇の化け物に与える食事は朝晩の二回で、クニの人々が交代で届けていたが、だれも化け物の顔を見ることなく、そそくさと帰ってくる。化け物といっても、本来は化け物に憑かれた子供なのだが、人々はみな恐れた。
それゆえ、化け物に憑かれた者は生涯孤独に暮らすが、それも仕方のないこととされていた。
実際、初游が会うのもはじめてだった。
蛇の化け物はたしか、自分と同じくらいの歳であったと聞き知っている。
(けれど、情けは無用。あたしも“蛇遣い”に生まれたのが運命なら、その子も蛇の化け物に憑かれるのが宿命……受け入れるしかないのよ)
いつ蛇の化け物が暴れ出すかわからない恐怖からクニの人々を解放する――それが自分に与えられた使命と信じ、初游はこれまで修行してきたのだ。
(もし、化け物が従わないことがあれば……)
初游はそっと笛に触れる。固く、それはしっかりと彼女に応えてくれた。
(音の苦痛か、あるいは――死あるのみ)
***
外がいやに騒がしいような気がして、少年は目を覚ました。
そっと上半身を起こし、格子の間から様子をうかがう。クニの中心の村の広場のあたりで、明るい光がちらちらとしているのが見えた。橙や黄色の炎がちらつき、それらを囲んで人々が踊っていた。酒を飲み交し、ずいぶんと楽しそうだ。
(今夜はなにかの祭なのか?祝い事など、めったになかったのに)
くすぶる心を奥にしまいこんで、少年はもっと人々の様子をよく見ようと目を細める。蛇の化け物に憑かれてよかったことといえば、どんなに離れた場所でも、このようにものが見えることだろう。
それだけが少年の慰めでもあった。
しばらく宴会の様子をながめていた少年であったが、ついにため息をついて目をそらす。
所詮自分には関係のないことだ。
両親や、クニの人々を恨みはしまい。もし自分が逆の立場であっても、躊躇わず彼らと同じことをするだろう。隔離され、ひとりになる……。
恐れられ、ただぼんやりと空をうかがう日々は、言いようもないほど、残酷だった。
(はやく“蛇遣い”がきてくれればいい――そうすれば迷わず死を選ぼう)
蛇の化け物に憑かれた人間がたどるのは、ふたつの道のどちらかしかなかった。
服従して生をとるか、自由を求め死をとるか。
少年にとって、前者は論外だ。服従――それは意識を蛇の化け物に譲り、獣や虫けら同然に“蛇遣い”に従うことだ。
そこまでして生きる価値を、少年は見い出せそうになかった。
『なぁ、他にも方法はあるんだ』
ふいに、頭のなかに声が響いた。少年は不機嫌を隠す様子もなく、悪態をついた。
『そんなに怒るなよ。俺様がとっておきの選択をくれてやる』
少年は大袈裟にため息をついた。頭のなかに響く声――それはまさしく、蛇の化け物の声であった。
ちょうど三年くらい前から、このように時々蛇の化け物に話しかけられるようになったのだ。このことをクニの人間に話すべきか迷ったが、結局話せずにいた。もとより、クニの人々は少年に関わろうとせず、話す機会すらなかったのだが。
『いつも言ってるが、おまえと俺様は相性がいい。こんなに同調できたのははじめてだ』
(わかったから、黙れよ。僕はおまえに屈服する気はさらさらない)
この問答も何度繰り返したことか。あからさまに不機嫌になる少年を構わず、蛇の声はせせら笑う。
『健気だねぇ。なんの見返りもないのに、立派なこった』
気に触る言い方をされるのにも慣れた少年は、だんまりを決め込む。すると蛇はさらに言い募った。
『馬鹿だぜ、おまえ。律儀に守るこたぁねぇよ。いいから、おれの言うとおりにすればいい……間違っても死なんて選ぶなよ』
(だれが貴様の言うことなんか聞くか)
少年は再び仰向けになると、高い天井をぼんやりとながめた。耳には、遠くで笑いさざめく人々の声が聞こえてくる。
『意識を俺様に譲ればいい!』
懲りずに蛇はつづけた。
『きっと“蛇遣い”はガキだ。力だって充分じゃないね。それに、おまえがこれほど俺様と同調していることを、人間たちはなんにも知らないんだぜ』
もやもやしだす心臓を握りしめるように、少年は乱暴に布団を被る。それでも蛇の声はあらがえない誘惑のように響いてくるのだ。
『復讐してやろうぜ。どうせ奴ら、おまえのこと、化け物としか思ってないんだから』
見ようとしない人間たち。
聞こうとしない人間たち。
差別と軽蔑のまなざし。
忘れもしない、あのさげすみの眼――どうして自分が。
心をえぐるような痛みに、少年はあえいだ。
『楽になれよ。俺様に意識を譲り、望めばいいだけだ――破壊をな』
(……破壊?)
『そうさぁ。俺様と心まで同調すれば、無敵だぜ。復讐して、残った俺様たちには、自由が残る!自由を手にできる!』
――自由。
それはひどく甘美で、少年を酔わせる言葉だった。
(もし、第三の選択があるならば……)
そこまで考えて、ハッと考えを振り切る。自分にはできない。クニを裏切ることなど――。
――自由が残る!自由が手にできる!――
蛇の言葉が頭を渦巻き、心臓をおかしくさせる。
少年は激しく頭を振り、そのたまらない誘惑を振り払おうともがいた。
すくなくとも、蛇の化け物の言葉を、少年は完全に消し去り、否定することはできなかったのだ。