フルーツバスケットと悲劇
また前置きを熱心に書きたい。前置きと繋がるけど、私は評価のために見るって見方が好きになれない。快であるから見るべきだ。だが皮肉にも評価眼と言うのは悪いものを見ないと磨かれないのだ。何が悪いか?分かってない人間によいものなど分かるはずが無いからだ。だから出来る限り悪いものを見たほうが評価眼は磨かれる。
前もって調べた他人が推す良い作品人気の高い作品ばかり見てる人間の評価文など読むに値しない。困ったものだ。なろうでの作品のランキング上位から選択するような読者は全く評価と言う点で使えないんだ。評価するのに資格が無い読者と言って良い。それでもだ自己矛盾を抱えつつも私は評価のために作品を見るのもまた間違った行為だと思ってる。
それはそうじゃない人との乖離を招くからだ。人の気持ちが分からない評価者にもなってはいけないんだ。矛盾だ大きな矛盾だ。ゴミみたいな作品を評価眼を上げるって目的で見るには見れるんだ。これは糞創作愛好家とも繋がる。時間を無駄にされた不快感がきちんと共有できない評価者の評価など必要ないんだ。
私はこの作品一時期切ろうか?と迷った。ブギーポップと同様だ。時代の問題。それらに較べると随分みてられるがからくりサーカスも似たような問題を抱える。時代が古い名作といわれるものは大体面白くない。これも例外なく過大評価じゃないか?と思えてしまう。いろいろと古臭い部分がありきたりすぎて凡庸で刺激が全く無いんだ。
だがこの数話見てて、これそれだけじゃないぞ?って気がついた。この作品が何故名作か?ラブコメのコメで見るから時代ゆえの凡作に見えるが違う。これ夏目友人帳などの泣ける系と同じ種類の感情を刺激する作品だと気がついた。そう私が基本大嫌いな作品群になる…。私は泣けるを伴う感動系が大嫌い。そういった評価の作品の大半が全く泣けるが刺激されないので私にとっては凡作ぞろいになる。
客観的に高く評価される個性は理解できるが、この作品みたいに古さゆえに個性も感じられない作品は本当に退屈なんだ。じゃ何故見てるのか?で正直評価のための視聴の部分が半分を占める。この点妥協になる。100%評価のための楽しみしかなかったら私は切る。自身の上記の理由から感性が鈍るからだ。
それは切らなくてはいけないのは、習慣化する事が何より恐ろしいからだ。自分でも無自覚な感情の癖がついてしまって、それをもう理性で認識できなくなってしまう。自分だけが面白いと言う個人的主観の根幹が糞だと思ってるものを評価という目的で楽しみに摩り替わってしまうからだ。そしてこの無自覚がもう認識できなくなってしまったうっとしい評価者を大量に見てるからだ。この人たちは話が通じないから話すと苛立つんだ。自分で自分の事が分かって無いから。
もう半分は当初から批判的だった12しって非現実的部分が全く刺激として機能して無いからになるが、それがどうやらスロースタートだったと分かってきたのと、後はありがちだが悲劇の部分の長編的刺激が謎となって出てきたからに成る。SFがこの手の刺激では代表だと思う。分かりやすいのはエヴァンゲリオン。何か悲劇の根幹となる謎がありそれを引っ張ることで視聴継続させる手法である。
大体期待外れになる爆弾だが、最低レベルで見てる作品だと刺激としてこれで十分で、かつ評価のために半分見てるので切るラインを余裕で超えているとは思う。
前置きにまた戻る。
私は、泣ける感動系が嫌いであるが、夏目友人帳は大好きである。私が認める泣ける感動系はおそろしく評価が高い。何故か?逆説的だが、私は涙もろく無いからこそ、本当に強い刺激の作品だけを好むからになる。私が認めればほぼ名作だと言っても良い。なんて傲慢な。いや鈍感な人を刺激するほうが名作率は正直高いと思う。
だがそんな作品ほとんど無い。そうなると年間単位程度じゃ泣ける感動系の名作レベルはもっと下げたほうが望ましいんだ。この瞬間に私の評価はゴミになる。他者に対する悲劇の共感性が私は著しく低いんだ。他人に対して壁やバリアの作り方が大人の男性としてかなり強い部類だと思うからになる。
男性はそもそも社会で生きていくうえで他者への同情を排除して仕事し無いとやってられ無い事が多い。精神的にすべて感じていたら疲れてしまうからだ。だからこの手の性差はジェンダー的だと言えなくも無いが、男性は思春期ぐらいからすでに女性とはこの手の共感性に性差があるとはっきり感じている。
男性は悲しい系の他者への共感性が女性に較べると鈍いんだ。その中でも後天的先天的どっちも著しく鈍いのが私になる。それゆえ私の泣ける感動系の創作へのそれらの元々の感受性が強く出てしまう。私は明確に他者と違うと感じ取ってる。そこで評価に対する限界を感じてしまう。
私は悲劇系の名作の評価が下手だといってしまっても良い。私が評価できるのは超がつくレベルでの名作だけで後の年間シーズンレベルの名作はそこらの凡作と大差が無いんだ。すべて過大評価に見えてしまう。
前置きに戻るが、評価と言うのはどうしても個人的主観の壁を超えられない意味の無いものだという思いがここにある。最も重要な泣ける感動系が私は評価をまともに出来ないんだ。まあ私は10年レベルの傑作だけは見抜けるので対話程度ならごまかしはきくのだが…。後客観的な作品の個性が伴う場合は他者が高い評価を下すのは理解できる。私は全く心動かないが。
こういった事への知的な言及は集団における同一性で見るべきだと思う。個人の俺感想じゃ知的な言及にならないが、その同質な人たちが集まった場合また違ってくると思う。その集団の規模は必ずしも多数派じゃなくて良い。私が常に掲げるなろう改革の柱になる。じゃ今回分かったじゃないじゃないか?
そうじゃない、ここまで強い壁が他者とあるとは思って無かった。それは前も書いたとおり私は超がつく泣ける感動系は逆に見抜くのが上手いからだ。だがそれがそれしか反応できないからと今知ったのはちょっと衝撃がある。あれ私逆にふさわしく無いから名作を見抜くのが上手いだけなのでは?
こんな事今知ったら衝撃を受ける。私恥ずかしい奴だったかもしれない?と思い直している。私が評価した泣ける感動系は名作ぞろいなので、私はそっち系の評価眼が高いと勘違いしてたが、いや多分違う。私は逆説的に鈍いからそれしか反応できないからだと気がついた。個本的に何も変わってないが、自分への認識が180度変わってしまったんだ。
正直言えば認めたくないが、泣ける感動系は他者と共有する悲しい感情の共感能力が高くないとまともな評価は出来ない。私はその点障害者といっても良いと思う。これを言うと差別的失言になってしまうが分かりやすく言うとになる。
集団の数が少ない場合は無視できるが、その数が多数派になると、自分は必要とされる能力を先天的に欠損した人物だと認めざる得ない。かつそれを後天的にさらに悪化させた点も加えてである。
評価と言うのは、こういった個人の感情的主観の延長なんだなと以前から書いてるが、それをもっと強く思い知った作品となった。もちろんこれ時代が古いので、かなりの数の人が見放してる。だがそれはコメディ部分であって、泣ける感動系に関しては当時見ていても私は全く無反応だったろうと書いてしまう…。
それは時代のせいにしたらあかんのでは?と思うから時代のせいにした過去の言及を書き直してる。そしてそれは泣ける感動系すべての私の評価にまで及ぶ。客観的知的に個性を感じさせない泣ける感動系の古い作品は私は多分良さが全く分からない。特に重要なのは、これからの未来においてもその私の感じ方が変わることは一切無い。
それらは過大評価としてしか私は多分受取れないが、それは過大評価じゃない。集団の数次第で多数派ならば、それは私が過小評価をしてるのだと気がついてしまったとなる。かなり大きな革命的な作品にこの作品は評価と言う点ではなってしまったんだ。