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真夜中の食卓

読んでいただけて、少しでも楽しんでいただけたら幸いです。

短編でシリーズっぽく続けていけたらと思っています。

とりあえず、明日か明後日にもう一話あげたいと思います。

 今日もまた、最も愛おしく、最悪な時間が始まる。



 コツ、コツ、と静寂を守る廊下に静かに靴音が響く。藍玉(らんぎょく)は深い溜息を一つ落として、ダイニングルームと冠された扉の前で静かに足を止めた。重厚な木製の扉にそっと右手を添えると、気持ちを表すかのように無意識に垂れた頭から、さらりとプラチナブロンドの長い髪が垂れる。


「……」


 ふう、と一つ小さく息を吐くと、藍玉は覚悟を決めてその扉をぐっと押し込んだ。それは、ギイっと古めかしい立て付け特有の音を鳴らすと、扉の先の空間からひんやりとした空気と本の匂いが流れ込む。

 ダイニングルームの名に反し、その部屋の壁はまるで図書室のようにぎっしりと本で埋まっていた。


「……」


 パタン、となるべく静かに後ろ手で扉を閉めると、その音に反応し、藍玉の視線の先に映る先客の菫色の瞳が、すぐに藍玉を捉えた。


「こんばんは。藍玉」


 男は藍玉の登場に穏やかな笑みをその頬に浮かべると、今読んでいた本をすぐに閉じて壁の本棚へ戻し、ゆっくりとその足を藍玉の方へと向ける。藍玉の足もすぐに動きを取り戻すと、吸い寄せられるように二人は部屋の中央でぴたりとそれを止めた。藍玉は小さく息を吸い込むと、アクアマリンの瞳をゆっくりと上げる。


「……こんばんは。アイオライト」


 藍玉が男の名を口にすると、アイオライトと呼ばれた男は藍玉に向け嬉しそうに目を細めた。至近距離になると身長差の為見下ろすような形になったアイオライトの頬に、ゆるくクセのついた濡れ羽色の髪がかかる。藍玉がその所作を一瞬も見逃すまいと言わんばかりに見上げた視線を外せずにいると、アイオライトが楽しそうに笑った。


「今日も綺麗だね、藍玉」


「……」


 息をするように口にしたアイオライトの賛辞の言葉に、藍玉は複雑に表情を歪める。


(綺麗という言葉が相応しいのは、アイオライトの方だわ)


 菫色の瞳も鼻筋の通った顔も、長めのクセ毛もだらしなく着崩れたシャツすらも、どれもアイオライトが持つ美しさを引き立て、藍玉の視線をいつだって簡単に縫い留めてしまう。アイオライトは会うたびに藍玉に惜しみない賛美の言葉を送ったが、それは全て本人へ返っていく言葉だと、藍玉は常々思っていた。


「それを言うなら……その言葉は、あなたへ向けられるものだわ。アイオライト」


 藍玉が素直な言葉を向けると、アイオライトは一瞬きょとんとしたように切れ長の目を丸くした。だがすぐに嬉しそうに口元を綻ばせると、菫色の瞳に薄っすらと熱が灯る。


「ふふふ。きみがそう思ってくれるならよかった。僕がそうあるのは、きみの為だからね」


「……」


 アイオライトの、一見すると錯覚してしまいそうな言葉に藍玉は息を呑んで目を瞠ったが、カシャン、と続けて聞こえた金属の震える音に、あっという間に意識を引き戻された。反射的に音のする方へ視線をやると、その音を発した金色の格子に、アイオライトの骨ばった長い指が絡みついている。


「……」


 それは、この世界を二つに分断する檻、だった。


 藍玉が無意識に視線を悲痛に歪ませると、それに目ざとく気づいたアイオライトが、藍玉の様子に小さく息を吐く。


「きみはいつまで経っても変わらないね。まだこれを見て心を痛めるなんて、この星中探してもきっときみくらいだよ? 藍玉。僕たちが出会った時から……ううん、僕らが生まれるずっと前から、これは存在していたんだからさ。きみが何かを思うことはないんだよ」


 まるで聞き分けのない子供をあやすかのような口調でそう言うと、アイオライトは格子の間からそっと藍玉の頬に触れた。指先に導かれるように藍玉が視線を上げると、アイオライトの菫色の瞳が嬉しそうに弧を描く。


「ねえ、藍玉。今日は何を食べてくれるの?」


 カシャン、とまた金属音が室内に響いた。まるでねだるようにも聞こえた世界を分断するその音に、藍玉は泣きそうになるのをぐっと堪えて小さく唇を噛んだ。


 藍玉たちの祖先である“ヒトでないもの”が地球へ侵略してから数百年。圧倒的な力の差でヒトを制圧してしまった“ヒトでないもの”は、何を思ったのかヒトを自分達の食料と定め、それを食して生きてきた。


 かつてヒトが牛や豚を食用として飼っていたのと同じように、“ヒトでないもの”は世界を二つに分けた檻の向こうで、ヒトを食料として飼っている。


「……食べたくない。なにも、食べたくないわ」


 藍玉が、いやいや、とダダをこねる子供のように頭を左右に振ると、アイオライトは困ったように眉根を下げた。振り払われた指を今度は藍玉の顎にかけると、アイオライトは小さく息を吐く。


「きみはいつもそればかりだね。確かにきみたちに空腹の概念はないから、それに耐えられなくなることはないのかもしれないけど、でも、きみたちは僕たちから養分を摂取するしか生きる術が無い。だからその為にこの部屋が存在して、毎日この時間があるんだ。それは理解してるよね? それに、僕がきみに、死んでほしくないことも」


 アイオライトに無理やり上を向かされた藍玉の瞳の先に、悲しそうな菫色の瞳が映る。意図せずそんな顔をさせてしまったことへの後悔と同時に湧いた、そんな顔すら美しいのか、と背反する感想に、藍玉はふいに胸の奥がぐっと苦しくなるのを感じる。


(ああ、まただわ……)


 藍玉は思わず俯いて両手を胸の前で組むと、アイオライトの指が追いかけてそれに触れる。


「どうしたの?」


「……」


 アイオライトの優しい声音に、藍玉は渋々といわんばかりの緩慢さで視線を上げる。これから始まる着地点の分かる会話に言葉を喉奥に貼り付けながらも、それでも拒否することができずに藍玉は口を開く。


「……胸の奥が、苦しいの。あなたに会うと、いつもだわ。アイオライト」


 もたらされる回答が何か分かりながらも、藍玉は言葉を紡ぐしかなかった。いつも結果は同じだとしても、藍玉には、せめてこの何かを言葉にすることくらいしか、できることがないのだ。


「……そう。よかった。じゃあ今日も、僕を食べてくれるんだね」


「……」


 予想通りのアイオライトの満足気な笑顔と、この胸の苦しみを取り除く“最も正しい方法”の提示に、藍玉は絶望にも似た気持ちでアイオライトを見返した。


(確かに、アイオライトの言う通り……食、せば、何かが満たされる気がするけど、でも……)


「ねえ。だからそんな顔をする必要はないんだよ、藍玉。“ヒトでないもの”は文学を持たなかったから、情緒を上手く理解できなかったんだろうね。初めてヒトに出会った時に自身の中に生まれた感情が、何というものだったのか。それをどう表現すべきだったのか。ただそれが分からなかっただけなんだよ。今きみがそれを僕に伝えられないようにね」


「……」


 アイオライトが指した指先を追って、藍玉は自分の胸へと視線を落とした。確かにアイオライトの言う通り、藍玉は、『アイオライトに出会うといつも胸の奥が苦しくなる何か』をどう伝えたらいいのか、その術を知らなかった。


(これをなんて言えばいいのか、アイオライトは知っているの?)


 藍玉は、その正しい方法を、ずっと探しているのだ。


「それで、今日はどうするの? そろそろ僕の指をポッキリ折って食べてくれても構わないんだけどな」


 おどけたように言ったアイオライトの言葉に、今しがた胸中に浮かんだ疑問は隅に追いやられてしまった。藍玉はその残虐な響きに弾かれるように視線を上げると、アイオライトはその視界いっぱいに、ずい、と自身の指を差し出した。長く美しいそれに、触れられるのが好きだった。


(だから、食べたくなんてないのに……)


「……血を」


 本心を隠し、だが、日課の為に諦めと譲歩を織り交ぜた声を絞り出すと、アイオライトは残念そうに肩を竦めてみせた。


「……まあ、そう言うと思ってたけど。ねえ、じゃあそろそろ藍玉が切ってくれない? 地味に痛いんだよねえ、これ。きみに切ってもらったら、無痛なの、に」


「だめよっ!!」


 アイオライトの言葉に被せる様に反射的に口から飛び出した声は、思わず大きなものになってしまった。藍玉自身も己の行動に驚いたようにアクアマリンの瞳を大きく見開くと、その先でアイオライトの菫の瞳が真面目な色を帯びてじっと藍玉を見返したものだから、藍玉はいたたまれなくなり視線を逸らす。


「……だって、あなただって、生きてるんだもの。私達と、同じ……」


(傷つけて、痛くないなんて、そんなの……)


 藍玉がぎゅっと下唇を噛みしめると、アイオライトはナイフで傷つけようとしていた手を止め、慈しむような瞳で藍玉を見る。


「うん。でも、僕たちは“ヒトでないもの(きみたち)”の食べ物だよ」


「!」


(……どうして? なんで、当たり前みたいに言うの?)


 弾かれるように上げた藍玉の瞳の前で、まるでそれが何でもないことのように、だがしっかりと線引きをした言葉でアイオライトはそう言うと、止めていた手をすぐに動かして、右手の人差し指にナイフで傷をつけた。すぐにぷくりと真っ赤な血が浮かび上がると、藍玉は現実から思わず視線を逸らす。


「!!」


 だが、その束の間の現実逃避を許さぬと言わんばかりにアイオライトの左手がすぐに藍玉の顎を掴むと、無理やり開けさせられた口の中に、血の浮かんだアイオライトの右手の人差し指が無慈悲に突っ込まれる。


「っ、あっ……!!」


 思わず嘔吐きそうになった藍玉の口内にじわりとアイオライトの血が広がると、ぶわりと、体中の毛穴が開くような感覚を覚えた。いつもこの瞬間に感じるその本能的な感覚に、藍玉の瞳に生理的に浮かんだ涙の薄い膜が張る。


(なんで、こんな……これじゃあ……)


 まるで全身が喜んでいるようだ。


「……」


「……ねえ。いつも思うんだけど、そんなに嫌そうな顔されるとさすがに僕も傷つくんだけど。そんなに僕って不味いの? だとしたらショックだなあ」


 眉間に皺が寄ってしまっていたのか、空いている左手で藍玉の眉間を押さえながら少し傷ついた風に笑ってみせたアイオライトを藍玉は咎めるように睨みつけたが、それでも、その言葉を否定するように慌てて首を横に振った。


(不味いだなんて……いっそ、本当に不味ければいいのに……血が、甘いだなんて)


 藍玉は無意識に舌の上に広がる血を飲み込んだ。まるでチョコレートのような甘さに、もっともっとと欲しがるようにコクリと喉が鳴る。

 それが普通でないことくらい、藍玉も分かっていた。本来であれば、嗜好品でもなんでもない血が甘いわけがないのだ。だが、そんな常識と共にアイオライトを食すことを拒否する意識に反し、身体は供給され続けるアイオライトの血液を美味しいと本能で認識し、貪欲に喉を鳴らさせた。

 その事実が、また藍玉の胸の奥を苦しくさせるのだ。


「ねえ。僕の血ってどんな味がするの? 自分で舐めても鉄の味しかしないんだ。美味しい?」


 藍玉の思考を無視して続けられるアイオライトの無邪気な質問に、意味があるのかないのかはわからなかった。デリカシーに欠けるそれは答えづらく、また、藍玉とアイオライトの間にある線を色濃く示すようで答えたくもなかったが、菫色の瞳を前にしてしまうと無視することはできず、藍玉は渋々こくりと小さく頷いた。“対”以外口にすることがない為他に比べようがなかったが、泣きたくなるほどには藍玉の心の奥を満たしてくれることは確かだった。


「……そう。じゃあ良かった。もしかして、石黄(せきおう)さんに頼んだやつの効果が出てるのかな?」


(石黄さん?)


 アイオライトの口から出た知らない名前に、アイオライトの指にかける藍玉の前歯に無意識に僅かに力がかかる。前歯がアイオライトの肉に沈んでいく柔らかな感触にはっとして藍玉が慌てて口内からアイオライトの指を引き抜くと、一瞬ぽかんとした表情をしてみせたアイオライトがなぜか花が綻ぶように笑ったので、藍玉はその意図が分からずに訝し気に目を瞠った。


「石黄さんていうのはね、僕らに食事を用意してくれる“ヒトでないもの”のことだよ」


「え?」


(なんで、わかったの?)


 アイオライトの口から告げられた、今まさに藍玉が胸中に思い浮かべた疑問の答えに、藍玉は不思議そうに瞬いてみせた。だが、それを問うよりも先に、今胸中に浮かんだ新たなもやもやに、藍玉はそこに答えがないと分かりながらも自分の胸元へと視線を落とした。


「最近ずっと、チョコレートやケーキみたいな甘いものばかり食べてるんだ。昔ヒトが家畜にやってたみたいに、もしかして食べ物が僕の味に影響するのかな? って思ってね。それで石黄さんに頼んでみたら、面白そうね、って協力してくれたんだ」


「……面白そうね?」


(女、なの)


「?!」


 弾かれるように上げた視線の先で、アイオライトの菫の瞳がわずかに見開かれた。静かに落とされたアイオライトの視線を追うように藍玉は自身のそれを下げると、無意識に掴んでいたアイオライトの手を、弾くように手放した。


「あ、ごめんなさいっ……」


(どうして? なんで、アイオライトの手を取ったの?)


 藍玉は自分の行動に困惑気に口許に手をやると、たった今振りほどいた自分の手をじっと見つめた。なぜ自分がそんな行動を取ってしまったのかわからず答えを求めるようにアイオライトへ視線をやると、なぜかアイオライトは恍惚とも呼べそうな顔でうっとりとした笑みを浮かべていた。


「……アイオライト?」


 藍玉が不思議そうな声をあげると、アイオライトはにこにことした笑みを湛えたまま、藍玉の手に自分の手を握らせ藍玉の口許近くまで持ってきた。


「ふふふ。そのまま食べてしまってくれたらよかったのに」


「え?」


「僕がきみ以外の女の話をしたから、嫉妬してくれたんだよね?」


「嫉妬?」


 初めて聞く言葉を藍玉が不思議そうに繰り返すと、ああそうか、とアイオライトは小さく息を吐く。


「“ヒトでないもの(きみたち)”は自分の感情を理解できないんだったね。嫉妬っていうのは、僕が他の女と仲良くしているのを嫌って思うことだよ。だからきみは、衝動的に僕のことを食べようと思った」


「!」


 ふいにアイオライトの指が藍玉の唇を割り、切り揃えられた爪の先が藍玉の前歯を掠めた。藍玉は振りほどけないままただアイオライトを見上げると、アイオライトはまた柔らかく微笑んでみせた。


「……なにを、笑っているの?」


 また苦しくなった胸の奥がふいに恐ろしくなり、藍玉は無意識にそう尋ねた。


「だって、“ヒトでないもの(きみたち)”の食欲は、僕たちでいう、愛とか恋とかそういうのだから。きみが今、嫉妬して僕の手を取った、っていうのは、僕のことが好きってことだよね? ああ、そのまま僕を丸ごと食べてくれたらいいのにっ!! だって、それが“ヒトでないもの(きみたち)”の愛情表現なんだからさ」


 地球に侵略して初めてヒトに出会った“ヒトでないもの”は、その時感じた愛情を理解できず、それを食欲と誤認した。“ヒトでないもの”がヒトを食すのは、それが彼らにとって最上級の愛情表現だからなのだ。


「……」


(……だとしても)


 藍玉は唇にかかったアイオライトの手を祈るように両手で包み込むと、それを自分の胸の前でかき抱く。


「私はあなたを食べたくないわ。だって、ただ、あなたと一緒にいたいの……」


 理解できない、伝えられない想いがもどかしく、アクアマリンの瞳に水を浮かべてアイオライトを見上げる。アイオライトはしばらくじっと藍玉を見つめていたが、ふう、と諦めた様に小さく息を漏らした。


「僕としては、全部きみに食べられて全身できみの愛情を感じたかったんだけど、仕方がないね」


 少しだけ残念そうに聞こえる声音でそう言うと、アイオライトはゆっくりと背をかがめた。藍玉がそれを不思議そうに見ていると、自身の唇にアイオライトのそれが重なった。


「……」


ヒト(僕たち)は、こうやって伝えるんだ。愛とか恋とかそういうのを」


 名残惜し気に離された唇の先で、アイオライトの菫の瞳がそう言って色づいた。


(ああ、私達もそうだったらよかったのに)


 藍玉はそう思いながらも、ごくりと喉を鳴らした。

 


 


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