拡声器を握る手
この小説はフィクションであり、作者の政治思想とかその他諸々ぎりぎりアウトなところを表現するものではないことをことわっておきます。
日曜の午後、昔ながらの商店街で、未曾有の国難に直面させられた事がある。
その日、私は怒濤の仕事明けで、昼まで惰眠をむさぼっていた。報告書の執筆に追われ、六日間寝袋を敷いたオフィスの床に比べれば、やはり我が家の布団は寝心地が良い。
布団から身体を起こすと、理路整然と棚に並んだ本の上、いい加減に横たえられたペーパーバック達が目に入った。決めた。午後いっぱいはこいつらと戯れよう。
自室を出て、最低限の身だしなみを整える。居間で洗濯物を畳む家内が、昨日の残りのスープ食べちゃって、と鍋を見やった。
一食分残ったトマトスープに餅麦を入れて胃に流し込んだ。
あー、それ美味しそう、食べたーい。愛娘が後ろから、椀の中身をのぞき込む。
「お前、ご飯はさっき食べたんじゃないのか」
「ちょっと足りなかったんだもん」
「チーズでも一かけ食べていきなさい。トマト汁だから、ワンピースにシミがつくぞ」
はぁい、と娘。珍しい花柄のワンピースは、中学のバドミントン部仲間と出かける準備らしい。楽しそうで何よりだ。
さて、私は自室に戻ると、外国語の厚いペーパーバックを一冊取った。
未曾有の大問題を私に引きあわせた切っ掛けは、家内の不幸な事故だった。実家から届いた玉葱の箱を持ち上げようとした時、腰部に激痛が走ったという。
――鶏胸肉と白菜、それからコンソメよ、お父さん。
居間の長椅子でのびている家内の「遺言」を思い出す。
「鶏胸、白菜、コンソメ、鶏胸、白菜、コンソメ……」
豆腐屋、魚屋、その他諸々の売り文句が飛び交う中、とりつかれたように反芻していた。洋書と珈琲の香り漂う余暇を取り戻す、おまじないでこそないが、専門店の声に気圧されずに済む防衛呪文にはなった。
鶏胸白菜コンソメ、らっしゃいらっしゃいそこの旦那、ぜひ清き一票を、ちょっとおっさんこれいくら、鶏胸白菜コンソメ、コロッケ六つ、我が党の改革は三つ、あーあマジ腹減った、鶏胸白菜コンソメ、まとめて買うから安くしてよ、鶏胸白菜コンソメ、この国の歩みをまとめますと、すり身はカニカマ、私は捨て身で皆様の為に――
レンガ敷きの道のずっと遠くから、誰かが熱弁する声がする。私のくたびれた靴が地面を踏みしめる度、はっきり、大きくなってゆく。
アーケードの端っこ、道路沿いで、商店街には不似合いな講釈を垂れる男がいた。
「ですから、我が国は今、未曾有の国難に直面しているのでありまして……」
聴衆の隙間から見えた、青と白のど派手な幟とお立ち台。おつきの部下には音に聞こえた何某とかいう野党のチラシを配らせ、ツーブロックの政治家が、街頭演説に励んでいた。そろそろ選挙が近い。こういう意識の高い方々が、我が町に来るのは珍しくない。しかしこう、地位とか、意識とか、色々高そうな方がいらっしゃるとはね。
拡声器を握るごつい手は、薄黄とピンクがまだらに混じって、持ち手を潰さんばかりの勢い。ちょっとは労ってやってもいいかと、聞いていく事にした。
「……隣国Pからの圧力、X国との一触即発の荒れた関係、それがどんなに皆様を日夜悩ませている事か……」
言う程考えてないよ、そもそもそうだとすりゃ政治家の努力不足じゃねぇのかい。
「私の辞書に、不可能の二文字はございません。撤退の二文字もございません!」
うん、そりゃ結構な事だ。
「デフレ脱却は勿論、教育無償化、保育施設の充実は当たり前。なんたって子供は国の宝です」
国の宝ねぇ。我が娘は働き者で笑顔もよろしい。勉強の出来はまずまずだがほんとに宝だよ。
「奥さん、少子化対策、毎日ご苦労様です! 皆様もご協力を!」
おいおいその言葉選びはまずいだろ。
「今必要なのは他国に引けを取らぬ優秀な人材。P国に勝てないようではいけませんよ!」
何に勝つってんだ、何に。
……私を除く群衆は全身を耳にして聞いていた。一通り自分の政党のスローガンだの、ぼくのかんがえたユートピアだのを、政治家が語り終えると、どっと拍手の嵐が巻き起こった。
ぱち、ぱち、ぱち……
私も規則正しい拍手で合わせておいた。
「調子の良いこと言って」
「あいつ、X国に買収されてるって噂だよ、クォーターなんだってさ」
「やだねぇ、だから売国奴なんて言われんだよ」
聞こえていないとでもお思いなのだろうか。化粧の濃い中年女達が、電信柱の裏でこそこそ陰口をたたいている。
彼女らの買い物かごからのぞく大ぶりの葉野菜を見て、目当ての店の前を行き過ぎていた事を思い出した。鶏胸白菜コンソメの呪文を唱えつつ、元来た道を戻る。既に某党首と国難の妄想は記憶の片隅に追いやられ、夕食に出されるであろうシチューがどや顔で大脳皮質に陣取っていた。
「何某党ってあるだろ。あそこの党首がさっき演説してるの見たんだよ」
夕餉の席で商店街での出来事を思い出し、それとなく話題をふってみた。
「ナニガシトー? あー、あるね。そういう党」
間抜けな返事をする娘。
「珍しい事。この町の出身なんだったわね」
有力野党の党首だというのに、家内は箪笥の裏で小銭でも拾ったような顔しか返さない。
「あのな……反応がもっとこう、あるだろ。何某党だぞ。そこの党首っつったら新聞の二面に顔が載るような男だぞ」
「何か良い事でも言っていらしたの」
私は彼が長広舌を振るった「国難」をかいつまんで説明した。家内は眉をひそめて鼻から息をつく――それでどうなるの? となけなしの興味を示したのは娘だけ。無理も無い。政治欄で毎日目にする、例の党おきまりのネタばかりだった。特に教育無償化の悲願は数年来の目標だというのに、まだ叶わない。
「お前は母さんと違って碌に新聞読まないんだな。よくわかるよ」
「だって……練習で忙しいんだもん」
浅ましくも自ら選んだ部活を言い訳にする。「だってもヘチマもあるか。来年は高校受験なんだぞ、時事問題くらい勉強しておけ」
「はぁい」
テストも近いんだからしっかりね、と家内も念を押す。
こうして話題は娘の勉強の事にすっかりシフトしてしまった。例の党首のご高説を、すっきりこっきり忘れた我々は、もう何もつっこむ事はなかったのだった。
件の政治家とはおよそ半年後に再会した。ただし、私が読んだ新聞を介した、一方的な「再会」だ。
写真の中の彼はいかめしい顔に余計多くしわを寄せ、必死の言い訳を絞り出している。
「あれ、その人もう辞めちゃうの?」
政治に疎い娘が背後からひょいと紙面を覗く。そうじろじろ見られちゃ集中して読めんというのに。
「まだだな。今は自分でついた嘘の言い訳をしてるとこだ」
保育園と教育無償化の嘘。そんな金はなかったのだ――自分の家族、特に可愛い孫に費やしていたから。子供達の為に集められた税金が、平凡な五歳児一人のお受験に?
――ですから私はただ、子供の為だと語りながら、自分の孫にすら高等な教育を受けさせられない政治家ではだめだと……あなた方とは違うんですよ。
身内か友人に記者がいなくて良かったな、と思う。こんな言い訳の体すら為さない勢い任せの詭弁まで、ばっちり新聞に載せるのだ。私が酩酊した日の絵空事すら、一字一句違わず暗唱されるかもしれない。
「散歩がてら買い出しにでも行くよ。お前もついてくるか」
娘はあまり乗り気ではなかったが、公園でバドミントン相手してやる、と言うと二つ返事で承諾し、道具を探しに行った。
これで良い。運動はそこまで得意じゃないが、人好きのする娘の事だ、私に飽きたら他の誰かを捕まえるだろう。新聞で頭を痛めた日の散歩は、一人よりもう一人多い方がマシになる。
「ですからぁ! わたしはぁ! あなたとはぁ、ちがーうんです!」
曲がり角の先から響くキンキン声。男子小学生が赤銅色のドラム缶の上に立って、空き地をホールに謝罪会見ごっこをしているのだった。手には拡声器に見立てたメガホンが握られている。謝罪会見と選挙運動をはき違えているらしい。
話し方から顔真似まで、これがモデルの党首に中々似ている。子供ながらによく見ているものだと、私は密かに拍手を送った。一方の娘は、少年の不意打ちに顔をしかめ耳を塞いでいる。
あの街頭演説を経ても、私はあの男には投票しなかった。月並みな誤魔化し……否、マニフェストで投票者の気を引く姿は見苦しくて敵わない。
我々の身に降りかかる「国難」だって? まるで対岸の火事だ――少なくとも私や妻子は、P国やX国の輩に痛い目を見せられた訳じゃない。戦争の恐怖が待ち伏せていると言われても、過去の実例も遠すぎて役に立たない。 私生活と政策の区別もつけられん無能が、何心無い市民に杞憂の予言と国難を区別させられるはずもない。
「ちがーうんですぅ! みぞーゆーの、こくなんなんですぅ! こんなひとにまけるわけには……」
「はいはい、うるさいから静かになさいね」 小さな政治家は母親に首根っこをつかまれ退席を余儀なくされた。馬鹿やるんじゃないのよ、あんた宿題もやってないのに、と。
私も私で、娘にシャツの裾をくいくいと引っ張られるまで、物真似芸見物と観想の止め時を見失っていた。
「お父さん、早く公園に行こう。遊ぶ場所がなくなっちゃうよ」
「おい、そう急くな。公園も俺も逃げないから」
公園には子供は何人来ているだろう? 娘が一緒に遊んでやれるくらいの子供。新聞の裏側も満足に読まないような、遊びたい盛りの子供。片手にはバドミントンの道具、もう片手で私の手を引く娘も、私にとってはこいつらとそう変わらぬちび助だ。
こいつらに国難の正体も、遠い国の内紛で死んだ命の数もわかるまい――有り体に言うと私ですら、迷惑な火の粉が降りかからなければ、公園の外で何人が死のうと構いやしないのだ。
〈おしまい〉
新聞を見ても連日似たようなニュースしかやってくれない苛立ちに任せて書きました。後悔はしていません。政府関係者が私を塀の中へ放り込みに来たとしてもね。