月契り
真ん丸なお月さん、綺麗だね。
ほら、もう少しで手が届きそう。
大きくなったらあの月を君にあげるよ。
約束よ、必ずよ。
そう言って静かに笑い合った幼い私達はただただ幸せだったのだと思う。
ぼんやりと月明りが庭を薄く照らす頃、店は媚声に満ちてゆく。
甲高い声がそこら中に溢れるのを耳に入れながらぼんやりと私もきっとこの渦に巻き込まれるのだろう。
二日前、私の親友は好きな人と逃避行した。
名はあきという。
心根の優しい誰からも愛されるような菩薩のような子だった。
どうしようもない私を救い上げようとする、馬鹿な子だった。
呉服屋の旦那があきを欲しがっている、とお母さんが部屋で話をしているのを立ち聞きしてしまった私は急いで秋の元へ走った。
途中で誰かが「走るな!みっともない!」と言っていたきがしたがそんなことどうでもいい。
あき、あき。
あんた、好きな人、いるじゃないか。
「今日ね、あの人が来てくれるんだ。」
まるで花が咲いたように可憐に微笑むあきはこの世で一番綺麗だった。
花魁のあの姐さんだって恋するこのあきには勝てないだろう。
「へえ、あの金無がねえ。
この前来たのはいつだったけか。」
「金無だなんて酷いわねえ。
頑張ってお金貯めてやっと来てくれるのよ、こんな私に会うために。」
あきの想い人には一度だけ会ったことがある。
八尋というどこにでもいそうな優男だった。
なんでも幼馴染で初恋同士だったらしい。
だがあきの家が破綻し世界は一変。
あきはこの店に売られ行方知らずとなる。
だが人生とは本当に分からぬもの、分れたはずの二人の時間が重なってしまう。
八尋は勤め先の旦那に嫌々連れられ訪れた際、お酌をしたのがこのあきだった。
最初はお互い気付かなかったが同郷の話になり、近所の話になり、好きなもの話、全てが少しづつ紐づけされてゆく。
あきは店では決して客には本名を教えていなかったが、何故かこの目の前の男にだけは知ってほしくなった。
だが言ってどうする。
どうにもならないじゃないか。
「・・・もしあきが生きていれば君のような子だったかな。」
八尋が小さく零した言葉があきの心に響いた。
「あき?」
「子供の頃、好きだった子。
だけど急にいなくなっちゃったんだよ。」
あきの心臓が痛いほど高鳴る。
確信はないのに、どこかで何かが後押ししている。
「どうして?」
「なんでも事業に失敗した挙句、そこの旦那は妾と逃げてしまい一家離散したらしい。
まあ、あの頃の僕はまだ子供だったから詳しいことは知らないんだけど。
・・・あきがどこにいるのかを両親に聞いてもはぐらかされたよ。
挙句の果てにはあきの話をするのさえ禁じられてしまってね。」
「そう。」
「そんな家が何だか嫌になってしまって放蕩息子さ。
今はあの旦那様に拾ってもらって働いているんだ。
良い人だよ、本当に。」
ほんのりと赤くなる八尋の横顔が悲し気に見えた。
「僕は未だにあきを探しているんだ。
生きているのかさえ分からないのに、馬鹿だと思うだろう?」
あきは思わず首を振る。
馬鹿だ、馬鹿だ、だけど、もしかして。
「あきが消えてしまう前日、僕は約束したんだよ。」
やめて、お願い。
消えかけていた願いがまた輝き始めてしまうから。
「「月を取れるぐらい大人になったら一緒になろう。」」
ああ、言ってしまった。
二人だけしか知らぬ約束の言葉。
「花菊、もしかして、君、」
「八尋さま、あなたの幼名って、もしかして、」
ああ、これが運命じゃなければ一体何だというのだろう。
ドタドタと店に似つかわしくない足音があきの部屋前で止まり、ガラッと荒々しく戸が引かれた。
「あき、あきっ!
あんたどうするんだい!あのしつこい呉服ハゲ、あんたが欲しいって言ってるらしいよ!」
「・・・知ってる。」
「あんたあの八尋って男に嫁ぐんだって、もうすぐ一緒になれるだって喜んでたじゃないか!
指折り数えて待ってたじゃないか!」
有名でもない女でも身請けするにはそれなりに金はかかるのだ。
下っ端の八尋がそんな金を用意できるはずもない。
あきの年季があけるまであと1年。
1年後には自由の身になれるはずだった。
それなのに。
「落ち着きなさいよ、ほら。」
あきは私に座布団に座るように促した。
「私より熱くなってどうするのよ、馬鹿ねえ。」
その馬鹿ねえ、という言葉の優しい響きが今でも私は忘れることが出来ない。
ごめんね、とあきが眉を八の字にした。
「最初に謝るわ、きっとあなた怒るから。」
「はあ?」
「だけどもう決めたのよ。
私、あの人と逃げることにした。」
「・・・あき、足抜けは御法度中の御法度。
捕まったら殺されちゃうよ。」
「あの人と一緒ならそれも本望だわ。
八尋さま以外と一緒に生きるなんて、そんなもの死んでるのと一緒ですもの。」
覚悟を決めた女の顔だった。
「この世で一緒になれないのなら黄泉でも来世でもいい。
私は八尋さまだけに愛されたいし抱かれたいの。」
あきは八尋と再会し愛し合った日から身体を繋げるような客を一切取っていなかった。
普通の客ならば激怒しただろうが、幸いあきの常連の客は身体目当てではなくあきの母性の優しさや芸に惚れた者ばかりだったので身体の調子が芳しくないのだというと、すんなり諦めてくれていたのだ。
だがそんな客にも例外はいる。
痺れを切らし、無理矢理にでもあきを手に入れようとしているあのハゲのように。
「・・・わかったよ、どうせ私が反対したって行くんでしょ?」
それなら成功して店の者やあのハゲにつかまらないような遠くへ逃げて欲しい。
「いつ行くの。」
「それは言えない。あんたは知らぬ存ぜぬを通しなさい。
もし私が死んでも誰も恨まないこと、いいわね?
これは私が決めたことなのだから誰も悪くないの。」
「悪いのはあきでもない。あきは何一つ悪くない!」
しょうがない子ね、という目であきは私に微笑んだ。
「どうにもならないことがあるのが世の中なのかもしれないわね。
それにまだ死ぬって決まったわけじゃない。
生きるために私はここを出るの、応援してよ。ね?」
その明後日の夜、あきは姿をくらませた。
翌朝はてんてこ舞いだった。
呉服屋のハゲにはあきのことは流行り病にかかったから諦めてくれと知らせをし、店の者はあきの行方を捜すことに徹した。
あきがどこにいるのか知っているかと問い詰められたが私は約束通り知らぬ存ぜぬを通した。
程なくして騒ぎは沈静した。
ここは花街、名もない女のことなどすぐに忘れられてゆくのだ。
すっかりあきのことなど誰も口にしなくなった頃、一通の文が私の元へ届いた。
差出人はあきだった。
東の都で店を持ち、子も孕んだらしい。
「あんたの勝ちだね、あき。
あのハゲ、今度は華に夢中だよ。」
ここでの恋愛は案外軽い。
だがここで本気でしてしまった恋愛は泥沼のようだ。
両極端の恋は遠いようで近い。
花瓶の中で咲いていた小花の花びらが風にふわりと揺れ何枚かが一気に散った。
花の旬が終わり茎だけになった頃、もうきっと誰も見向きもしなくなるのだろうか。
もしも女が花ならば男は一体何だろうか。
「何か面白いもんでもあるのかい、水白。」
「いいえ、ただちょっと・・・ごめんなさい。」
「駄目だろう、今は僕だけの水白のはずだ。
僕のことだけを考えないと。」
「啓介さま、」
接吻を受けながら真新しい布団にのまれた私は、いまだ恋を知らない。
いつか私もあの子のように月をくれると約束してくれる人が出来るのだろうか。