4日目 1
Heisei 2112 - 8/18 (Thu) – 09:48 – fine
彩芽は近所の友達と公園へ。紫音は家の中でまったりと。藤黄はせっせと家中を掃除している。
「なぁ、藤黄」
「何、紫音」
紫音は、黄色いソファの上でクッキーを食べていた。焼きたての少し温かみの残る、藤黄特製クッキー。ラムレーズンを使った、しっとりとしたクッキー。
口の中にあるクッキーを飲み込むと、紫音はソファの背の後ろで、せっせと濡れ雑巾による壁磨きをしている藤黄に目線を向けた。
「本来、家の掃除ってその家の人がするはずだよな。何で客の藤黄がしているのかな、と」
「そりゃ、僕がしたいからだよ」
即答。
藤黄は「当然の事でしょ?」と言い、せっせと掃除を続ける。朝早くに起きてクッキーを作り、その後に家中の床という床を磨き、廊下はもうピカピカだった。歩くのが勿体無いぐらいに。挙句の果てに壁までもが磨かれ始めると、止めずにはいられなかった。
「ちょっと、藤黄。お願いだから、手伝わせて」
「え、何で?」
壁を磨いていた藤黄が、クルリと方向転換をする。
「何でって。罪悪感半端無い。此処俺の家だよね? 此処、俺の家だからね?!」
紫音はソファの上に立ち上がった。そしてその紫音の目には、どうしてか、涙が滲んでいる。その様子を見て藤黄が驚いたのは、言うまでも無い。
「い、良いよ。パジャマと着替えを貸してもらったし。この天気なら早朝に干した服も、あと一時間もすれば乾くだろうし。病人さんは大人しくクッキーでも食べていてくださいな~」
藤黄は言葉の最初は慌ててしまったが、後半では何とかいつもの口調に戻る。額に冷や汗をかきながら、いつもの笑顔で紫音を見つめた・・・・のだが、藤黄の脳内で考えられる展開の中で一番最悪な展開を、無残にも、運命の女神は選んでしまった。
「食べたよ! 美味しいよ! というか、俺より藤黄の方が病人らしい病人だろ?! 良いから手伝わせろよ、お願いだから!」
わっと泣き出した紫音に、藤黄は焦ってしまう。紫音の明るい性格から考えて、泣かれる道だけは無いと思っていたのだ。それだけに、藤黄にとって、この状況はかなり辛い。
「そこまで必至になる事かなぁ、これ」
中学一年生男子が泣くなよ、と、藤黄が思い始めた時だった。
「・・・・ん?」
掃除のために使っていた洗剤の香りに混じって、どことなく、お菓子とは別の、嗅ぎ慣れた臭いが藤黄の鼻をかすめた。
「・・・・こ、これは・・・・っ!」
藤黄はすかさず、自分で作ったクッキーを手に取る。そしてそれを、自分の鼻に近付けた。
「・・・・あー・・・・そういう事」
―― 仄かに、アルコールの香りがする。
「ごめんなさい」
「良いよ、香り付けに使ったラベンダーの香料(無添加)の中身を確認しなかった僕の失態だ。紫音が落ち込む事じゃないよ。っていうか、紫音ってお酒強いね!」
炎天下。乾いた白いパーカーに身を包む藤黄と、それに合わせて薄紫色のパーカーを着た紫音。
朝焼いたクッキーの上に、藤黄が家の仕事で使っていたお酒入りスプレーをかけてしまったのだそうだ。ラベンダーの香料を入れたつもりになっていたらしい。
「いやぁ、あの家ってさ、ずっとラベンダーの香りがしているから、いつの間にか鼻の感覚が微妙に麻痺したみたいだ」
「そんな一晩で・・・・や、ありえるか」
2人は、小、中、高、大学、保育園、そして養護学級のある、青桐町のちょうど中心に向かって歩いていた。幸いにも、空に雲がかかり、昨日よりは幾分か涼しい一日になる予定。紫音の弟―萩徒 錬夏―たっての願いで、2人は錬夏を迎えに養護学級に向かっていた。町に不慣れな藤黄を案内しながら、養護学級に向かっていた。
他の場所にある物よりも色が濃く見えるポストがある公園を通り過ぎ、住宅街に1つしかない駄菓子屋を通り過ぎる。紫音の家から学校までの道のりに、それらはあった。故に学校へ通う時と何ら変わりない時間で学校に辿り着く。時間に直して15分。
走ってもいないのに流れ出る汗を拭いながら、紫音達は『高校の門前』に立った。
「見事に人影が無いねぇ」
「そりゃ、この炎天下に水道が使えないのは、生命維持の問題に関わる事柄だからね。あ、高校の右にあるのが中学校の敷地で、左にあるのが小学校の敷地だよ、藤黄」
人差し指の先端を『中学校の敷地』に向けてから、紫音は手を右から左に移動させた。全体的に赤茶色の色が使われた目前に広がる高校の校舎を一度視界に入れる。一瞬の光景を目に焼き付けつつも、紫音の指に合わせて目線をずらす藤黄の一言は、
「・・・・小中学校の校舎が見えないけど?」
だった。
「当然だよ。高校の校舎が門のすぐ傍にあるのに対して、小学校と中学校の校舎は、まず、グラウンドがあって、その奥に校舎があるから」
入口のある方角は同じらしいが、上から見ると、互い違いに校舎が設置されているかのような錯覚に陥ってしまうようだ、と、紫音は説明する。ただこうして実際に高校校舎の前にいるだけでそう思うのだから、むしろ上から見た方が錯覚は起きにくいのではないか、と、藤黄は思った。
さて、この日の目的は町の案内でも、学校の案内でもない。紫音の弟を養護学級へ迎えに行く事である。紫音は車が2つ以上は通れそうな道を、中学校のある右の道へと歩き出した。
住宅街の、車がやっと2台通る事の出来る道とは違い、広い。にも拘らず、車の通りはそれほど無いようだった。
「ここは住宅街だからね」
「や、それ答えになっていないよ、紫音」
「え?」
紫音はキョトンとした顔付きで、後ろを歩いていた藤黄に向き直った。表情にほんの少しの驚愕と疑問が混ぜられて、目を何度もしばたたかせている。
「住宅街って人が住むわけで、車が通ったり置かれたりする場所じゃないだろ?」
「・・・・へぇ」
笑顔を失わない程度に、藤黄は無表情になった。
「な、何、その返答は。藤黄の町じゃ違うのか?」
「道路は、道路だし。じゃあ何。住宅街の道路は、あくまで人が通る為の道だと」
「? そうじゃないのか?」
首を傾げる紫音に、色々な意味で肩の力が抜けてしまう藤黄。その顔は、漫画などでよくよく見かける、『目が笑っていない笑顔』そのもの。一言で表すならば、苦笑というやつだ。
全世界で、綺麗に整備されているアスファルトの上を、車ではなく人だけが通る場所が幾つあるのだろうか。紫音の言い方からして、おそらく1つの地域単位で住宅街での車使用禁止は謳われている。つまりは、住宅という住宅の周りを、1台の車も通る事が無い。
安全面では文句の付けようがなく、移動の際にほんの少し不便という点を除けば、正に、理想郷といえる場所である事を、藤黄は察した。
確かに、紫音の家から15分で学校に辿り着く。この学校は町の中心に位置し、紫音の家は円形になっている町の、端から中心までの約1/3(学校側から)程度の距離に位置していた。故に、単純に考えて町の端から端までを歩こうと思うと、1時間半かかる。
2人はそれなりにゆっくり歩いて来たので、実際はそれよりも短い。町の大まかな探検であれば、1日で事足りるという事でもある。
「・・・・この町って、変なのか」
再び歩き出した瞬間に、小さく呟かれた程度の紫音の言葉を、藤黄は聞き逃さなかった。それまで口だけしか出来ていなかった笑みを顔全体に広げた。
「いやいや、ただ単に珍しい場所だなぁと思っただけだよ」
「珍しい、ね」
「そうそう。こんなに安全が確保された場所はめったに無いよ。きっと、事故も少ないだろうね」
「あぁ、そうだな。確かに少ないよ」
紫音は微笑を浮かべると、藤黄から顔を逸らす。
そして。
「・・・・少ないだけで、あるにはあるよ」
はっきりと、しかし小さく呟いた。




